1572年8月 東国戦役<北陸道side> 加賀一向一揆鎮圧
康徳六年(1572年)八月 加賀国尾山御坊
時を遡る事八月二十三日、東海道にて上杉輝虎が徳川家康を三方ヶ原の戦いで撃破したと同じころ、遠く離れた北陸道を進む管領・畠山輝長指揮する北陸軍はある一つの転換点を迎えていた。織田信隆の扇動によって輝虎方に味方した加賀一向一揆は一揆勃発以来、加賀国内で幕府軍と死闘を繰り広げていたが幕府軍の前に一揆勢は各個撃破され、遂には総本山たる尾山御坊まで幕府軍に攻め込まれていた。そしてこの日、尾山御坊は火矢によって燃え盛る中で落城の時を迎えようとしていた。
「おのれ…仏罰を恐れぬ悪鬼めら!」
折しも吹きすさぶ強風に煽られて、境内を燃やす火が御坊の本堂に燃え移り始めた頃に御坊の門主代理を務める七里頼周は法衣の上に胴丸鎧を着重ねした姿で、攻め寄せて来る幕府軍を罵っていた。
「仏の使いたる我らを攻め立てるなど常人に非ず!者ども、死を恐れるでないぞ!」
頼周は本堂の仏間に残っていた味方を督戦するように言葉を告げたが、その場にいた一揆衆の顔はどこか不安そうな表情をしており、戦う投資すらも揺らぎ始めていた。この様な空気間の中で仏間の中にも火が回り始めると同時に、攻め寄せてきた幕府軍が仏間の襖を蹴飛ばして内部に殴り込んで来るや、仏間の中で斬り合いとなった。その中で頼周は、攻め寄せてきた幕府軍の中に見知った顔を見た。
「そ、そなたは!?」
「七里頼周!門主様の命により貴様を討つ!」
頼周の目の前に立ったこの一人の僧将、名を杉浦玄任と呼ぶ石山本願寺門主・顕如配下の坊官であり、顕如の命を受けて北陸方面の一向宗鎮撫の命を受けて幕府軍に従軍していた。玄任は一人頼周の前に槍を携えて立ちはだかると、素早く踏み込んで頼周の胴体に槍を突き刺した。
「ぎゃあっ!!」
「この悪僧め、思い知ったか!!」
玄任の槍を受けて頼周はその場に崩れるように倒れ込み、それを見た玄任は頼周の首を取って名乗りを上げた。それを聞いた一揆衆は最早戦意を喪失して武器を放棄。ここに加賀一向一揆は勃発から一ヶ月弱で鎮圧されたのである。
「玄任殿、よくやってくれたのう。」
戦後、焼け落ちた尾山御坊を視界に収めることが出来る位置にあった幕府軍の本陣の中にて、陣幕から焼亡した尾山御坊を背景にして大将の輝長は頼周の首桶を持参して来た玄任を労う言葉をかけ、これに玄任は頭を下げて一礼してから返答した。
「ははっ、お褒めに預かり恐悦至極。これで我ら本願寺が幕府と一蓮托生たる姿勢を示せたものと信じておりまする。」
「うむ。玄任殿、先の約定通りに再建されるであろう尾山御坊の門主代理には、瑞泉寺の顕秀殿に与えると、そうお伝えあれ。」
輝長より焼亡した尾山御坊を再建し門主代理を配置する事を聞いた玄任と下間頼照は互いに顔を見合わせた。これ即ち幕府が一揆を引き起こした加賀の一向宗に対し寛大な処遇を下したことと同義であり、それを聞いた頼照と玄任は感謝の意を述べるべく素早く頭を下げた。
「ははっ、それを聞けば顕秀殿も喜びましょう!」
「うむ。では、この旨をすぐさま門主様にお伝えしなければなりませぬ故、我らはこれにて。」
輝長に向けて頭を下げて一礼した頼照と玄任は床几から立ち上がると陣幕の外に出て行き、それぞれ行動を起こした。頼照は尾山御坊の門主代理就任を顕秀に告げるべく瑞泉寺へと向かって行き、玄任はこの旨を顕如に伝えるべく石山本願寺へと帰還していった。これら両名の退出に視線を送って見つめていた浅井高政は、二人の気配が本陣から完全に消え去った後に輝長の方を振り向いて話しかけた。
