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1572年8月 朝廷の暗闘



康徳六年(1572年)八月 山城国(やましろのくに)(みやこ)




 八月二十七日。伏見城(ふしみじょう)において壮絶な攻防戦が繰り広げられている中、洛中(らくちゅう)と呼ばれる京の朝廷では(みかど)に向けてとある奏上が為されていた。この奏上を発議したのは関白(かんぱく)近衛前久(このえさきひさ)であり、その奏上というのは足利義輝(あしかがよしてる)の襲撃に加わった覚慶(かくけい)への将軍宣下を行うべしという内容であった。


「…先の将軍御所襲撃以降、京の人心は大いに混乱しており、同時に将軍家の継嗣が途絶える事をこの臣は大いに憂慮しておりまする。願わくばここは帝のご叡慮(えいりょ)(もっ)て、覚慶へ将軍宣下をお下しあるようお願い申し上げまする。」


「関白殿、それは正気の沙汰とは思えませぬな。」


 宮中・清涼殿にある謁見の間、関白である前久は御簾(みす)の奥にいる帝に向けて覚慶への将軍宣下に関する大義を説いた。するとそれを脇の席で聞いていた二条晴良(にじょうはるよし)は、眉をひそめながら帝へ言上した前久に言葉をかけ、覚慶が行った所業を糾弾するような文言を放った。


「聞けばその将軍御所の襲撃に、他ならぬ覚慶が加わっていたというではありませぬか?のみならず覚慶は己の野心のために織田信隆(おだのぶたか)と申すどこの馬の骨とも知れぬ奴腹(やつばら)と組み、実母まで害を成す始末。これに将軍職を宣下すれば朝廷の威信は地に落ちまするぞ。」


 この時、晴良を始めとした京の公家たちの耳にも、将軍御所襲撃に際した生母・慶寿院(けいじゅいん)、並びに弟・周暠(しゅうこう)弑逆の事実は入っていた。それを踏まえた上で悪魔の所業とも言うべき殺害に加担した覚慶への将軍宣下を晴良が拒むと、前久は視線を晴良の方に送って語気を抑えて反論した。


「畏れながらその儀は、覚慶の(あずか)り知らぬところにて…。」


「では信隆が将軍の生母を殺したと?それはそれで大問題ではありませぬか。」


 前久の言葉を聞いて九条兼孝(くじょうかねたか)が即座に反論した。宮中において前久ら近衛流(このえりゅう)と相対するように対立していた九条流(くじょうりゅう)の兼孝は、自派が掴んだ情報を元に将軍宣下を行う対象の覚慶について糾問した。


「聞けば覚慶は信隆の擁立を受けていると(もっぱ)らの噂。その信隆が将軍家の血縁者を殺したとなればそれを配下にする覚慶にも問題がありましょう。」


「然り!それに覚慶は還俗(げんぞく)もしておらぬ仏僧の身。それが将軍職を得るなど以ての外にございましょう!」


 兼孝に続いて一条家(いちじょうけ)の当主である一条内基(いちじょううちもと)までもが覚慶への将軍宣下に反対を示した。当時、五摂家(ごせっけ)のうち鷹司家(たかつかさけ)は当主不在によって断絶しており、残る四家の中で近衛は将軍宣下に賛成、一条・九条・二条は将軍宣下へ反対の意向を示し真っ二つとなっていた。それでも関白という座を活かして将軍宣下を行いたい前久は、仏僧のままの覚慶について言及した内基へ反論した。


「…畏れながら覚慶はこの翌日、還俗なさるとの事にございまする。」


「還俗したとて、朝廷がかような問題を持つ者に将軍職は渡せませんなぁ?」


 覚慶の還俗を持ち出した前久に、言葉を差し挟むようにして晴良が即座に反論した。御簾の奥の帝がこれらの舌戦に耳を傾けて聞き入っている中、晴良は(しゃく)で口を隠しながら前久に向けて更に反論を述べた。


「確かに京の人心を収める事は必要にございまする。されど、それを将軍御所襲撃の首魁どもが成せるとは到底思えませぬ。それに還俗した覚慶に将軍職を渡した所で、日ノ本には何の益にもなりますまい。」


