1572年8月 東国戦役<輝虎side> 祝宴の最中で
康徳六年(1572年)八月 遠江国刑部
同日の夜、三方ヶ原で行われた戦において勝利を飾った上杉輝虎指揮する軍勢は、三方ヶ原より北西に向かった刑部付近にて夜営の陣を張った。急造の刑部砦なる陣城内では輝虎が日中の戦において戦功を上げた諸将を招いて祝宴を開いていた。
「まずは者ども、今日の戦において並々ならぬ戦果を上げた事、この輝虎嬉しく思うぞ。」
「ははっ!」
刑部砦内に張られた簡素な陣幕の中で、輝虎は従軍する諸将が集まった中で冒頭のあいさつを述べ、これに諸将が意気込むようにして返事を発すると輝虎はその発声の後に言葉を続けた。
「この戦にて徳川の小倅にも上杉が力を示し、のみならず秀高の嫡子の首を取った。これで徳川や秀高に大きな打撃を与えたであろう。」
「如何にも!高家の軍勢恐るるに足らず!」
輝虎の言葉に北条高広が奮い立って言葉を発すると、それに安田顕元や本庄実乃らが賛同するように首を頷きあった。するとそれまでの勇ましい口調から一変して輝虎は少し悲痛の面持ちを見せながらこう言った。
「…だが、こちらも手放しで戦の勝利を喜べぬ。今日の戦にて安田長秀や柿崎晴家、水原満家に大井田景国、そして…貞興が討死した。」
「殿…。」
輝虎は先の三方ヶ原の戦いにおいて、敵の抵抗の前に死んだ自らの家臣たちの名前を一人ずつ上げた後にその中でも取り分け討死を惜しむような雰囲気で名前を述べたのが、輝虎が幼少のころより側近として仕えていた小島弥太郎貞興の事であった。
「貞興は、幼少の頃よりこのわしに仕えていた最古参の家臣だった。この様な戦で討死しおって、あの愚か者が…。」
輝虎からすれば小さな頃より知っている貞興が、今日の戦を経て明日からの高秀高との戦にて存分に力を発揮してくれるだろうと思っていただけに、三方ヶ原にてその命を散らした事に対して亡き貞興の事を叱咤するような言葉を発すると、顔を上げてその場に並ぶ諸将たちに向けて意気込む言葉を発した。
「…皆、明日よりの戦は、討死した者らの意思を継ぎ、必ずや秀高が首を上げて我らが宿願を果さん!」
「おぉっ!!」
そう言うと輝虎は手にしていた盃を前に差し出して献杯し、これに諸将たちの献杯の姿勢を取ったあとに各々盃の中の酒を飲み干すと、そのまま祝勝を祝う酒宴が催されたその中で先の戦いで先陣を務めた斎藤朝信は、同じく先陣を務めた柿崎景家に徳利をもって酒を注ぐべく声をかけた。
「…景家殿、ご一献如何か?」
「いや、余り気が進まぬ…。」
朝信の言葉を受けた景家はその勧めを断ると、飲み干した盃を逆さにひっくり返してその場で瞳を閉じた。景家からすれば実子である晴家を戦で亡くしており、戦が終わった後にその悲しみに襲われるのは当然至極の事であった。これを脇で見ていた輝虎は景家の気持ちを察した後に、空気を切り替えるように養子の上杉景勝に向けて徳利を差し出しながら労いの言葉をかけた。
「…景勝よ、よく秀高が嫡子…輝高と申したか。その首を取った物よ。」
「はっ、お褒めに預かり、恐悦至極。」
養父・輝虎より高輝高を討ち取った事を褒められた景勝は、言葉少なに相槌を発した後に盃を差し出して輝虎より酒を受けた。するとこの輝虎の言葉の後に色部顕長が景勝に向けて同じくねぎらいの言葉をかけた。
「御実城の申す通りにございまする。これで憎き秀高の狼狽ぶりが目に見えるようにございまする。」
「左様か。」
「も、申し上げます!」
とそこに、陣幕を潜って一人の侍大将が血相を変えて駆け込み、酒宴を行っていた輝虎に対してある報告を告げた。
「先ほど、この陣内に何者かが潜入し、輝高の首と重臣、佐治為景らの首などを奪い逃走致した由!」
「何っ!?見張りの者は何をしておったか!」
「…御実城!」
侍大将より討ち取った輝高らの首を奪われたとの報に接し、甘粕景持が床几から立ち上がって見張りの怠慢を咎める発言をした後、その場に一人の忍びが輝虎の側に現れた。この忍びは上杉お抱えの忍び衆である軒猿の忍びで、その忍びは輝虎やその場に居合わせる諸将らに対し驚きの報告を告げた。
「高輝高、浜松城内にその姿を確認しました。」
「何じゃと!?輝高は先ほどまでここに首としてあったではないか!?」
この忍びの報告を受けて河田長親がいの一番に発言したのも無理はない。この瞬間まで輝虎を初め上杉勢の諸将は討ち取った輝高の首こそ本人であると考えこんでおり、それが忍びの報告によって討ち取ったのが輝高本人であることに対して疑問符が付くことになったのだ。その中で忍びは黙して報告を聞いている輝虎に対して言葉を続けた。
「…畏れながら、拙者などは浜松に潜入し輝高の顔を見知っておりました。その輝高が戦の後に浜松城内にいたのです。間違いありませぬ。」
「…という事は、今まで首として晒していたのは?」
「影武者、か。」
忍びの報告を聞いていた直江景綱が輝虎に向けて言葉をかけると、ようやく口を開いた輝虎は輝高の首の真相を口に出した。この瞬間、輝虎たちにも討ち取った輝高の首が偽物であるという事が分かり、それが為景らの首と共に持ち出された事を聞いた輝虎は報告しに来た忍びが去った後に、目の前の机に盃を置いてから陣幕より上に広がる夜空を見つめながら言葉を発した。
「高輝高、よほど家臣たちから慕われていたようだ。そこまでの忠義の士が奴らの家中にいたとはな…。」
「殿、それでは上がった我らの士気に関わりまする!」
輝虎が輝高の身代わりとなった者達について触れた後に高広が味方の士気について語ると、輝虎は言葉をかけてきた高広の方を振り向いてすぐさま言葉を返した。
「案ずるな。兵共には輝高は死んだものとして話を通す。景持、これより味方の陣内に輝高の事を話すようなことあらば、直ちにそれを封じろ。」
「ははっ!」
景持は輝虎からの指示を受けるや相槌を発し、すぐさま床几から立ち上がって陣幕の外へと出ていった。やがて陣幕の中が少しぎこちない雰囲気に覆われる中で輝高が再び盃を手に取り、その中に自分で徳利を傾けて酒を注ぐと、並々に注がれた酒を見つめながらポツリと呟いた。
「そうか…ならば明日の戦で、秀高の首を是が非でも取らねばな。」
「御実城…。」
輝虎はそう言って盃を呷って飲み干すと、それを見ていた実乃が言葉を発した。その後に輝高は口の周りを腕で拭くと目の前をじっと見つめながら瞳の奥に闘志を燃やした。同じころに輝虎打倒を決断した秀高同様、輝虎もまた明日の戦での秀高討ち取りに執念を燃やし、同時に明日の戦に備えるべく各隊に休息を命じたのだった。