1572年8月 美濃からの加勢
康徳六年(1572年)八月 尾張国熱田神宮
康徳六年八月三十日。前日の二十九日に休息を取った三河・岡崎城より出発した高秀高ら京へと向かう大強行軍は、その日の内には矢作川・境川を渡河して尾張に入り秀高挙兵の縁起の城・鳴海城に到着(約25.1km)。そしてこの日には鳴海城を発って一路、伊勢方面に向けて走り出していた。
「…それにしてもありがてぇ事だぜ。松永や細川の軍勢は農兵が主体の筈なのに、大きな脱落者も出さずに付いて来てくれてる。」
鳴海から伊勢路へと向かう途上。分岐点の一つとして定めた熱田の中心地・熱田神宮の付近で馬上からがむしゃらに走っている味方の将兵を見ている秀高に、大高義秀が背後の馬上から言葉を発した。それを聞いた秀高は手綱を引いて義秀の方を振り向くと、首を縦に振ってから義秀に言葉を返した。
「あぁ。やはり三河の岡崎で休息を取ったのが効いているな。今日はこのまま木曽三川を渡河し、長島城を経由して桑名まで向かいたいと思うが、信頼、手配の方はどうだ?」
「概ね上手く行ってるよ。」
秀高より目配せを受けた兵馬奉行の小高信頼は、これから向かう伊勢の手前に流れる木曽・長良・揖斐の長大な木曽三川の渡河対策や、野営地となる桑名の町についての準備を秀高へ即答するように告げた。
「桑名の町衆たちはこちらを迎え入れる準備を既に終えていて、尚且つ木曽三川の渡河も尾張・伊勢に残っていた漁民たちに命じて小舟を供出させ、舟橋を設けているよ。流石に馬は難しいけど、人だけなら簡単に渡河が出来るね。」
「そうか。ならば一先ずは安心だな。」
この舟橋は、秀高が浜松城で将軍・足利義輝の落命を受けたと同時期に信頼が走らせた家臣・富田知信らによって尾張・伊勢両国の河川領域に住まう漁民たちに命じて作らせたもので、その小舟の総数は約五百艘にも及ぶ大舟橋になっていたのだ。これによって容易に対岸の伊勢に渡ることが可能となり、その二人の会話を義秀の脇で聞いていた正室の華が秀高に語り掛けた。
「ヒデくん。伊勢まで着けば近江、引いては京は目前よ。」
「えぇ。きっと覚慶や信隆らは大いに度肝を抜かれる事でしょう。」
「殿、申し上げます!!」
と、秀高の元に馬に乗って駆け込んできたのは側近の山内一豊であり、一豊はその場にやって来た背後の方角を指差しながら、秀高に報告した。
「ただ今、美濃口より森可成様の軍勢三千!当方へ加勢するべく罷り越しました!!」
「何、可成が!?」
秀高が一豊よりその報告を受けて指をさしている方角を見ると、正にその方角から「鶴の丸」を旗指物に施した数千の軍勢がこちらに向かって来ていた。これこそまさに高家次席家老・森武蔵守可成の軍勢であり、その軍勢が秀高らより離れた位置に留まると、その中から二騎の騎馬武者が秀高の元に駆け込んできた。これぞ誰であろう可成本人であり、可成は背後に嫡子・森高可を連れて秀高に挨拶した。
「殿!森可成、京への転進に加わりたく、馳せ参じましたぞ!」
「可成、何をしているんだ!美濃の方は大丈夫なのか!?」
この突然の援軍に驚いた秀高は、先の軍議で取り決められた東濃方面からの転進を問い詰めるように尋ねた。すると可成はニヤリとほくそ笑みながら自身が東濃方面で対峙していた武田義信・村上義清ら甲信諸将の体たらくをその場で語った。
「何、我らと相対している武田や村上と言った者ども、どうやら陣中で内輪揉めを起こしているようでこちらに攻め掛かる様子が一切無くてですな。それに拍車をかけるように上杉勢の敗戦が伝わると、武田が先んじて陣を引き払った次第。」
「武田が勝手に陣を引き払った?」
