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1572年9月 石部城に集う諸将



康徳六年(1572年)九月 近江国(おうみのくに)石部城(いしべじょう)




 康徳(こうとく)六年九月二日。ここは前野長康(まえのながやす)が居城である石部城である。先月二十六日に遠江(とおとうみ)浜松城(はままつじょう)を発ち、三十一日までに伊勢(いせ)亀山城(かめやまじょう)に着陣していた高秀高(こうのひでたか)指揮する軍勢は、月が変わった一日には東海道(とうかいどう)の難所・鈴鹿峠(すずかとうげ)を踏破して山中俊好(やまなかとしよし)山中屋敷(やまなかやしき)に着陣(約16.9km)。そしてこの日には最後のひと踏ん張りとばかりに甲賀(こうか)を経由してここ、石部城への入城を果したのである(約30.2km)。遠江・浜松から近江・石部までその距離合わせて約五十五里と七町(約216.7km)。往路の際には合わせて十三~四日で進んだ距離を復路では述べ八日で引き返してきたこの強行軍は後に「東海大返(とうかいおおがえ)し」と呼ばれ、それを果した秀高の名声を大いに向上させたのである。




 そしてこの日の夜、秀高らの軍勢が到着した石部城では走り抜けて来た将兵たちを(ねぎら)うように十分な食事と睡眠をとるように促した。その一方で松永久秀(まつながひさひで)細川藤孝(ほそかわふじたか)ら共に従軍して来た諸将の兵たちにも先着していた馬車に積んだ武具を返還し、戦の備えを改めて整えさせた。そうした中で秀高は諸将を石部城内の本丸館に招集し軍議を開いた。この軍議には秀高に命じられ亀山より強行軍に加わった長野藤定(ながのふじさだ)も参列していた。


「藤定、伊勢安濃津(いせあのつ)での武具を運んで荷船の収集や運搬、並びに急遽の命令にも(かかわ)らず良くここまでの強行軍に従ってくれた。改めてではあるが有難く思うぞ。」


「いえ、殿の天下取りの戦に参陣できるは我らの(ほま)れ。我ら長野工藤(ながのくどう)家の名に()けて不忠者共を討ち果たして御覧に入れる!」


 軍議の冒頭、秀高はこの陣に参加した藤定に向けて感謝の念を述べ、それを受けた藤定もこれより先に控える戦に向けての厚い意気込みを語った。これを聞いた秀高は首を縦に振って頷き、その後にこの場に勢揃いする諸将の方を振り向いてから挨拶を述べた。


「さて、ここにいる諸将におかれては、延べ一週間にも及ぶ強行軍にも拘らず、主だった将兵の脱落無くこの石部城までたどり着いてくれたこと、この秀高、厚く感謝申し上げる。」


 秀高は共に強行軍に付き従ってくれた諸侯に対してお礼を述べた後、その場に勢揃いする諸将に対して深々と頭を下げた。これを見た諸将たちは皆一様に秀高につられて一回、頭を下げた。その後、秀高はゆっくりと頭を上げると諸将全てが頭を上げ終わった後に口を開いて言葉を続けた。


「…この強行軍は、(みやこ)に巣食う逆賊・覚慶(かくけい)…今は足利義秋(あしかがよしあき)と名乗っているそうだが、その義秋や背後にいる織田信隆(おだのぶたか)らの耳にも入っているだろう。きっと、信隆らの出鼻を大いに(くじ)いたはずだ。」


「如何にも。のみならず我らの帰参は朝廷内で近衛(このえ)卿(近衛前久(このえさきひさ))の義秋に対する将軍宣下を阻んでいる二条晴良(にじょうはれよし)卿らにとっては、まさに心強い一報になったに相違ありませぬ。」


 秀高がここ、近江・石部城に到達した事は風の噂となって京にまで届いていた。事実、朝廷内では強引なまでに覚慶…義秋への将軍職宣下の工作を推し進めていた近衛前久らは大いに出鼻を(くじ)かれ、将軍宣下の機運は大きく後退したのみならず、石部城まで帰還した秀高の動向にすべての視線が注がれる事態となった。この事を発言した藤孝の言葉を聞いた秀高は、こくりと首を縦に振った後に言葉を返した。


「藤孝殿の言う通りだ。そこでまず、これから先の事について諸将に伝えておこうと思うが、我らは明日の昼過ぎまでこの石部に留まって態勢を万全に整え、午後から瀬田(せた)から大津(おおつ)を経由して京に進み、反逆者たちを征伐する。これに意見ある諸将はおられるか?」


「然らば、言上(つかまつ)る。」


 秀高が発言した明日以降の動きを聞き、諸将の中でいの一番に声を上げたのは久秀であった。声を上げた久秀に諸将の視線が集まる中で、久秀は上座に座す秀高の方を振り向いて意見を述べた。


「これまでの風聞の上で推測いたすが、その織田信隆なる将、今日明日でも京を発ってこちらの方まで進んでくる恐れがありまする。これに対し何らかの方策はあるので?」


「それについてはこの私から返答させて頂きます。」


 久秀が敵である信隆の事を懸念する意見を述べると、これに秀高に代わって返答したのはその場にいた兵馬奉行(へいばぶぎょう)小高信頼(しょうこうのぶより)であった。信頼は久秀に対して言葉を返した後、スッと自身の床几(しょうぎ)から立ち上がるや両脇に別れる諸将の真ん中に置かれている机の上にあり、一枚の絵図を指し示しながら久秀の問いかけに答えた。