「晴良卿!帝の御前で無礼な物言いは控えられよ!」


 余りにも乱暴な物言いをした晴良を叱るように前久が反論すると、その反論を聞いていた兼孝が実父・晴良を援護するように前久に向けてこう言葉をかけた。


「…関白殿。(けい)は将軍職を覚慶に与えるべしとお考えであろうが、それに賛同する堂上公家(とうしょうくげ)は多くあるまい。」


「そうとは限りませぬ。既に徳大寺公維(とくだいじきんふさ)卿、久我通堅(こがみちかた)卿、大炊御門経頼おおいのみかどつねより卿、四辻公遠(よつつじきんとお)卿の他、地下家(じげけ)ら多くの公家の支持は得ておりまする。」


 この、徳大寺・久我・大炊御門・四辻といった堂上公家は近衛流とはきわめて近い関係性にあり、言わば近衛流の支配下にあった公家たちであった。その他に自らの工作によって地下家の多くの公家たちが将軍宣下に賛同している旨を晴良らに示したが、兼孝はその言葉を聞いてふっと鼻で笑った。


「地下家の支持など意味を成しますまい。聞くところによれば清華(せいが)大臣(だいじん)羽林(うりん)といった堂上家の大半は覚慶を将軍職に据えるは反対だと申しておりますぞ?」


「…足利家に将軍職を与えぬは、それこそ世の乱れを招きましょうぞ!!」


 兼孝の反論を聞いて前久は身を乗り出して語気を強めた。するとその言葉を聞いた帝は側にあった鈴を鳴らし、それを耳にした御簾の向こうの前久らは姿勢を正して帝の方を振り向いて一斉に頭を下げた。その後、御簾がゆっくりと上がってその奥から帝が姿を見せると、帝は目の前にて頭を下げている前久に向けて言葉をかけた。


「…前久、今は時期尚早である。覚慶には務めて京の人心を安撫せしむべしと伝えよ。」


「帝…。」


 この帝の玉音を聞いた前久が頭を上げて帝の姿を見ると、帝は前久の顔をじっと見つめて諦めきれない前久を諭すようにしっかりと言葉を発した。


「良いな?前久。」


「…ははっ。」


 この玉音を受けた前久はこの場での将軍宣下は降りないと判断。そのまま再び頭を下げて謁見の間から下がっていった。その後、晴良や兼孝らも帝に一礼した後に御簾が下げられたのを確認し、謁見の間から下がって退廷していった。




「何とか、将軍宣下の阻止には成功しましたな。」


「されど、あの帝の事。時が経てば覚慶へ将軍宣下を行うと言い出しかねませぬ。」


 その退廷する最中、その場での将軍宣下阻止に成功した兼孝と内基は御所の廊下を進む晴良の後ろで互いに会話を交わした。その両名の会話を背中で聞いていた晴良は、前を向いて歩きながら背後の二人に向けて言葉を発した。


「なれば、秀高(ひでたか)殿には一刻も早く、京への御帰京を願い出ねばならぬな。」


「如何にも。」


 晴良らが覚慶への将軍宣下に巨費を示したのは(ひとえ)に、高秀高(こうのひでたか)への肩入れ以外なかった。将軍・足利義輝(あしかがよしてる)が命を落とし、あろうことか弟の覚慶がそれに加担したとなれば足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)に日ノ本の大権を託す道はないと晴良らは考えており、自らの生存戦略を秀高に託さんとしていたのである。そう考えていた晴良に向けて、兼孝はその分水嶺…いわばターニングポイントともいうべき内容を口にして語った。


「分水嶺となるは、伏見の城が持ちこたえられるか、ですな。」


 晴良らにとって頼みの綱とも言うべきは、秀高が京での居城としている伏見城の存在であった。もしこの先、伏見城が落ちるようなことになれば帝は前久の奏上を受け入れて覚慶に将軍宣下を行うであろうことは確かな事であり、逆に伏見城が敵の攻撃に持ち堪え、その間に秀高が京に昇って来れば覚慶の将軍宣下は立ち消えとなる。晴良は兼孝よりそれを聞くと首を縦に振って頷き、遠く伏見にて戦う将兵たちの健闘をその場で祈っていた。最早、京の南で行われている一つの城をめぐる攻防戦は、その意義以上に大きな日ノ本の流れを左右する大きな事象に変化していたのである。この日、八月二十七日。秀高が軍勢は強行軍で三河(みかわ)岡崎城(おかざきじょう)に到着していたのであった…。





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