1572年8月 伏見への一報
康徳六年(1572年)八月 山城国伏見城
「将軍御所が襲撃されたですって!?」
京における重大な異変は、襲撃から一刻後には高秀高が京の拠点としている伏見城にもたらされた。宵闇深い真夜中に行われた凶行であったが、襲撃の第一報を届けに来たのは辛くも将軍御所より脱して来た蜷川親長であり、それに応対した秀高の第一正室・玲や第二正室・静姫など正室たち、そして伏見城留守居役の筆頭家老・三浦継意などが居合わせる中で静姫が大きな声を上げるとそれに親長はこくりと頷いた後に言葉を続けた。
「はい、将軍御所は僅かな敵の奇襲を受けて混乱状態になり、その最中に上様は…襲撃してきた者達によって…。」
「あ、兄が…!?」
親長の口より上様…足利義輝の死を告げられた妹の詩姫は、突如告げられた兄・義輝の死を受けるやその場でふらつき始め、次には床にどうっと倒れ込んで失神した。それを見た静姫は即座に詩姫の側に駆け込み、詩姫の頭を上げて呼び掛けた。
「詩、詩!しっかりしなさい!」
「誰か、詩姫を奥に!」
静姫の呼びかけの脇で玲が侍女に命令を伝えると、蘭たち侍女の面々は詩姫の両脇を抱えて奥の座敷へと連れて行った。その詩姫が去った後に安否が気がかりになっている場の空気を変えるように、継意が親長へ状況を尋ねた。
「…それで、京の状況は如何に?」
「全て混乱状態となっておりまする。町衆たちは上へ下への大騒ぎとなっており、各諸侯衆の邸も去就を決めかねておるとか…。」
「継意、京にいた稲生衆は何をやってたの!?」
静姫は京にて不穏分子の監視に当たっていた稲生衆の不手際を詰った。確かに昨日まで稲生衆は京の監視を行っていたが、織田信隆らが将軍御所を襲撃する際には監視する稲生衆の忍びどもを虚無僧が片っ端から掃討しており、それによって襲撃の事実を掴むことは出来なかったのだ。その事を突かれた継意は面目ないとばかりに返答した。
「面目次第もありませぬ。実は昨日の午後より報告に来る忍びの数が減り始めており、多羅尾光俊に事態の把握を命じておりましたが…。」
「姫様、それにご家老…面目次第もありませぬ!」
と、その場にて控えていた光俊はそう言った直後、忍び刀を抜いて心臓を突こうとした。するとそれを見た継意は素早く光俊の手から忍び刀を取り上げると、一発光俊の頬を叩いた後に光俊を一喝した。
「早まるでない!この場での自害は許さぬ!死を以て詫びる暇があるのなら、すぐさま敵の情報を掴んで内情を探って参れ!」
「…ははっ!!」
忍び刀を取り上げられた光俊は臍を噛むように悔しがりながら、継意からの命を受けると汚名返上と意気込んでその場から去って行った。そしてその場に残っていた秀高の第四正室・小少将と第五正室・春姫はその場でのやり取りを踏まえて各々に言葉を発した。
「そんな…上様が…。」
「静姫様、御所が狙われたという事は、次の狙いはこの伏見…。」
「…そうなるわね。」
春姫からの言葉を受け、静姫は首を縦に振って頷いた。義輝が敵の手にかかった以上は、次の狙いが幕府の中で実権を有していた秀高の居城たるここである事は間違いなく、その会話を聞いていた玲は継意に向けて伏見城の防備を尋ねた。
「継意さん、伏見の守備は整ってますか?」
「はっ。既に殿よりご下命された通り、九千の兵にて城内、並びに総構えの守備を行っておりまする。たとえ敵勢が攻め寄せようとも、全て跳ね返して見せましょうぞ。」
「継意様、申し上げます!」
と、そこに伏見城の守将の一人・高浦藤吉郎秀吉が現れて家老の継意に向けて火急の要件を伝えた。
「先ほど、毛利隆元殿の家臣・国司元相殿が早馬として来訪し、その元相殿曰く将軍御所を襲撃したのは織田信隆であり、その傍らには上様のご実弟・覚慶の姿があったと!」
