1572年8月 東国戦役<東海道side> 血戦の後の決戦へ
康徳六年(1572年)八月 遠江国宝渚寺平
翌八月二十四日朝。陣営を組んだ刑部砦を発った上杉輝虎が軍勢は、気賀の村落を通って引佐細江北岸の沿岸部を行軍。高秀高が陣取る宝渚寺平の陣城が見える地点まで兵馬を進めた。
「あれが秀高が陣城か…。」
「はっ、密偵の報告によれば秀高は陣城の設営に当たったものの、その防備に不安を募らせているとか。」
愛馬・放生月毛の馬上から遥か遠方に見える宝渚寺平を視界に収めた輝虎は、側にいた直江景綱から軒猿が得てきた情報を耳にした。すると輝虎はその情報にニヤリとほくそ笑んで言葉を景綱に返した。
「そうか…奴の年貢の納め時と言うべきであるな。」
「如何にも…」
輝虎の言葉を受けた景綱の相槌を聞くと、輝虎は腰の鞘から愛刀の姫鶴一文字を抜き、刀身を露わにした上で周囲の将兵に聞こえるような大声で呼び掛けた。
「良いか!今日この戦によって、日ノ本の未来が決まると言っても過言ではない!昨日の勝利の勢いのままに、今日の戦で秀高の首を取り、日ノ本に正しき政道を敷こうぞ!」
「おぉーっ!!」
この輝虎の鼓舞を受けた上杉配下の将兵は意気軒高な喊声をその場で高らかに上げ、その後に輝虎の指示に従って布陣を粛々と進めた。ここに上杉軍全体の布陣が終わったのは、未だ朝日が天高く昇らぬ正辰の刻(8時ごろ)の事であった。
その頃、この上杉軍の布陣を宝渚寺平の山頂から見つめていた秀高は、脇に小高信頼を従えてじっと見つめていると、遥か遠方の上杉軍の方向から、再び鬨の声が上がったのが聞こえてきた。
「…遠くの方で鬨の声が聞こえるね。」
「あぁ。随分近くまで近づいて来たな。」
その声を聞いて上杉軍の接近を感じ取った秀高が、信頼に対して言葉を返すとそこに信頼家臣である富田知信が現れて、遥か遠方の上杉軍の動向を報告した。
「申し上げます!上杉軍が引佐細江の北岸に姿を現しました!その数、三万を越えておりまする!」
「分かった。城内の足軽たちに指示を伝えてくれ。各曲輪の守将に従い、各自取り決められた方法で防戦に当たれと。」
「ははっ!!」
秀高の下知を受けた知信は相槌を発すると、その事を各隊に伝え回るべくすぐさまその場から去って行った。この後姿を見届けた秀高は再び上杉軍がいるであろう北東の方角を見つめ、側にいた信頼に尋ねた。
「…信頼、久秀殿の軍勢は?」
「既に準備を終えてるよ。細川・荒木・別所・小寺の軍勢も準備万端整ったって報告が来てたね。」
「そうか…」
信頼の報告を受けた秀高は、視線を山の麓…即ち下に向けた。秀高の視線の先、即ち山の嶺と嶺に挟まれた谷間には松永久秀・細川藤孝らの軍勢を示す旗指物が所狭しと並んでおり、それを見て布陣の完了を感じた秀高は、脇にいた信頼に向けて意気込むような言葉をかけた。
「信頼、この一戦で今後の趨勢が決まる。必ずや勝つぞ。」
「うん、そうだね。」
秀高の言葉を受けた信頼がしっかりとした口調で答えると、信頼は背後を振り返って待機していた一人の足軽に目配せをした。するとその足軽はその場で大きな赤旗を山向こうの嶺に構築された曲輪に向けて振り、その後に山向こうの曲輪にて赤旗が振られたのを確認した秀高は、法螺貝を持つ足軽に向けて法螺貝を鳴らすように指示。足軽は手にしていた法螺貝に口を付けて鳴らし、その音が戦の始まりを告げるように辺り一面に鳴り響いた。
「何、いよいよ戦が始まるのか!?」
その頃、宝渚寺平より東南方向にある徳川家康が居城・浜松城内にて大高義秀が宝渚寺平方面に偵察に出ていた物見より報告を受けた。義秀はこの時、正室の華や息子の大高義広、そして義秀と共に城内の統率に当たっていた高輝高と共に物見から報告の続きを受けた。
「ははっ!既に上杉軍は宝渚寺平前面に布陣!すぐにも攻め掛かる勢いにございまする!」
「よし!それじゃあすぐに上杉軍の後背を突くべく出陣するぜ!輝高、指示を!」
物見の報告を受けてから、義秀は輝高の方を振り返って出陣の命を発するように促した。これに輝高が首を縦に振って頷くと、輝高は一歩前に出てその広間の中にいた義秀ら味方の将兵に対して下知を発した。
「これより上杉軍の後背を突くべく出陣する!昨日の負け戦の無念、ここで晴らす好機である!」
「おぉーっ!!」
この輝高の号令を受けた味方の将兵は意気込むように喊声を上げ、ものの数刻もしない内に浜松城内の輝高配下の軍勢、そして重傷の身となっている家康配下の軍勢も加わえて浜松城を出陣。上杉軍の後背を突くように北西方向に出陣していった。
かくして上杉軍と秀高率いる幕府軍は宝渚寺平一帯、引佐細江に通ずるこの細長い大川北岸沿いに密集して布陣した。秀高が上杉軍襲来に備えて築城した宝渚寺平は、約80mほどの小高い丘であり、その北東方向には宝渚寺平と稜線で繋がる嶺があり、そこにはもう一つの曲輪群が構築されていた。ここには秀高配下の神余高政・高晃兄弟、それに深川高則・高晴兄弟らが率いる将兵合わせて三千ほどがそれぞれの曲輪に詰めており、この曲輪群の下の麓から大川の川岸まで一直線に土塁とその上に板塀が構築。この内側には山内高豊指揮する三千が布陣した。
そしてその間…即ち宝渚寺平と北東方向の曲輪の間にある谷間には幕府の諸侯衆…即ち、松永・細川の他に荒木村重・別所安治・小寺官兵衛孝高らの軍勢合わせて三万五千が上杉軍から姿を隠すように布陣。これに宝渚寺平の陣城に布陣する秀高本隊の二千の合わせて四万三千に及ぶ幕府軍が上杉軍の襲来を待ち構えていた。
一方、上杉軍は本陣を呉石の村落に置くとそこから南の葭本の村落には上杉景勝の軍勢が布陣。その前面に上杉配下の軍勢が横一面に布陣した。その陣容は右の端に布陣する柿崎景家の軍勢から、斎藤朝信・河田長親・直江景綱・本庄実乃・高梨秀政・島津忠直・中条景資・色部顕長・安田顕元、そして左の端に布陣する北条高広の軍勢まで総勢三万二千ほどの軍勢が整列していた。上杉軍の唯一の懸念事項は、昨日は野戦であったためにその強さを遺憾なく発揮したが、半ば攻城戦の様相を呈すこの戦いでどこまで戦えるか分からなかった。しかし、輝虎以下上杉軍は、秀高の首を目指して秀高が構築した陣城の突破を志すのだった。
ここに後の世に「宝渚寺平の戦い」と呼ばれる上杉輝虎と高秀高の直接対決の火蓋が、今ここに切って落とされようとしていたのである…。




