1572年8月 東国戦役<輝虎side> 敗戦の夜
康徳六年(1572年)八月 遠江国二俣城
康徳六年八月二十四日。宝渚寺平にて繰り広げられた激闘から数刻経た夜。この戦にて敗北した上杉輝虎は戦場から離脱してきた軍勢と共に天野景貫・天野景康父子が城主を務める犬居城へ入城。そこで輝虎はこの日の戦いにて高秀高が家臣・小高信頼から受けた一発の銃弾による戦傷を治療してもらいながら、生き延びた諸将たちを集めて軍議を行っていた。
「…昨日は数多くの家臣たちが勢揃いしていたのだが、たった一日で随分と寂しくなった物よ。」
輝虎は右肩に受けた銃創を従軍していた典医に治療を施してもらいながら、二俣城の大広間にいる自身の家臣の姿を確認するように見回した。昨日の二十三日夜。三方ヶ原の戦勝を経て刑部の陣城で集まった際には数十名ほどの家臣たちが陣幕の中にいたのだが、今この場に集まっている主だった家臣たちの数は五~六名ほどであり、この輝虎と同じように寂しさを感じていた輝虎の養子・上杉景勝はその様な感情に浸る輝虎に対して言葉を返した。
「義父上、畏れながら申し上げまするが、今日の戦は凡そ「戦」とは呼べませぬ。」
「左様!あのような卑劣な戦略を取って勝ちを得た秀高を、決して神仏はお許しになりませぬ!」
景勝に続き宝渚寺平の戦いにて一隊を率いていた中条山城守景資が、敵である秀高の戦いをこの場で糾弾する様に口調を荒げた。するとこれを聞いていた輝虎直属の旗本の一人、吉江常陸介宗信が敵を非難するような言葉を発した両名を諭すように発言した。
「景勝殿、それに景資殿。今はその様な事を申している頃合いではない。専ら我らが考えるべきは、今後の動向であろう。」
「父上の申す通りにございます。御実城、ここは一刻も早く越後に兵を退くべきかと!」
宗信の言葉の後に、子の吉江織部佑景資が父の意見に賛同しながら、主君の輝虎に速やかな撤退を進言すると、輝虎は典医の治療を受けながら険しい表情をしつつ言葉を発した。
「うむ…口惜しいが、今となっては戦いを行える力は無きに等しい。」
「申し上げますッ!!」
と、その大広間の外の縁側より輝虎側近の一人である神余親綱が駆け込んできて、敷居の外に姿を現すと中にいる主君の輝虎や景勝ら家臣一同に向けて火急の要件を伝えた。
「ただいま、斎藤朝信殿が…薬石効なくお亡くなりになられました…!」
「な、何っ!?」
先の宝渚寺平の戦いにて討死した柿崎景家と共に、「越後の鍾馗」と呼ばれるほどの武勇を上杉家中にて誇っていた朝信は先の戦いで銃弾を受け、二俣城に撤退後は輝虎同様に治療を受けていたが不運にも命を落としてしまったのだ。この訃報を、色を失っている景勝ら家臣たちと共に聞いていた輝虎は、典医によって右肩にぐるぐると巻かれた包帯姿でポツリと呟いた。
「そうか…口惜しいが、最早この戦はここまでか。」
「殿…。」
輝虎からすれば、この朝信の死は最後の望みを絶たれたに等しいものであった。もし、朝信の銃創が寛解し再び戦場に立てるような状況になったのならば、あえてもう一戦を行い戦況の挽回を図ろうと考えていた。しかし現実は非情である。朝信が薬石効なく死した事によって、輝虎は即座に越後への撤退を決断。すぐさま景勝の方を振り向いて命令を発した。
「景勝、城内にいる将兵に下知せよ。明日我らは越後へと戻る。」
「そんな…鎌倉府のお味方を捨て置かれるのですか!?」
