1572年8月 上方からの情報
康徳六年(1572年)八月 遠江国浜松城
室町幕府将軍・足利義輝、暗殺さる…
鎌倉府率いる軍勢との戦いに専念する幕府侍所所司・高秀高がこの一報に接したのは、義輝が暗殺された翌日の康徳六年八月二十五日の正午ごろであった。この報が秀高の元へ内々に知らされた後、浜松城本丸にある本丸館内には情報漏洩を防ぐために徹底した緘口令が敷かれ、同時にその中では秀高に一報を届けた小高信頼や来訪していた北条氏規も加わって情報の整理が行われていた。
「伏見から報告に来た忍びは昨日の朝に伏見を発ったそうだよ。だとするとこの後にも、伏見やその付近からの報告は入ってくるだろうね。」
「でもよ、それじゃあ将軍が討たれたって情報は、この城下にいる諸大名にも知られるんじゃあねぇのか?」
浜松城の本丸館にある一室で伏見からの情報を精査している中、信頼の発言に対して大高義秀が尋ねていた。この時、総大将でもある秀高はこの一室の中には姿を見せずにいたが、それにお構いなく氏規が義秀の問いかけに返答した。
「それは一番懸念していることにございますが、兎も角は情報の真偽を確かにする必要があるでしょう。対策はそれからでも遅くはありませぬ。」
「そうだけど、もし京に転進するとして、その準備だけは今からでも整えた方が良いわよ?」
「その心配はいりません。」
義秀の正室・華が発した京へ転進する際の準備を問われた信頼は、この浜松に来る前に家臣の富田知信や塙直政らに事前に命じた内容を報告した。
「既に知信や直政に命じて三河・尾張・伊勢三国の兵糧庫や武具庫を開放し、更には名古屋の盛政殿に重勝、それに貞勝に命じて街道の整備や足らない馬車の製造、それと各地への分配を行うよう手配しています。」
「なるほどな…馬車が用意できれば、兵たちに大きな負担を負わせずに転進出来るな。」
「信頼様!!」
義秀らが転進に際しての評議を行う中、襖を開けて中に入ってきたのは信頼の家臣として迎えられた元筒井順慶の家臣・島左近清興である。清興は片手に密書の一通を持ちながら現れると、主の信頼へと駆け寄って密書を差し出した。
「先ほど、稲生衆の者がこれを。」
「…!!」
清興から指し出された稲生衆からの密書を受け取った信頼は、その場で一言も発さずに封を解いて中身を確認した。すると信頼はその中身を見て目を丸くするように驚き、その反応を見て義秀らが身を乗り出す様に信頼を一斉に見ると、信頼はその場の義秀らに向けて密書に書かれてあった内容を伝えた。
「上様の落命と同時に、将軍御所の門前に数名の幕臣の首が晒されたそうだよ。晒されたのは政所執事の摂津晴門殿、それに同じ改革派の幕臣、柳沢元政殿、細川藤賢殿、それに藤孝殿の実父である三淵晴員殿…。」
「何だって…そいつら全員、秀高に近い幕臣ばかりじゃねぇか!!」
この場にて初めて、将軍御所襲撃と共に命を落とした晴門らの死が正式に伝えられた。秀高の幕政における協力者でもあった晴門や元政、それに藤賢らの死を聞いた義秀らは大いに色を失うように衝撃を受け、その中で信頼はもう一つの内容を義秀らに告げた。
「それだけじゃないよ。その将軍御所を襲撃した下手人なんだけど、下手人は織田信隆。信隆の側には上様の弟である覚慶を始め、大舘晴光ら保守派の幕臣たちが呼応したって…。」
「…信隆だと?」
信頼から発せられた信隆の名前を聞き、それまで机の上に両手を置いて項垂れていた義秀が顔を上げるやスッと姿勢を正し、ドカドカと足音を立てながら近づくと次の瞬間には信頼の胸元を掴み、首を締め上げるように顔を近づけて怒りをあらわにした。
「信頼…てめぇ今信隆って言ったか!?覚慶を担ぎ上げて上様を討ったのが、俺らの仇敵である織田信隆だって言ったのか!?」
「ヨシくん!落ち着きなさい!!」
義秀の怒りを見て華が義秀の脇から手を回し、掴みかかっている信頼から引き離しつつ怒りを宥めるように諭し、同様に信頼の家臣であった清興やその場にいた氏規も加わって信頼と義秀を引き離そうとした。しかし、それらの引き離しを物ともせずに義秀は信頼に掴みかかっており、その中で信頼は胸元を締め上げられながらも、義秀の顔から一回も背けずにじっと見つめ、自身の感情を吐露する様に義秀に言葉を返した。
「…義秀、それは僕も悔しいと思ってるよ。尤も、書状には継意殿の連名で京の諜報にかかっていた多羅尾光俊の不首尾を詫びる詫び状が添えられているよ。」
「そうよヨシくん。光俊からの詫び状がある以上、責任の追及は止めるべきだわ。」
伏見の留守居である継意から、京の諜報に当たっていた光俊の非を詫びる添え状を右手に持って義秀に見えるように上げると、その背後から華が再び義秀の怒りを抑える言葉をかけた。するとようやく義秀は信頼の襟元から手を離し、それを見た華も両脇から手を離されるとその場にあった机へと向かい、自身の中にあった怒りの感情を机めがけてぶつけた。
「…くそぉっ!!」
その言葉と同時に義秀が机を大きく殴りつけ、その衝撃によって盾で出来ている机がその場で音を上げて崩れると、義秀はその場で崩れた机を見つめた後に一息ついて深呼吸し、気持ちを落ち着かせた後に下手人である信隆への恨みを言葉にして出した。
「覚えてやがれ信隆。今度という今度はその首、ねじ切ってやる!!」
義秀は信隆への敵意を燃やすような言葉をその場で発し、同時に義秀の言葉を聞いていた信頼や華、それに氏規達は義秀程ではないがそれぞれの胸中で信隆を倒すべしとの念を強くしたのであった。その後、清興や氏規によって再び机が拵えられる中で氏規は信頼へその場にいない秀高の事を尋ねた。
「…それにしても信頼殿、肝心の殿はどこにおわす?」
「うん、秀高は一人にしてくれって言って、今はこの城の天守閣に登ってるよ。」
この時、秀高は将軍・義輝の死を受けてからというものの情報の整理を信頼らに一任し、自身は単身で浜松城の天守閣へと向かって行った。その状況を改めて信頼の口からきいた義秀は、秀高の胸中を察するように言葉を発した。
「…そうか。思えばあいつが一番、この報告を受けて悔しいんだよな。」
義秀のこの発言を耳にした信頼らは、その発言に賛同するように首を縦に振った。やがてその場に届けられた情報をある程度整理した信頼は、城内の統制をする嫡子・高輝高を補佐するよう氏規や清興に言い含めると、自身は義秀夫妻を伴って天守閣にいる秀高の元へと向かって行ったのである。




