1572年8月 東国戦役<東海道side> 急転直下
康徳六年(1572年)八月 遠江国浜松城
徳川家康が失地回復のために浜松城を出陣してから数刻経った二十五日の正午、浜松城に逗留していた高秀高の元に三河長篠城を守備していた北条氏規が訪れていた。浜松城の本丸館内の一室にて引見した秀高は、脇に大高義秀・華夫妻とその子の大高義広、そして秀高の嫡子・高輝高が控えている中で、氏規の背後にいた二人の人物に自然と視線が移っていた。
「まずは殿。先日の大勝、祝着至極に存じ奉りまする。」
「うん。氏規、三河長篠の方はどうだ?」
来訪した氏規から宝渚寺平の一戦の戦勝を称えるような挨拶を受けると、秀高は首を縦に振って頷いた後に氏規の持ち場である、三河長篠方面の敵勢の動きを尋ねた。これに氏規は即座に会釈を打ってからその方面の戦況を報告した。
「はっ、概ね戦の気配はありませぬ。また美濃方面に陣取る可成殿からも、信濃国境に展開する村上・武田勢に動きなしとの報告も受けておりまする。」
「そうか…やはり信濃は陽動か。」
氏規から信濃方面における鎌倉府傘下の軍勢の動きを聞きながら秀高は言葉を氏規に返したものの、やはり氏規の背後にいた見知らぬ人物たちが気になったのか、その次には氏規に対して背後の二人の素性を尋ねた。
「それで氏規、その後ろの二人は?」
「はっ、実は今日罷り越したのはそれが主題にございまして、是非ともご紹介したき者が居りまする。」
そう言うと氏規は背後に控えていた若武者に視線を送った。すると若武者は見事な立ち振舞いを見せながら凛々しい顔を秀高に見せ、頭を下げて一礼した後に改めて自身の名を秀高らに向けて名乗った。
「お初にお目にかかります秀高殿。亡き北条氏康が一子にて、氏規兄の弟である北条三郎氏秀と申します。」
「北条氏秀…!?」
北条三郎氏秀…今は亡き北条氏康の一子で、元々は箱根早雲寺の喝食の僧侶であった。しかし小田原落城の際に箱根権現の別当でもあった叔父の幻庵宗哲の庇護を受けて箱根権現に移ってそこで叔父・宗哲の養子となった。そして後に兄の氏規が秀高の元で北条家再興を成したと聞いた宗哲は、三郎氏秀に兄の元へ行き、仕官して補佐せよと送り出し、今に至っているのである。
秀高が氏秀の名前を聞いて驚いたのには訳がある。この人物こそ元の世界では上杉謙信の養子に入り、上杉景勝と「御館の乱」と呼ばれる家督争いを繰り広げた「上杉景虎」その人だったからである。
「秀高様のお噂は、箱根の権現社より耳に達しておりました。その秀高様に兄が仕えていると聞き、ましてや我らが一族の仇敵・上杉輝虎との戦いであると聞きつけ、今こそ一族の仇を討つ好機であると思い馳せ参じた次第!」
氏秀より来訪した覚悟とも言うべき自負を聞いた秀高は、その氏秀の風貌と兄・氏規からの視線を受け取って首を縦に頷きながら受け入れるような言葉を返した。
「よく来てくれた。今後は兄同様、上杉征伐に力を貸してくれ。」
「ははっ!」
氏秀が秀高の言葉を聞いて相づちを発した後、その場にて深く頭を下げて感謝の意を示した。それを見た氏規は秀高に対しもう一人、氏秀の隣にて座していた風来坊のような身なりをしている人物を紹介した。
「殿、実はもう一人紹介したいものがあり、実はこの者の働きによって宗哲様や氏秀は命を長らえることが出来たのです。」
「何?」
氏規の言葉を受けて秀高が風来坊の人物に視線を向けると、風来坊はその場にやってきてようやく頭を上げ、秀高と視線を交わしながら自身の名前を改めて名乗った。
「拙者、相州風魔党の頭目・風魔小太郎にござる。」
「風魔党の風魔小太郎!?貴殿が!?」