輝虎の言葉を受けて山城守景資が声を上げて反論した。この輝虎の撤退宣言は即ち、同じく徳川家康の所領に東から攻め入っていた鎌倉府傘下の諸大名らを見放す様な物にも聞こえた。しかし輝虎はこの山城守景資の言葉を聞くや、首を横に振って織部佑景資らのそれぞれ見つめながら否定した。
「捨て置くのではない。現状の戦力で秀高と戦えば焼け石に水である。ここは一旦越後に戻って軍勢を再編し、その後再び秀高に決戦を挑むつもりだ。それに此度の撤退は北陸から来る幕府軍の事もある。」
「北陸…。」
越後からこの遠江まで下向していた輝虎の耳にはすでに、配下の軒猿を通じて入っていた。管領・畠山輝長や元上杉家臣の新発田長敦・本庄繁長らの戦いぶりを知っていた輝虎にとってこれ以上の滞在は越後本国を危険に晒す事を意味していた。
「北陸道から来る幕府軍を打ち破れればそれで良し。叶わなくとも越後国境を越えて越中に進む気配を見せれば幕府軍を足止め出来るであろう。」
「…兎にも角にも、一先ずは越後に撤退するべきですな。」
輝虎の意向を聞いた上で景勝が父と同じく撤退を進言すると、この景勝の言葉を聞いて輝虎は首を縦に振って頷きつつ、その場にいた宗信に命令を告げた。
「うむ。宗信、すぐさま関東諸将に早馬を飛ばせ。我らが東海道に戻ってくるまでの間、現状の戦線を維持せよとな。」
「戦線の維持を?しかしそれは…」
輝虎は宗信に向けて、東国戦役発令後に鎌倉府傘下の軍勢が制圧した駿河を含めた制圧地域の維持を指示した。しかしこれらの地域を制圧した鎌倉府の軍勢は、諸々大きな損害を負っており幕府軍の反攻を凌げるかどうか疑問符がついている状態であった。それを知っていた宗信が疑義を呈そうとすると、輝虎はその意見を差し止めるように言葉を返した。
「既に常陸や下野の軍勢は相模小田原に待機しておる。その軍勢と共に戦えば幕府軍の反攻を凌ぐことも出来よう。一月か二月、味方の軍勢には耐えてくれれば良い。」
「ははっ、心得ました。」
宗信はこの輝虎の考えを聞いて納得するように、頭を下げて会釈をした。それを見た輝虎は続いて視線をこの二俣城を守備していた天野父子の方に向け、それぞれの名前を呼んで命令を告げた。
「景貫、景康。必ずやそなたらはこの城と犬居城を死守せよ。この城は我らの橋頭保たる城である。耐えきることが出来ればそれだけで殊勲者と言えよう。」
「ははっ。事ここに至って後には引けませぬ。我らはこの城を死守いたします故、お早いお帰りをお待ちしております!」
「命に替えても、奴らの攻めを跳ね返す所存!」
この天野父子の勇ましい覚悟を聞いた輝虎はその心意気に感服し、微笑みながら首を縦に振って頷くと、スッとその場で立ち上がるやその場に居並ぶ家臣たちに向けて改めて号令を発した。
「よし、ならば明日より我らは越後に戻る!支度にかかれ!」
「ははっ!!」
こうして上杉軍は翌二十五日より遠江から越後への撤退を開始。先日の戦にて大敗を喫した上杉軍であったが、上杉軍はこの遠江に来た時と変わらぬ威風漂う行軍の姿を見せ、胸を張って秋葉街道を北上していった。その中で馬を進めていた輝虎はふと途中で単騎脚を止めると、背後の方を振り返って浜松城や宝渚寺平の方角を見つめ、その場でポツリと呟いた。
「秀高…次こそは必ずこのわしが勝つ。」
輝虎は遠く彼方にいる秀高に向けて汚名返上を期すような言葉をつぶやくと、再び愛馬・放生月毛の手綱を引いて馬を進めさせた。輝虎は手痛い敗北を受けたがその闘志は消えることなく、次なる勝利を期すように遠江国から敢然と撤退していった。そんな輝虎の元にこの数日内に、驚きの報告がもたらされることになるのだが、それはまた別の話であった。




