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1572年8月 東国戦役<東海道side> 決戦宝渚寺平<三>



康徳六年(1572年)八月 遠江国(とおとうみのくに)宝渚寺平(ほうほうじだいら)




「申し上げます!!お味方の軍勢、矢玉をひっきりなしに浴びており、味方の将兵の死者が増えていっておりまする!」


「殿!このままでは味方の討死が増えるだけにございますぞ!」


 葭本(よしもと)の集落にて戦況の推移を見守っていた上杉景勝(うえすぎかげかつ)の陣中。そこにはひっきりなしに味方の劣勢を告げる報告がもたらされていた。これを景勝側近である樋口兼続(ひぐちかねつぐ)が声を上げて、景勝に悲観するような見立てを告げると、景勝は馬上にて言葉少なに反応した。


「分かっておる。だが…」


「申し上げます!」


 と、景勝の言葉を遮るように声を発しながら現れたのは、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いにおいて佐治為景(さじためかげ)と一騎打ちを繰り広げた登坂藤右衛門清長のぼりさかとうえもんきよながで、清長は景勝に対して更なる味方の劣勢を報告した。


高梨秀政たかなしひでまさ殿、島津忠直(しまづただなお)殿。共に討死!!」


「何っ!?」


斎藤朝信さいとうとものぶ殿負傷!戦線を離脱なさいました!」


 清長が告げた高梨・島津らの討死に続いて、側近の泉沢久秀(いずみさわひさひで)が重傷を負った朝信の撤退を告げた。景勝の耳にはこの時、柿崎景家(かきざきかげいえ)河田長親(かわだながちか)らの討死の報は届けられており、それを踏まえたこの報告を聞いた景勝は、すぐさま兼続に向けて指示を飛ばした。


「兼続!そなたすぐにでも御実城(おみじょう)に撤退の進言を!これでは戦にならぬ!」


「は、ははっ!!」


 このまま戦えば味方の全滅もあり得ると判断した景勝は、養父でもある上杉輝虎(うえすぎてるとら)に撤退を進言するようにと兼続に命令し、これを受けた兼続はすぐさま馬を走らせて後方に待機する輝虎本隊へと向かって行った。




「…今、何と申した?」


 葭本に陣取る景勝の陣中より、少し離れた呉石(くれいし)の集落に位置取る輝虎本隊を来訪した兼続は、「御実城」と呼ばれる輝虎に対して前線で起こっている惨劇と苦しい戦況を報告した。


「敵の陣城より放たれてくる種子島の威力凄まじく、味方の将兵に次々と討死の者が増えて行っておりまする。更に報告によれば柿崎景家(かきざきかげいえ)殿、河田長親(かわだながちか)殿、山吉豊守(やまよしとよもり)殿他、多数の重臣豪族らが討死しておりまする!」


 兼続が輝虎に向けて伝えた武将たちの一人である山吉豊守。この者は春日山騒動(かすがやまそうどう)によって長親共々蟄居を命じられた山吉政久(やまよしまさひさ)の息子である。政久は昨年に病を得て死去しており、跡を継いだ豊守は長親同様秀高の首を取ると息巻いていたが、この戦いにて武運(つたな)く討死してしまった。それ以外にも数多くの家臣たちの死を聞き、宝渚寺平の方角を黙して見つめている輝虎に側近の甘粕景持(あまかすかげもち)が兼続の代わりに進言した。


「御実城!ここは一旦味方に退けの合図を!このままでは味方に討死する者が増えるだけにございます!」


「…秀高(ひでたか)め、奴の首を目の前にして!」


 輝虎は愛馬・放生月毛(ほうしょうつきげ)の馬上から、遠く彼方にいる高秀高(こうのひでたか)の首に手が届かぬ現状を地団駄を踏むように悔しがった。しかし輝虎が並みの将と違うのは、そこで感情を割り切って最善の手を打てるという事であった。


「景持!全軍に退けの合図を出せ!刑部(おさかべ)より山手の道を伝って二俣城(ふたまたじょう)まで後退する!」


「ははっ!」


 輝虎が示した全軍撤退の下知。これ以上の損害を抑えるべくいったん撤退するという判断を輝虎は血気に(はや)ることなく下した。この判断力こそ輝虎の強み(・・)でもあったが、しかしこの状況は昨日の三方ヶ原(みかたがはら)における立ち位置の逆転を示していた。昨日は敵を追いうちする立場であった上杉勢が、日を(また)いだ今日では追われる立場へと様変わりしていたのである。




「秀高!上杉の陣から法螺貝の音が!」


 無論、この上杉勢の異変は山上の曲輪にいた秀高らの元でも感じ取ることが出来た。秀高の側にいた小高信頼(しょうこうのぶより)が、遠い先にある上杉本陣の方角から聞こえてくる法螺貝の音を、指を指しながら秀高に話しかけると、秀高はその場でじっと見つめながらその場でポツリと呟いた。


