1572年9月 山科の戦い<三>
康徳六年(1572年)九月 山城国山科
戦闘開始から数刻後の正巳の刻(午前十時ごろ)にはすでに戦の大勢は決していた。元より兵力数で劣っていた織田信隆指揮する軍勢一万八千は徐々にその数を減らし、この頃には信隆の本陣があった山科本願寺は南殿跡まで敵勢の侵攻を受けていた。一方、対峙している高秀高指揮する六万四千は、信隆勢を南殿跡まで追い詰めると松永久秀、荒木村重、別所安治ら三将の軍勢を、当初の軍議において取り決められていた山科より南…醍醐寺より伏見へと至る道へ進軍させ、残る軍勢にて信隆の息の根を止めるべく猛攻をかけていた。
「おのれ、信隆様には指一本触れさせんぞ!!」
その中で唯一、多勢の秀高勢を奮戦して押しとどめていたのは、信隆勢左翼を受け持っていた前田利家であった。利家は愛槍の十文字槍を振るって馬上から敵兵を薙ぎ倒し、それに利家配下の村井又兵衛長頼も応えるように奮戦していた。すると、その利家の姿を見つけて戦いを挑んだのは、大高義秀の家臣である逸見昌経であった。
「おう、音に聞こえし「槍の又左」とは貴殿か!この逸見昌経、その首貰い受ける!」
「ふん!御託はいらん、かかって参れ!」
利家は昌経からの挑戦を受け入れると、馬を駆けさせて躍りかかって来た昌経の一太刀を受け止めた。昌経は野太刀を片手に槍を持つ利家と数合打ち合ったが、武勇において一日の長がある利家は昌経の打ち込みを華麗に受け止め、やがて昌経の隙を見つけると次に昌経が打ち込んできた時に素早い突きを繰り出した。
「はぁっ!!」
「甘いわっ!!」
その素早い突きは昌経の右肩を貫き、これを受けた昌経は苦悶の表情を浮かべて打ち込みを止めてしまい、そして次の瞬間には利家が頭上から振り下ろした一閃を受けてしまった。
「ぐはぁっ!」
「口ほどにもない!これが「鬼大高」の侍か!?」
頭上から真っ二つにされんばかりに斬り捨てられた昌経が馬上から落馬すると、利家は大高勢を挑発するような言葉を浴びせた。これによって士気を高めた前田勢は更に奮戦を展開。大高勢の将兵を着実に減らしていっていると、その利家の目の前に大高義秀本人が馬上にいるのを見止め、利家は槍を掲げて義秀に挑んだ。
「そこにいたか大高義秀!信隆様の為に、その首戴くぞ!!」
「へっ、生憎だがてめぇの命はここまでだ。鉄砲隊、構え!!」
利家が言葉を発して馬を駆けさせ、長頼や付き従う将兵たちと共に自身に襲い掛かってくる姿を見た義秀はその勇猛さを見ても自信たっぷりに受け止め、自らの配下の鉄砲隊を展開させると標準を利家らに合させてから号令を発した。
「撃てぇ!!」
この大高勢が装備していた火縄銃は無論、宝渚寺平の戦いで猛威を振るった改良火縄銃であり、義秀の号令によって引き金を引かれたその銃弾は真っ直ぐに利家配下の将兵を打ち抜き、のみならず利家が乗馬していた馬を打ち抜いて利家を地面に落馬させた。
「ぐうっ、しまった!」
「殿ぉーっ!!」
上手く受け身を取って地面に転がり込んだ利家の姿を見て、家臣の長頼が駆け寄ると、その周囲を囲むように大高勢の足軽たちが前田勢の掃討を始めた。これによってじわじわと包囲が狭まる中で長頼は利家に後退を進言した。
「殿、急ぎ本陣付近までお戻りなされ…ぐっ!?」
「又兵衛!」
利家に呼びかけている中で長頼の苦悶を聞いた利家が長頼の方を振り向くと、長頼の背中めがけて義秀正室の華が薙刀を突き刺しており、背後からの一突きを受けた長頼は苦痛の表情を浮かべたまま地面に倒れ込んだ。利家が地面に伏して力尽きた長頼の側で辺りを見回すと、大高勢の足軽の他に昌経と同じ元若狭武田家臣であった粟屋勝久や桑山重晴など義秀配下の家臣たちが皆一様に切っ先を利家に向けていた。自身が包囲された事を悟った利家は自らの命を懸けて目の前の義秀に襲い掛かった。
「くっ、うおぉっ!!」
利家は槍を突き出して義秀に襲い掛かった。しかし次の瞬間、義秀は手にしていた槍を振るってその突きを払い、それによって利家が尻もちを搗くように倒れ込むと、足軽たちはその利家めがけて四方八方から槍の切っ先を向けた。それによって自身の敗北を悟った利家に対し、義秀は槍を構えなおした後に尻もちをつく利家に向けて言葉をかけた。
「へっ、てめぇは秀高がゆっくり相手してやるぜ。縛り上げろ!」
「くぬっ、無念…。」
尻もちを付いている利家に義秀配下の将兵たちは利家の抵抗を抑えつつ、利家を縄目にかけて縛り上げた。ここに秀高が尾張を統一して以降、信隆を最古参で支え続けた前田又左衛門利家は遂に秀高配下の義秀によって捕縛されることとなったのであった。
利家捕縛の一報は、すぐさま信隆の下に届けられた。利家捕縛の方を伝えた河尻与四郎秀長よりその情報を聞いた信隆は大いに驚いた。何しろ尾張から落ち延びてからという物、ずっと自身を助けてくれた股肱の家臣でもあり、その衝撃はただならぬ物があった。
「…利家が捕らえられた?」
「はっ、御無念にございますが…。」
「叔母上、もはやこれまでにございます。」