「織田信隆…!?」
この秀吉の報告によってはじめて、静姫らは将軍御所を襲撃した実行犯が秀高の宿敵たる織田信隆その人であるという事が知れ渡った。同時にその脇に義輝が弟・覚慶がいるという事は信隆の狙いが将軍職の挿げ替えであるという事であり、それを秀高や小高信頼から聞いていた玲や静姫は信隆の思惑をその場で看破していた。その中で秀吉は元相からもう一つの伝言を継意に伝えた。
「また、元相殿においてはこの場に留まり、京から落ち延びてくる諸侯衆の留守居役の収容を手伝うと申しておりまする!」
「相分かった!元相殿にはよろしくお伝えせよ!」
「ははっ!!」
継意は秀吉に向けて元相への伝言を頼むと、秀吉はそれを受け入れてその場を去って行った。その後、元相は一人伏見城に留まって京から逃走してくる高家などの留守居役家臣たちや妻子たちの収容を手伝ったのだった。そして秀吉が去った後、静姫は玲と伏見城に留まっていた舞とで会話を交わした。
「なるほど…私たちは信隆に一杯食わされたという訳ね。」
「やっぱり上様を討ったのは、他でもない信隆だったんだね。」
「姉さま、そうなるとこの伏見に敵が攻めてくると思うよ。」
玲に向けて舞が敵…信隆の今後の動きを予測した。秀高を仇敵として付け狙う以上、信隆らの狙いがこの伏見城であることは火を見るよりも明らかであり、それを脇で聞いていた継意は舞が述べた懸念を払拭するように勇ましい返事を述べた。
「方々ご案じあるな。この伏見は某が秀吉と共に創意工夫を凝らした城。そう易々とは落ちませぬ。」
「母上!」
と、そこに秀高の次子である高秀利が守将の一人・柴田勝豊と共に現れた。その場に来た秀利の言葉を聞いた実母の玲は、息子の秀利に向けて言葉をかけた。
「秀利、状況は分かってるよね?」
「はっ!父上はこれを見越して私を伏見に残したのですね。」
父・秀高が出陣の前に東海道への同道を頼み込んだ秀利であったが、父からの言いつけに従って伏見城の留守居を渋々受け入れていた。しかし今となっては喫緊の事態となったこの現状に感心した秀利に向けて、玲の背後から静姫が語り掛けた。
「えぇ。貴方にとっての初陣になってしまったけど、秀高が帰ってくるまでこの城を継意たちと共に守り抜くのよ。」
「ははっ!!」
秀利は実母の玲、そして同じ母でもある静姫からの言葉を聞くと勇ましい返事を返し、勝豊と共に踵を返してその場から去って行った。その後に親長もその場から退出すると玲は小少将、そして春姫に向けて来るべき籠城に向けた指示を発した。
「小少将、それに春さんは侍女を纏めて籠城の支度をお願い。」
「はい。承りました。」
「お任せくださいませ。」
玲より指示を受けた小少将と春姫は会釈して命を受けると、その場から去って支度にとりかかっていった。そしてその場に残った玲と静姫に向けて城将として継意が籠城への心積もりを尋ねた。
「お二方、心積もりは宜しゅうございますな?」
「愚問ね継意。この私はとっくに決まってるわ。」
「うん。私も静と同じ意見ですよ。」
静姫と玲が継意に向けて決意のこもった表情で意思を表明すると、継意はニヤリと笑いながら首を縦に振って頷いた。
「…宜しい。ならば殿が戻られる間、何としてもこの伏見を守り抜かねばなりますまいな。」
ここに継意や秀吉ら伏見留守居の家臣、それに玲や静姫ら秀高の正室たちは一心同体となって来たる伏見城の戦に備えた動きを行い始めた。同時に伏見城の城下町では住民の城内収容と志願者を募っての防戦態勢が敷かれる一方で、京から落ち延びて来た諸侯衆の邸留守居役を迎え入れるなどの対策も打った。将軍弑逆という大事が起こってからそんなに時も経たぬうちに、京・そして伏見という二つの箇所は新たな争いの地点となったのである…。