かつて北条氏康が当主を務めた北条家お抱えの忍び衆として名を馳せた風魔党。小田原滅亡後は箱根付近にて大森勝頼らの支配を撥ね付けるほどの抵抗力を示し、その中で北条家一門でもあった宗哲や氏秀を護衛していた。北条家が氏規や北条綱成・北条綱高らを除いて族滅した中でも命を長らえることが出来たのは、単にこの風魔党の功績が大であったのだ。
「今日ここに参ったは、氏秀さまを氏規殿の元に送り届けるがため。されど、我らは北条を討ち滅ぼした上杉とその配下共の支配など受け入れませぬ。もし、秀高殿に上杉打倒の心根があるのならば、この風魔小太郎と風魔党、喜んでそのお役に立ちましょう。」
秀高は自身に向けて言葉を語りかけてくる小太郎の姿と同時に、その風格を肌で感じて只者ではない事を悟っていた。この風格と同時に秀高への協力を申し出て来た小太郎に対し、秀高はすぐさま返答を返した。
「小太郎殿、そのお言葉だけでも嬉しく思う。俺たちはまず鎌倉府に奪われた徳川領の奪還を最優先しなくちゃならないが、今後もし、相模や伊豆の攻略を行う際には味方してくれるという事だな?」
「ははっ。そのつもりにございまする。」
秀高の返答を聞いて小太郎が即答するように間髪入れず返すと、それを聞いた秀高は氏規と一回視線を交わした後に、首を縦に振って頷いた。
「分かった。ではその時が来た時には小太郎殿のお力をお借りしたい。宜しく頼みます。」
「ははっ!ではこれにて!」
小太郎は秀高の言葉を受けてそう言うと、その場から一瞬のうちに姿を消してどこ隣へと去って行った。その素早さから本物の才能を持っていると確信した秀高はその場でこくりと頷き、小太郎が姿を消した後に残っていた氏秀に向けて今後の動きを指示した。
「…さて、氏秀。今後は氏規の配下として行動し、兄を支えてくれ。」
「ははっ。心得ました。」
氏秀は秀高の言葉を受けて会釈を返すと、兄・氏規と共に秀高に向けて一礼した後にその場から去って行った。氏規・氏秀兄弟の去って行く後姿を見送った秀高は、この一室の中に義秀夫妻と子の義広、それに輝高が残る中で先程この場にいた小太郎の事について触れた。
「…それにしても風魔小太郎、風魔党の頭目が協力を願い出てくるとはな。これは思いのほか関東諸国は混乱しているのかもしれないな。」
「あぁ。駿河を抑えている奴らを叩けば、雪崩を打って制圧できるかもしれねぇな。」
「ヨシくん、それは楽観視し過ぎよ。」
義秀が先ほどの小太郎の話を引き合いに出して少し楽観視するような発言をし、それを華が引き締めるように諭した。それを受けて義秀が言葉を失ってその場で黙りかえると、その義秀の言葉に続くように輝高が父・秀高に向けて意見を述べた。
「ですが父上、もし風魔党のように旧北条の領国のみならず、全域にもそのような者達がいるのならば、調略をかける好機ではありませんか?」
「そうだな…よし、今度信頼に話して稲生衆の増員でも——」
「…秀高っ!!」
と、秀高が稲生衆の人員増加について語っていると、そこにちょうど話に上がっていた小高信頼が一室の中に駆け込んできた。秀高は信頼がその部屋の中に入ってくると、先程の話の中にもあった稲生衆について語り掛けた。
「あぁ、丁度良かった信頼、実はお前に…」
「それどころじゃないよ!一大事が起こったんだ!」
しかし、そんな秀高や義秀らの雰囲気とは違いその場にやってきた信頼はどこか血相を変えたような表情を見せており、その風貌と言葉を聞いてただ事じゃない事が起こったと察した秀高に向けて、信頼は自ら秀高がいた一室の襖をすべて閉じ、秀高の周りに義秀らを集めるようにして円を囲うと、声を極力落として秀高に告げた内容は、その円の中にいた秀高らをまるで、どん底に叩き落とすような衝撃を与えるに十分な内容だったのだ。
「上様が…上様が亡くなられたんだ!!」