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1572年8月 東国戦役<秀高side> 戦いの第一報



康徳六年(1572年)八月 遠江国(とおとうみのくに)宝渚寺平(ほうほうじだいら)




 康徳(こうとく)六年八月二十三日。三方ヶ原(みかたがはら)で繰り広げられた徳川(とくがわ)(こう)連合軍対上杉(うえすぎ)軍の激闘から数刻が立ち、気づけば辺り一帯は西に沈み始めた夕陽によって赤く染まっていた。三方ヶ原より北西にある高秀高(こうのひでたか)が陣城である宝渚寺平にも、この三方ヶ原合戦の顛末を知らせる稲生衆(いのうしゅう)配下の忍びが第一報を報じに来た。


「三方ヶ原で…惨敗だと…?」


 秀高の嫡子・高輝高(こうのてるたか)付きである稲生衆の望月千代女(もちづきちよのじょ)から遣わされた、忍びの報告を宝渚寺平の陣城内の小屋の中で聞いていた秀高は驚きに満ちた表情をその場で見せていた。脇に小高信頼(しょうこうのぶより)松永久秀(まつながひさひで)細川藤孝(ほそかわふじたか)が控える中で忍びは主君・秀高に対して三方ヶ原で起こった戦いの詳細を告げた。


「はっ、徳川様を初め、若様の軍勢皆決死の思いで上杉軍と交戦いたしましたが、武運(つたな)く敗退!徳川家中にも多数の討死を出した模様にございます!」


「輝高は…輝高はどうした!?」


 三方ヶ原での味方の大敗を知った秀高は、忍びに向けて輝高の生死を尋ねた。すると忍びは秀高やその場に控える信頼らに対して、少しばつの悪い表情を浮かながら輝高の生死について答えた。


「はっ、幸いにも若様は御付きの千代女(ちよのじょ)殿初め、皆々の助けもあって無事に浜松まで撤退なさいましたが、若様を逃すべく奮戦した佐治為景(さじためかげ)殿、並びに坂井政尚(さかいまさひさ)殿。敢無く討死…。」


「何だって!?」


 この場で初めて、秀高は自身の重臣であり尾張(おわり)平定以来の家臣であった政尚、そして為景両名の討死を知ったのである。訃報を聞いて声を上げた信頼とは別に、挙兵から十数年経った中でのこの訃報は秀高の心を動揺させるに十分であり、報告をした忍びは黙して聞いていた秀高へ更なる追い打ちをかけた。


「また、若様を逃すべく影武者を買って出た、森可隆(もりよしたか)殿ら複数の若様側近もその命、散らしてございます…。」


「た、為景が…!?」


 これら一連の訃報に接した秀高は、一通りの報告を受けた後に立ち上がった次の瞬間にはその場で姿勢を崩して倒れ込み、それを見た信頼が秀高の脇に駆け寄って肩を支えながら、報告を告げてきた忍びに対して秀高の代わりに言葉を返した。


「ご苦労だった!至急浜松の輝高や義秀(よしひで)に将兵の統率を任せるって伝えて!」


「は、ははっ!」


 その報告を受けた忍びは返事を返すと秀高の様子に後ろ髪を引かれる様子を見せながらも、すぐさまその場を去って行った。この忍びが去った後に信頼は倒れ込んだ秀高を気遣うように声をかけた。


「秀高、大丈夫!?」


「為景…政尚…。」


 信頼に肩を支えてもらいながら立ち上がった秀高は、三方ヶ原で命を散らした両将の名を口に出して(つぶや)いた。すると秀高の事を気遣って駆け寄った藤孝と久秀がそれぞれに秀高に声をかけた。


「秀高殿、しっかりなさいませ!」


「左様、勝敗は兵家の常と申す。戦なれば味方の討死が出てもおかしくありませぬ。」


 藤孝や久秀のこの言葉を受けた秀高は、それまでの呆然自失とした雰囲気から気持ちを切り替え、気丈に振る舞って床几(しょうぎ)に座り直して脇を支えてもらった信頼に感謝の言葉を述べた。


「…すまない、心配をかけた。」


「秀高…。」


 秀高がしっかりと床几に座ったのを見た久秀や藤孝がそれぞれの床几に腰を下ろし、信頼も自分の床几に腰を下ろすと、秀高は自らの目の前に置かれた机の上を見つめながら、討死した為景の事について信頼や久秀らに向けて語った。


「…為景とは、俺たちが教継(のりつぐ)様の配下として、敵であった為景と接触してからの長い付き合いだった。以降、為景は当家の躍進に大きく貢献してくれた。その為景が…。」


 十数年前、秀高が山口教継(やまぐちのりつぐ)の配下として大野城(おおのじょう)の城主であった為景と邂逅して以来、為景は三浦継意(みうらつぐおき)に続く古参の家臣として秀高の王道を支えていた。その為景の討死によって大いに心を揺さぶられた秀高であったが、続けて討死した政尚らの事を語りながら、心に沸き上がった決意を口に出して語った。