数日前の宝渚寺平での上杉軍大敗の一報が美濃・信濃国境部にある木曽福島城に届けられると、何を思ったのか武田家当主・義信は勝手に陣を引き払い、それに釣られるようにして諏訪勝頼・大井貞清らが続々と対陣すると、いつしかこの方面の鎌倉府勢は自然消滅するかのように退陣してしまったのだった。この有様を可成はあきれ果てるようにして言葉を続けた。
「如何にも。その様な拍子抜けを受けて我らも肩透かしを食らっていた所、高景や綱景らが信濃への監視を受け持つのでこちらに加勢するべしと申して参り、わしも居ても立っても居られずにこうして参ったのでござる。」
「…そうだったのか。」
可成にしてみれば消化不良となっていた戦への情念を、秀高が京へと転進する軍中に加わることによって発散しようとする心意気を受けた秀高は、その心意気と加勢の申し出を受けてこくりと首を縦に振って頷いた。すると可成は高可を背後に据えながら秀高にある事を持ち出した。
「殿、我が子・可隆が若殿の身代わりとなり、名誉ある討死を遂げたと聞きますぞ。」
「可成…可隆の事、本当に無念だったと思う。」
先の三方ヶ原の戦いにおいて可隆は秀高の嫡子・高輝高の身代わりとなって壮絶な討死を遂げた。この事を可成から持ち出された秀高は神妙な面持ちをして亡くなった可隆の事を悔いる発言を可成に掛けた。すると可成は務めて気丈に首を横に振って否定した。
「何の。可隆は己が役目を果してその命を散らしたのです。それにきっと当人は、若殿の命を長らえることが出来て寧ろ本望でありましょう。」
「おっさん…。」
この血縁者が死んだ事実がある中で泉下の可隆を誇りに思う発言をした可成を見て、義秀が秀高の背後でポツリと呟いた。すると可成は手綱を引いて秀高の側に馬を進めると、瞳に闘志を燃やす様に決意のこもった表情を見せて秀高に所信を告げた。
「この森可成、我が子に成り代わって不忠を働いた奸賊・織田信隆を討ち果たして見せましょうぞ!!」
「…ありがとう。可成。」
可成は亡き子・可隆の弔い合戦とばかりにこれから行われるであろう信隆との一戦に並々ならぬ闘志を露わにした。これを受けた秀高もその心意気を買い、ここに可成らの軍勢参入を認めたのである。すると可成はふと秀高らの目の前を走り抜けていく味方の将兵に目をやってその姿に驚いた。
「それで…ほう、これはかなりの強行軍ですなぁ。具足を脱いでおるとは。」
「そうだ。可成、加勢してくれるならここで具足を脱いで一緒に走ってもらうが、それで良いか?」
秀高より言葉を受けた可成はふと、自身が引き連れて来た配下の軍勢の方を振り向いて装備を確認した。秀高より具足の脱衣を促された可成は自身の配下の様子を確認した後、秀高の方を振り返って言葉を返した。
「まぁわしや配下の兵共はそれで宜しいかと。されど、わしはこの人間無骨だけは手放すつもりはありませぬ。これだけは肌身離さず持って参りますぞ。」
「そうか。分かった。」
可成は手に持つ得物の人間無骨を秀高に見せながら言葉を返し、それを受けた秀高も快く受け入れるように首を縦に振った。こうして森勢を加えた秀高らは歩を進めて進軍。舟橋を渡って長島城を経由しつつ木曽三川を渡河。対岸の桑名の町にてその日の野営を張った。そして翌三十一日には桑名より東海道を伝って前田利久の居城である亀山城に到着。この二日間の走行距離は合わせて約十八里(約70km)程になり、この僅か五日の間に四十三里(約168km)にも及ぶ長距離を主だった脱落者も出さずに走り抜けた。その京へ急行する秀高勢とは別に、この翌月の九月一日、秀高が京の居城・伏見城で大きな動きがあったのである…。