「…宜しかったのですか、管領殿。」
「構わぬ。此度の差配は言わば幕府の恩情である。本来ならば断絶やむなしのであるはずの尾山御坊を再建させたとなれば、本願寺も再び一向一揆を嗾けるをためらうであろう。」
輝長にすれば、今回の差配は石山本願寺に向けた一種のメッセージでもあった。本来ならば一揆を引き起こした尾山御坊は破却され、幕府に帰順して来た元の加賀守護・富樫晴貞に加賀一国が与えられる物を、輝長のこの裁定によって加賀は「百姓の持ちたる国」が半ば持続されることになったのだ。言わば大きな貸しを作った幕府に対して総本山の石山本願寺が大きな態度に出る事は出来なくなったのである。輝長はその様な意図を含めて先程の差配を行いつつも、話題を切り替えて従軍していた高秀高が家臣、三浦継高に向けて問いかけた。
「…それよりも、越中や能登の戦況は如何に?」
「はっ、越中は富山に籠城する小島職鎮を金森可近殿らの軍勢が包囲しつつ、新発田長敦・本庄繁長両将が土肥政繁、唐人親広ら上杉方の国人を攻め滅ぼしたとの事。」
継高は問いかけてきた輝長に対し、自家の忍び衆たる稲生衆が得て来た越中での戦況を告げた。その中でも幕府軍に従軍する元上杉輝虎が家臣たる新発田・本庄両将の働きはすさまじく、上杉に付いた土豪を攻め滅ぼすと同時に、魚津城に着陣した大宝寺義氏の軍勢と対陣するように松倉城に布陣した。これらの情報を継高から聞いた輝長は、継高同様に両将軍の働きを感嘆するような言葉を発した。
「うむ…新発田・本庄らの働きはすさまじいものがあるな。それで能登は如何に?」
「はっ、能登では長続連殿が穴水城、畠山一門の松波義親殿が松波城にて籠城戦を行い、叛乱した遊佐らの攻勢を跳ね返しているとの事。」
能登においても幕府に従った長・松波らが籠城戦を繰り広げている一方、越中国衆の長沢光国が能登国境を踏破して七尾城奪還の姿勢を見せていた。これら両国で幕府軍に味方する諸将の働きを聞いた輝長は、彼らの働きに感謝するようにその場で深く頷いた。
「なるほど。ならば彼らの奮戦を無駄にするわけにはいかんな。よし、皆よく聞け。」
そう言うと輝長は自身の床几から立ち上がり、陣幕の中に勢揃いしていた諸将に向けて明日からの動きを命令した。
「明日より軍勢を分けて越中、能登に向かう。浅井殿は能登へ、我らは越中へと向かう。諸将は今日の内に休息をとり、明日からの進軍に備えて欲しい。」
「ははっ!!」
輝長からの命を受けた諸将は声を上げて返事を発した。それを聞いた輝長は床几から立ち上がり、夕日が焼亡した尾山御坊の奥に沈む風景を陣幕の側から見つめながら、遠く東海道の戦況に思いをはせた。
「…そう言えば、東海道の秀高はどうなってるのか。」
「はっ、聞けば我が殿は既に輝虎と開戦しておる物かと。」
輝長の問いかけに対して継高が即答して答えた。既に北陸道の諸将たちには輝虎が東海道に下向していったことは耳に入っており、輝虎と秀高の開戦は必然であったと考えていた。その中で諸将がこの勝敗を心配するような空気を見せると、このような気配を察した輝長が諸将の方を振り向いて言葉をかけた。
「者ども案ずるでない。秀高ならばきっとあの輝虎に一泡吹かせるであろう。」
輝長はその様な諸将の中でいち早く、そして誰よりも秀高の勝利を信じていた。事実その日の翌日である二十四日には宝渚寺平の戦いにて上杉軍を撃破。輝長の予想通りの大勝を秀高は上げたのである。そしてそれと同時に、秀高の勝利を信じていた輝長は自身の役目を果たすべく、翌日から始まる越中・能登方面の戦いに専念していったのである。




