1558年6月 桶狭間前哨戦<一>
永禄元年(1558年)六月 尾張国大野城
永禄元年六月八日。鳴海城を出た高秀高ら五百余りの軍勢は、ひとまず大野城に入城し、そこで城主の佐治為景・佐治為興父子並びに、事前に派遣されていた山内高豊らと合流し、早速その場で軍議を開いた。
「為景、この城の足軽たちはどうなってる?」
「はっ。既に槍足軽・弓足軽の外、少数ながらも鉄砲足軽も揃えておりまする。これならば、誰が相手でも戦えましょう。」
為景からその報告を受け、秀高はそれに頷くと、為景の隣にいた為興がふと、大高義秀と華夫妻の姿を見てから秀高に言った。
「…殿、聞けば此度の戦から、義秀殿の妻でもある大高御前が御参陣なされるとか。その腕前、是非とも戦場で拝見したく思いまする。」
「…そうか、為興は華さんの腕前を見るのは初めてか。義秀と息の合った立ち振る舞い、是非とも見ててくれ。」
その為興と秀高の会話を聞いていた華は、床几に座りながら秀高に向かってこう言った。
「ヒデくん?こう見えても私はブランクがあるのよ?少し期待しすぎじゃないかしら?」
「はっはっは、よく言うぜ。この二か月間、徐々に体を慣らしてたくせに。やる気満々じゃねぇか。」
その華の言葉を聞いて、義秀が腕組みしながら少しうれしそうにこう言うと、華はふふっ、と笑って義秀に反論した。
「じゃあヨシくん、そんなに言うなら、もし私が戦功第一になったら…私にも知行をくれるかしら?」
その言葉を聞いて一同は驚いた。女性でもある華が戦場に出ることが珍しいのに加え、もし戦功を立てたなら知行が欲しいと言ってきたのだ。
「殿、いくら御前の頼みとはいえ、知行を宛がうのは…」
為景が華の言葉を聞いた上で、秀高にこう意見すると、秀高は為景に対して言った。
「まぁまぁ、聞けば、女性には結婚の際、化粧料という財産が与えられる制度があると聞いた。名目上はその化粧料として宛がうという事にすれば、何とでもなるさ。」
秀高の言葉を聞いた為景は腑に落ちたように納得すると、頷きながらこう言った。
「確かに…それならば何の問題もありますまい。」
「ふふっ、決まりね。ヒデくん、その時はよろしく頼むわね。」
その華の言葉を聞き、秀高はどこか微笑ましい雰囲気を感じたのか、微笑みながらもそれに頷いた。
「…さて、伊助。今の状況の報告を頼む。」
秀高は話を切り替えるように、この軍勢についてきていた伊助を呼び、今の時点での情報の報告を求めた。それを受けた伊助は絵図を広げると説明し始めた。
「されば…敵の今川勢別動隊九千は、昨夜のうちに境川東岸の刈谷にて、水野忠重の軍勢と合流。その足で渡河を始めたようにございます。」
「渡河が終わるのは、今日中か?」
秀高のこの問いを聞いた伊助は、それに頷くと更に言葉を続けた。
「敵は今日中にも渡河を終わり、その足で坂部城で一泊。久松定俊殿の軍勢を加え、そのままこの大野へと向かってくるかと。」
「…するとここへの到着は、翌日の午後あたりか…」
秀高は伊助の報告を聞いた上でこう言うと、その話を聞いていた為景が秀高にこう進言した。
「殿。敵は前回の水野信元の敗戦を学んでおるはず。奇襲は通じますまい。」
「分かっている。だからこそ、今度はこの城で戦うのではなく、打って出て戦う必要がある。」
すると、その発言に驚いた為興が秀高に向かって強い口調で進言した。
「殿!敵は九千!こちらは僅か千余りしかおりませぬ!これではまともに戦えますまい!」
「もちろんこちらも何の策もなく戦う訳じゃない。秘策があっての事だ。伊助、例の話はどうなった?」
秀高は一同にこう言った後、その場にいた伊助にこう話しかけた。すると伊助は懐から一つの書状を取り出し、それを秀高に差し出した。
「…そうか。これで勝てる。」
その書状の内容を見た秀高はこう言うと、その書状を為景らにも見せた。
「…こ、これは!…しかし、これが本当ならば、」