利家捕縛の報に接した織田信忠は信隆に対して潮時を告げた。その言葉を聞いた信隆はその場に戻って来た明智十兵衛光秀や秀長ら家臣たちを視線を交わした後に、側にいた鎧兜姿の村娘の方を振り向いた。
「そうですか。ならば…」
「な、何を…?」
ボロボロの小袖に身を包んでいた信隆は村娘に向けて手にしていた打刀を抜くと、その切っ先を村娘に見せて脅迫するような文言を言った。
「貴女にはここに残っていただき、「織田信隆」として死んで頂きましょう。国綱、それに勝正。先の伏見城の際に果たせなかった殿の役目、託しましたよ。」
「ははっ、お任せを。」
「ま、待ってください!」
信隆は先の伏見城攻防戦の際に殿を任せていた三木国綱と池田勝正に改めてこの地に踏み止まる下知を伝えると、未だ受け止めていない村娘の言葉をよそに光秀や秀長、そして信忠らと共に本陣の陣幕を潜って外へと向かって行った。それを見届けた勝正はすぐさま側にいた味方の将兵に対して命令を告げた。
「近くの草木に火を放て!兵火で失火が生じたように見せかけ、殿の逃亡の目くらましをするのだ!」
「ははっ!!」
この命を受けた信隆配下の将兵たちは、すぐさま当たりの草木に火を放ち、あたかも火矢によって火災が生じたように偽装工作を行い始めた。これによって火の煙によって遠くからの視界は遮られ、その間に信隆ら主だった者達は抗戦し続ける足軽たちをよそに四方八方へと散り散りになって逃走し始めた。彼らの合流地点である紀伊は串本を目指して…。
「既に中央の敵勢も崩壊。南殿跡の急ごしらえの防備じゃあ、大した時間もかからずに勝利を得られるだろうね。」
「いや、信隆の首を見るまでは安心できない。より一層気を引き締めるべきだ。」
一方、その信隆本陣を攻めている秀高はというと、兵力の差を活かして正攻法で信隆を追い詰めており、その中で小高信頼から見通しを告げられると予断を許さない状況だとしてなおも兜の緒を締め直す発言をした。それを聞いた信頼も首を縦に振って頷いた。
「うん。既に森勢が細川勢と共に南殿に踏み込んだようだし、きっといい戦果が聞けると思うよ。」
「そうか…。」
「あ、あれは何じゃ!?」
と、その時に秀高本隊の中にいた深川高則が南殿跡にある信隆本隊の方を指差して声を上げた。秀高がその方角を見てみると南殿跡の方角から一筋、二筋の黒煙が上がり始めており、それによって南殿跡の信隆本陣から火が上がった事を秀高は悟った。
「火が上がった?戦いによる発火か、それとも…。」
秀高は黒煙が上がった様子を見て信隆の動きを警戒していた。かつて何度かの直接対決の際にも、信隆は自身の劣勢が明らかとなるとそそくさと撤退する癖を知っていた秀高にとって、もしかすれば既に撤退している可能性もあると見ていた。一方、その南殿跡の信隆本陣では、いの一番に攻め込んできた森可成勢の前に信隆勢の足軽たちは続々と討ち取られていき、やがて本陣の陣幕と目と鼻の距離まで敵が迫って来ていた。
「「殿」!もはやここまでにございまするぞ!!」
「わ、私は…。」
「おう、織田信隆はあれにある!すぐさま首を討て!!」
信隆の影武者である村娘を殿と呼ぶ勝正の姿を見て、すぐ近くまで迫っていた森家臣の林新右衛門通安が味方の将兵に信隆の存在ありと促した。その間に発せられた村娘のか細い声などかき消されるような戦の喧騒は、やがて陣幕の中に入ってきた通安は太刀を構えて、躍りかかって来た勝正を一刀で斬り捨てた。それを見た国綱は陣幕の中に残っていた将兵に抗戦を呼びかけた。
「ええい、「殿」には指一本触れさせるな!」
「笑止!」
国綱の言葉を聞いた通安は素早く国綱に襲い掛かり、立ちはだかる国綱を太刀で払ってその首を胴体から弾き飛ばした。そして通安の後を追いかけて陣幕の中にやって来た可成の嫡男・森高可の姿を見た通安は、目の前にいる大将首の信隆を指してこう言った。
「さあ若。敵大将の首を取って大将首をお取りなされ!」
「おぉ、忝い通安殿!」
通安から大将首を譲られた高可は信隆の影武者である村娘の目の前に立つと、手にしていた槍を構えて呼び掛けた。
「織田信隆殿、我が父に代わって貴女との因縁、ここで引導を渡す!!」
「ひ、ひぃっ!!」
村娘は自身に向けられた槍の切っ先におびえ、反射的に陣幕の外へと出ようとしたがその行動を見た高可はすぐさま動き、逃げ出している村娘の背後に槍を一突きで突き刺した。
「うぅっ…な、なんで…。」
「森高可!織田信隆の首を討ち取ったり!これは恩賞も厚かろう!」
「おぉーっ!!」
その突きを受けて地面に倒れ込んだ高可の呼びかけを聞いた配下の将兵たちは一斉に喊声を上げた。ここにこの憐れな村娘は信隆に拉致された挙句、信隆として敵の手にかかってその命を落とした。しかし手に掛けた高可らにしてみればこれこそ信隆の首であると信じ切っており、高可は倒れ込んでいる影武者である村娘の首を取り、それを首桶に収めるとそのまま秀高の本陣へと向かって行った。この「信隆」の討ち取りに寄って戦の勝敗は決し、ここに山科での戦いはものの三刻余りで決着したのであった。