「この琵琶湖(びわこ)西岸の京への入り口…大津口(おおつくち)山中口(やまなかくち)には我ら高家の拠点が既にあります。特に山中口にある坂本城(さかもとじょう)宇佐山城(うさやまじょう)にはそれぞれ後詰を中心とした守兵が守りを固めているので、こちらへの攻撃は無いかと思います。」


 坂本城の城主は、北陸(ほくりく)に出征中の尼子紀伊守勝久あまごきいのかみかつひさ、そして宇佐山城の城主はかつて三方ヶ原(みかたがはら)の戦いで非業の戦死を遂げた坂井政尚(さかいまさひさ)である。この両城については殆どの軍勢が出払っていた為に守兵は僅かであったが、信頼の命を受けた信頼正室で伊賀(いが)に在国していた(まい)が差配を行い、伊賀にいた予備兵をこの両城へと向かわせており防備に関しては何の不都合も無かった。これを軍議の席で述べた信頼は、一たび上座の秀高の方に視線を向けた後、再び諸将の方を見てから言葉を続けた。


「よって、我々はまず明日の早朝より、瀬田の唐橋を越えて大津を抑えます。ここを抑えれば信隆は逢坂(おうさか)の関を越えては来ず、むしろこの山科(やましな)一帯に陣を敷くでしょう。ここを我らの決戦地とします!」


「山科…なるほど、戦をするにはそこしかあるまいか。」


 信頼は諸将に対して決戦地の場所を述べた後に机をバンと強く叩いた。その手はちょうど山科の位置が絵図に描かれている場所におかれてあり、それを見た久秀は頷きながらポツリと(つぶや)いたのだった。




 山科…京より東方、東山(ひがしやま)の向こうにある山科盆地(やましなぼんち)一帯にある農村地帯であり、この北端部を東海道(とうかいどう)東山道(とうさんどう)が通る交通の要衝でもあった。京からしてみればここを越えて南禅寺(なんぜんじ)を過ぎられてしまえば入京を阻む要所は全く皆無となり、秀高らはここが信隆ら反逆者との一戦の場所であると定めていた。ここにはかつて本願寺(ほんがんじ)が総本山を置いていた山科本願寺(やましなほんがんじ)の跡地があり、そこより西に西北に約五町(約545m)先には四手井城(していじょう)と呼ばれる小城があった。秀高らはこの時点で、これら拠点が存在する山科での一大決戦を想定していた。




 すると(おもむろ)に、高家の軍奉行(いくさぶぎょう)でもある大高義秀(だいこうよしひで)が、得心がいったように頷いている久秀の姿を尻目にして秀高にある一案を献策した。


「秀高、一つ提案があるんだが、この久秀殿や従軍する諸侯たちの中から部隊を割いて、そいつらをこの山科手前の髭茶屋追分(ひげちゃやおいわけ)から南に向かって伏見城(ふしみじょう)方面に向かわせるのはどうだ?」


「南か…」


 東海道を伝って山科に入る手前に、髭茶屋追分と呼ばれる分岐点で南に向かう道がある。それを向かえば醍醐寺(だいごじ)の脇目にして伏見城の西側に出ることが出来る為に、義秀はその道を使って南…伏見方面から京への牽制をかけようと献策をした。するとこの献策を聞いた久秀は、上座の秀高の方を振り向いて賛同するように言葉を続けた。


「秀高殿、その義秀殿の申し出通りに、この松永弾正が向かい申そう。何しろ我が弟(内藤宗勝(ないとうむねかつ))が丹波(たんば)で孤軍奮闘しておる故、一刻も早くそれの手助けを致したく思うてな。」


「ならば、この荒木村重(あらきむらしげ)も同道致そう!」


 久秀の言葉に続いて村重やその隣にいた別所安治(べっしょやすはる)らが顔を秀高に向けて志願するそぶりを見せると、それを見た秀高は首を縦に振ってから志願してきた久秀らの方を見て言葉を返した。


「よし、ならば山科より南には松永・荒木、それに別所(べっしょ)殿の隊も加える。すぐさま伏見城の軍勢と合流した後、南から京へと進んでいただきたい。」


「承知した!」


「お任せあれ!!」


 秀高が久秀らに南への進軍を命ずると、それを聞いた久秀や村重、安治らが首を縦に振って頷いた。ここに松永・荒木・別所、それに小寺官兵衛孝高こでらかんべえよしたかの四隊は山科へ進軍の際に南へと向かう旨が命ぜられ、当日は別動隊として動く事となったのである。それを伝えた秀高は残る諸将に向けて当日の役目を言い渡した。


「残りの隊は俺と共に大津に向かう!大津到着後はその場で野営し、その次の日より逢坂関を越えて山科に進む!良いか!」


 その瞬間、秀高はスッと自身の脇に差していた一本の脇差を鞘ごと抜きとり、目の前に出すや鞘から刀身を抜き、そのまま突然に刃を自身の頭部の後方に持ってくるや、(まげ)元結(もとゆい)に当てて刀でそぎ落とした。脇差によって髷が切り落とされた後に総髪(そうはつ)に纏められていた髪がそのまま垂れ下がるように下に落ちて断髪した姿を見た諸将は大いに驚いた。しかし、この行為には秀高のある信念が秘められていたのである。





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