「…父上、これはこちらにも勝機があるかと。」
その書状の内容を一読した為景父子は口をそろえ、この戦いでの勝機を見出した。そしてそれは、続いて一読した義秀夫妻も同様であった。
「ははっ、こりゃあ面白れぇ事になるな!」
「…でも、まさか本当に応じるなんて…」
その一同の雰囲気を見ていた秀高は、さらに自信を強め、同時に勝機をもわずかながらに見出した。
「…良いか、これより明日の策を伝える。」
そう言うと秀高は、その場の諸将たちに、明日の戦いにおける作戦を指示し始めたのである…
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その日の夜半。大野城から山を隔てて数十里先にある坂部城では、城主の久松定俊が、今川勢別動隊の大将である葛山氏元を歓待していた。
「これは氏元様、よくぞお越しになられました。」
「うむ。今宵はここで休息じゃ。しばしの間、城を借りるぞ。」
氏元は定俊にそう言うと、定俊は家臣に氏元を寝所まで案内させた。それからしばらくすると、九千もの軍勢は城外に陣幕を使って野営を張り、その中で寝泊まりをし始めた。
「殿、水野殿がお越しになられました。」
その寝静まった深夜。定俊の元に家臣が忠重の来訪を報せに来た。それを聞いた定俊は、家臣に対して忠重を奥の間へ案内させるように告げた。
「おぉ、よくぞ来られた。忠重殿。」
その場に来たのは他でもない、兄の信元亡き後に水野家の家督を継いだ忠重であった。
「…このような夜半に、いったい何の用でござるか?」
「そなたを呼んだのは、この私です。」
すると、その部屋の中に一人の女性が入ってきた。この女性こそ、定俊の正室でもあり、忠重から見れば姉にあたる於大の方であった。
「姉上…なぜこのような夜半に呼んだのです?」
「忠重、単刀直入に申します、明日の戦、お前は手を引きなさい。」
於大の口から出た、信じられない言葉を聞き、忠重は驚きのあまり声を上げて反論した。
「な、なぜですか!なぜ私が明日の戦から手を引けと!」
「…それは、我ら久松家が、秀高に寝返るからです。」
於大の言葉を聞いた忠重は驚愕した。於大の言葉が本当だとすれば、紛れもない謀反の誘いでもあると感じたのだ。
「姉上…なぜ、なぜ秀高に寝返るのです!秀高は…兄の仇なのですぞ!」
「…忠重、お前はもう水野家の長。兄・信元の事を思えば、秀高に対して膝を屈することはできないでしょう。」
於大が信元の無念を思いながらも、忠重の立場を考慮した上でこう話しかけると、定俊は於大の言葉に続いてこう言った。
「だが、我ら久松家はもともと織田の所属。信元さま亡き今、真に頼れるのは才知の誉れ高い秀高殿に付くしかない。これは謀反などではない。我ら小豪族の…生き残りをかけた手段なのだ。」
「…」
その定俊の言葉を聞いてもなお、忠重には秀高への憎しみが勝っていた。だが、目の前にいる定俊や於大の覚悟の上の言葉の前には、渋々ながらも膝を屈するしかなかったのである。
「…分かりました。そこまで仰せならば、明日以降の戦では、威勢を上げた上で撤退としましょう。」
「忠重…無理を言ってすみません。」
姉でもある於大が忠重の立場を鑑みてこう言うと、忠重は立ち上がってこう言った。
「しかし姉上、これだけは忘れないでくだされ。我が水野家にとって秀高は仇敵!いずれ奴を討ち果たし、兄の墓前に捧げてみせまする!」
忠重はそう言い放つと、そのまま部屋から去っていってしまった。それを見た定俊は、城の内部に既に潜り込んでいた伊助に対してこう言った。
「…伊助殿、秀高殿に先般の話、ご承知なされたと報告してくだされ。」
「ははっ!ではこれにて。」
伊助はそう言うと、その場から去っていった。そして翌日の九日。坂部城を出た今川別動隊の前に、秀高率いる軍勢が山を背にして、街道を塞ぐように布陣していたのである…。