「それに政尚も可隆も…皆、素晴らしい家臣たちだった。俺は彼らの無念を背負い、必ずや輝虎をこの陣城で撃破する!」


「…その意気にござる。秀高殿。」


 この秀高の意気込みを聞いた久秀が、ふっとほくそ笑みながら秀高に応えると、そこに秀高側近である山内高豊(やまうちたかとよ)が現れて床几に座っていた秀高に報告した。


「申し上げます!徳川家の忍び、半三保長(はんぞうやすなが)殿が参られております。」


「何?半三が?」


 秀高が高豊からの報告を受けて言葉を発すると、高豊の背後から服部半三保長はっとりはんぞうやすながが神妙な面持ちをしながら姿を見せ、この姿と評定を見た秀高がただならぬ気配を感じ取った上で半三に用向きを尋ねた。


「半三、どうかしたか?」


「秀高殿、どうか御人払いを。ご内密の大事にございます。」


「内密の?」


 秀高が半三からの言葉を聞いた後にじっと半三の表情を見つめ、その内容がただならぬ事だと肌感で察した秀高は、脇にいた久秀と藤孝に対して言葉をかけた。


「…久秀殿、藤孝殿。どうか席を。」


「ははっ…久秀殿。」


 秀高から席を外すように暗に言われた藤孝は、久秀に席を外す様に言葉をかけると久秀は黙したまま頷き、両名はその場にいた数名の侍大将を連れてその場から去って行った。やがて周囲に人影も無くなりその場に半三と秀高、それに信頼の三名だけとなると秀高は改めて半三に内密の大事を尋ねた。


「それで、内密の大事とは?」


「はっ、単刀直入に申しますれば、我が主・徳川家康、先の戦いにて槍傷を負い、明日をも知れぬ容態と相成っておりまする。」


「えぇっ!?」


 半三から報告された内容を聞いた秀高はまたしても大きく驚いた。その驚きは先ほどの為景や政尚の討死以上の衝撃であったのは無理もない事であった。秀高にしてみれば現地の大名たる家康が、三方ヶ原の戦いにおいて負傷したというのは、下手をすれば秀高の戦略そのものが破綻しかねない事態でもあったのだ。


「…三河殿が重傷?どういう事だ?」


「はっ、我が主は先の戦いの大勢決した後、影武者(世良田二郎三郎元信せらだじろうさぶろうもとのぶ)とは別に戦場からの離脱を試み申したが、不運にも腰のあたりを槍で一突きされ、浜松城へ撤退した後は床に臥せりっきりとなっておりまする。」


 半三から三方ヶ原の戦いにおける家康負傷の顛末を聞いた秀高は、その場で床几から立ち上がって信頼や半三の周りを一周するように歩きながら、半蔵から告げられた家康の容態を口に出して呟いた。


「三河殿が…重傷…。」


「はっ、ついては中将(ちゅうじょう)様にはこの事心得頂き、万が一の際に備えて頂きたいと、これは作左衛門(さくざえもん)本多重次(ほんだしげつぐ))殿を初め側近衆の申し状にございまする。」


 そう言うと半三は目の前の机の上に、本多重次や本多正信(ほんだまさのぶ)、それに本多忠勝(ほんだただかつ)渡辺守綱(わたなべもりつな)らの連名で書かれた徳川家中の申し状を置いた。それを見た秀高が机に近づいて申し状を手に取り、封を解いて中身の書状に目を通すと、その内容は半三の申した内容とほぼ同じであった。この書状に目を通した秀高は、その場に片膝をつく半三に対して返答を返した。


「…よく分かった。重傷の三河殿が采配を取れない間は、浜松にいる輝高や義秀を頼るように徳川の家臣たちに伝えてくれ。」


「ははっ、ではこれにて。」


 秀高からの差配を受けた半三は秀高に向けて一礼すると、すぐさま(きびす)を返してその場から颯爽と消え去った。やがて半三が小屋の中から去った後に、秀高は歩いて自身の床几に腰を下ろし、手にしていた申し状に再び目を通しながらその場でポツリと呟いた。


「三河殿が…。」


「…秀高、もしもの時の事も、考えておかなきゃいけないね。」


 信頼が発した言葉を聞いた秀高は、信頼の方に視線を向けた後にこくりと首を縦に振って頷いた。三方ヶ原の戦いの結果は秀高の戦略に少なからず影響を与え、逆に秀高は上杉との直接対決にて絶対に勝たねばならない状況に追い込まれた。秀高は明日にも接近してくるであろう上杉軍の事を思い浮かべながら、目の前で起こった徳川家の情勢に気を配るように申し状をじっと見つめていたのだった。





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