1572年9月 戦況動く
康徳六年(1572年)九月 山城国伏見城
康徳六年九月一日夜半。覚慶(この時には還俗し足利義秋と名乗る)を擁立する織田信隆が軍勢は、高秀高が居城・伏見城を一万五千の軍勢で攻城戦を行っていた。しかし信隆勢は伏見城の市街地を囲うように構築された総構えの突破に手間取り、「仕寄せ」と呼ばれる塹壕・防塁戦術を取って城方と交戦を継続していた。その中で北側の総構えの入り口にあたる一つの矢倉門付近で、戦の流れを変える異変が起こった。
「…!?なんじゃ!」
北側の総構え防衛を指揮する秀高家臣・高浦藤吉郎秀吉は隅櫓の上で床に寝転がり睡眠をしていたが、突如として鳴り響いた轟音に叩き起こされるように目を見開いた。むくっと起き上がった秀吉はすぐさまスッと立ち上がり、音の聞こえた方角を除く窓から外の様子を伺うと、そこには信じられない光景が広がっていたのだ。
「も、門が消えた!?」
そう、秀吉の視界の先…僅か五町(約550mほど)先にあった外へと通ずる立派な矢倉門が跡形もなく消え去り、その残骸と思しき物体が門の辺りにぽっかりと出来た穴の中に納まっていたのだ。この光景を見た瞬間、秀吉は手を掛けていた窓枠を拳で強く突き、この現象の原因をその場で言葉に出した。
「やられた…土竜攻めか!!」
土竜攻め…秀吉がこの攻城戦術の名前を知っていたのには理由がある。遡る事数年前、畿内に進出した秀高が当時の覇者であった三好長慶征討の兵を挙げた際、三好家の主要拠点の一つである芥川山城を攻略した際に城の早期落城を期すために行われたのがこの「土竜攻め」という坑道戦術であったからだ。それが時を経て今、敵である織田信隆らがそれを行ったことに衝撃と怒りが沸々と湧きあがり始めた秀吉は、騒ぎを聞きつけて隅櫓の最上階に上がって来た高浦小一郎秀長の方を振り向き、矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「秀長!敵は土竜攻めを仕掛けて参った!恐らくそう時もかからぬ内に敵があの城門跡より雪崩れ込んで参るぞ!」
「兄者!総構えが破られた以上は一刻も早く伏見城の大手口まで下がらねばならぬぞ!」
秀長は兄・秀吉に向けて一刻も早い伏見城の主郭部への後退を進言した。するとこの進言を聞いた秀吉は、秀長の言葉に続けて即座に返答した。
「分かっておる!すぐさま味方の将兵に伏見城への退避と、鉄砲兵を街道沿いの商家の二階に配置せよ!そこから進んでくる敵に矢玉を浴びせてやれ!」
「心得た!!」
秀吉の命を受けた秀長は返事を発すると、一人先んじて隅櫓の階段を下りて行った。そして秀吉も崩れ去った城門の方を一回視線に収めた後、秀長の後を追うようにして隅櫓の最上階から降りて外に出た。
「おぉ、秀吉どん!」
「家久殿!時は急を要する。すぐさま城へと撤退致そう。」
隅櫓の外で秀吉が出てくるのを待っていた客将の島津家久に向け、秀吉が家久や背後にいた上井覚兼に城への撤退を促すと、家久は肩に火縄銃をかけながら即座に反対意見を述べた。
「んにゃ、こん拙者も商家ん二階に上がっせぇ、そこから道を進んでくっ敵に銃弾を浴びせてやりもんそ!」
家久はこの伏見城の籠城戦に客将の身分として参戦していたが、総構えが突破されたこの状況において攻め寄せる信隆勢の迎撃を行うと秀吉に志願した。この志願を受けた秀吉はその場で家久と後方にいた覚兼の顔をじっと見つめ、その瞳の奥に燃え滾る闘志と覚悟のようなものを咄嗟に感じ取ると、その志願を快く受け入れた。
「…分かり申した。その心意気、喜んで受け入れましょう。」
「おう!ならば急いで行っぞ覚兼!」
「ははっ!」
この秀吉の言葉を受けた家久は感謝の念を述べると、すぐさま配下の覚兼を引き連れてその場から一足先に去って行った。秀吉は戦に向かう両名の後姿を見送ると、弟の秀長らと共に守兵を引き連れて伏見城の主郭部に後退。同時期には西側を守っていた柴田勝豊らも総構え突破の報を受け、即座に伏見城へと後退するべく行動を開始したのであった。
一方、総構えの外側…即ち伏見城へ攻撃を行っている信隆らの軍勢の中では、仕寄せで構築した塹壕の裏から遠くの方に見える矢倉門が音を立てて地面に崩れ去った様子を、信隆と共に見ていた織田信忠が徐に言葉を発した。
「…総構えを突破したようですな。」
「えぇ。随分と時が掛かってしまいましたが…。」
信隆は少し自嘲するような言葉を信忠へ返した。信隆の主たる目的はあくまでも伏見城の陥落であり、その第一段階である総構えの突破に大きく時間を費やしたことは信隆にとって不本意な事でもあった。しかし今、障害となっていた総構えの突破を示している矢倉門の崩壊を見て、少し光明が見えたかのように信隆は土竜攻めの指揮を執っていた河尻与四郎秀長に向けてその働きを称賛する言葉をかけた。
「秀長、当初の予定とは大きく異なってはしまいましたが、矢倉門の突破、よくやってくれました。その功、いずれ厚く賞しましょう。」
「ははっ!ありがたきお言葉!」
信隆は総構えの突破については当初、木幡山山麓にほど近い水堀と漆喰塀を破って突入する案を立てていた。しかし、探るにつれて水堀の存在が障害となっている事を知り、目標を大きく変更して土竜攻めによる矢倉門の崩壊を成し遂げたのだった。その陣頭指揮を執った秀長からの言葉を聞いていると、そこに一人の武将が信隆へ報告に現れた。この者の名は池田勝正といい、数年前の三好征伐の際に荒木村重に降伏するを良しとせず、父・池田長正の元より出奔して消息をくらましたが、今は信隆の配下として行動していたのである。
「申し上げます!!総構え突破を聞いた西側の将兵も大手口へと下がる気配ありと、前田利家殿からの報告にございます!!」
「そうですか。分かりました。ここは西側の方は捨て置き、北側から一路伏見城の主郭部を目指すとしましょう。勝正、その旨を利家に命じなさい。」
「ははっ!!」
その勝正より西側の攻撃を指揮する利家からの伝言を聞くと、信隆は利家への返答を勝正に託し、それを受けて勝正がその場を去って行くと、信隆は塹壕の中に潜んでいる味方の将兵に向けて采配を振るった。
「全軍、このまま市街地を経由し伏見城に攻め掛かります!全軍前進!」
「おぉーっ!!」
この信隆の命を受けた信隆勢は、崩壊した矢倉門の箇所から総構えの中に突入。周囲に城方の兵がいない事を確認すると背後にて待機する信隆らに向けて合図を発し、これを受けた信隆勢も続いて総構えの中に足を踏み入れた。こうして攻城開始から五日余りで伏見城の総構えは突破されることになったが、この数日間の戦闘で信隆勢は千数百人余りが死傷。少なからず損害を負ってしまったのである。