「輝虎…やはりここで撤退を決断したか。予想通りだ。」


「秀高、このまま追い打ちをかけるんでしょ?」


「無論だ。」


 信頼から追撃の是非を問われた秀高は、こくりと首を縦に振って頷くや背後を振り返り、その場にて待機していた神余高政(かなまりたかまさ)ら将兵たちに向けて声をかけた。


「よく聞け!上杉勢は味方の損害を受けて撤退を決断した!奴らは野戦に一日の長はあるだろうが、撤退ともなれば追いかけてくる敵まで気を配る事は出来ない!」


 秀高は撤退を開始している上杉勢を指差しながら高政らに言葉を発すると、腰に差していた名刀の鬼丸国綱(おにまるくにつな)を鞘から抜き、その切っ先を天高く掲げて味方に勇ましい号令を発した。


「これより諸大名の軍勢と共に上杉勢の後背を突く!昨日の戦の意趣返しを、越後の龍に見せつけてやれ!」


「おぉーっ!!」


 ここに秀高ら幕府軍は、撤退を開始した上杉勢の後背を襲う決断を下した。この旨は防塁にて指揮を執っていた山内高豊(やまうちたかとよ)や、馬防柵の裏で戦っていた松永久秀(まつながひさひで)ら幕府諸大名の軍勢にも届けられ、各軍はすぐさま門を開いて上杉勢の後背を襲った。のみならずこの時、撤退していく上杉勢の側面にあたる刑部(おさかべ)の辺りから、また別の軍勢が現れたのである。




「おう、あれを見やがれ輝高(てるたか)!」


 その軍勢こそ、先の三方ヶ原の戦いにおいて損害を負った高輝高(こうのてるたか)大高義秀(だいこうよしひで)らが指揮する高家、そして負傷中の徳川家康(とくがわいえやす)配下の軍勢合わせて二万余りである。義秀は上杉勢が野営を取った刑部砦(おさかべとりで)の場所から北西方向に撤退していく上杉勢を指差しながら輝高に話しかけると、輝高は馬上から同じく上杉勢を見つめて言葉を発した。


「あれは上杉の旗印。それが宝渚寺平の陣城より遠ざかっていくという事は…。」


「へっ、逃げていくに違いねぇ!」


 輝高の言葉の後に義秀が鼻で笑うように言葉を返すと、輝高はその場で腰の鞘から刀を抜き、背後に控えていた味方の軍勢に向けて号令を発した。


「良いか!これより昨日の仕返しを存分に行う!者ども、掛かれ!!」


 この号令を受けた高・徳川の連合軍は、喊声を上げて撤退していく上杉勢の側面を急襲した。刑部より都川(みやこがわ)を渡河する輝高らの軍勢の中で、大高義広(だいこうよしひろ)は父の義秀に対して、算を乱して総崩れを起こしている上杉勢を見つめながら言葉をかけた。


「父上!あの潰走する上杉勢の様子では、おそらく大殿が勝ったのでありましょう!」


「当たり前だ!秀高とあの火縄銃があれば、越後の龍なんざ怖くねぇぜ!」


 義秀は自身の友でもある秀高の勝利を確信するような言葉を義広に返すと、背後に付き従ってきている義広や(はな)、それに自身の家臣たちに向けて声をかけた。


「まずは撤退し始めてる連中の側面を突く!付いて来い!!」


 義秀は槍を携えて味方に突撃を下知。対岸の気賀(きが)に渡った輝高勢より先行して撤退していく上杉勢の一隊を突いた。この隊こそ、輝虎が重臣である栃尾(とちお)城代・本庄実乃(ほんじょうさねより)の隊である。


「何事か!?」


「敵襲にございます!側面から敵の攻撃を受けました!」


「ええい、敵勢に構うな!何としても撤退せよ!」


 撤退している最中で側面から義秀指揮する軍勢の吸収を受けた実乃は、報告に来た侍大将に向けて務めて冷静に応戦するよう命じた。そう命じた実乃自身も刀を抜いて突撃してきた義秀勢の将兵らと交戦。数名の敵を馬上から斬り伏せる中で実乃はふと、自身めがけて駆け込んでくる一騎の武者に目を奪われた。


「ん、あれは…!?」


 実乃がその武者に目を奪われたのも無理はない。その武者こそ義秀の正室である華であり、華は頭に鉢巻を巻き右手には薙刀を(たずさ)えて実乃の懐近くへと馬を駆けさせていた。これを見た実乃は驚いた馬が立ち上がったのを手綱で制した後に声を発した。


「女ではないか!どうしてここに!?」


「はぁっ!!」


 するとその直後、華が繰り出した薙刀を受けて実乃の首は胴体から離れた。実乃の首は呆気にとられた表情を見せながら地面へと鈍い音を立てて落ち、それを見届けた華は馬上から声を上げた。


「敵将を討ち取ったわ!さぁ、このまま敵を薙ぎ倒しなさい!」


「おぉーっ!!」


 この名乗りを受けた義秀勢の将兵は更に奮い立って本庄勢の将兵を討ち取った。この追い討ちでは義秀夫妻や義広の他に桑山重晴(くわやましげはる)ら大高家臣たちも大いに戦果を立て、同時に攻め掛かった輝高勢や徳川家臣たちも奮戦。これによって上杉勢の被害はさらに大きくなっていったのである。





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