1572年8月 東国戦役<東海道side> 血戦三方ヶ原・前編<三>
康徳六年(1572年)八月 遠江国三方ヶ原
八月二十三日初未の刻(13時ごろ)。開戦から四半刻(30分ほど)しか経っていないにも拘らず、戦況は大きく動こうとしていた。先行した先陣・二陣によって敵の徳川家康・高輝高連合軍に少しずつ損害を与えていた上杉輝虎率いる越後勢は、「車懸の陣」における第三陣を敵にぶつけようとしていた。この第三陣を指揮するはかつて揚北衆一揆において輝虎に従い、今は揚北衆の頭目的立ち位置となった中条景資、色部顕長の両名である。
「良いか、今こそ揚北衆の底力を敵に見せつけてやる時ぞ!かかれ!!」
「おぉーっ!!」
この戦いを先の汚名返上とばかりに意気込む景資の言葉を受け、この隊に参陣する足軽たちも各々に喊声を上げた。これはこの後に続く色部隊も同様でありその意気は戦いにて存分に発揮された。即ち攻め込んだ右翼の内藤信成隊にさらなる打撃を与えたのみならず、今後の継戦を断念しかねない損害を与えたのだ。これら中条・色部隊の働きによって内藤隊は戦いの継続が難しい状況になり、その刃は内藤勢の後方にいた酒井忠次の隊にも及んでいたのだ。
「くそっ、このままでは堪え切れん!」
「忠次殿、諦めなさるな!」
上杉勢第二陣・北条高広ら率いる軍勢から攻撃を受け始めていた酒井勢は内藤勢程の損害は負っていなかったが、中条・色部両隊の鬼気迫る奮戦の前に徐々に押され始めていた。馬上にて刀を振るいながら歯ぎしりする忠次に声をかけたのは客将として忠次に仕えていた小笠原信貴。この者は元武田信玄配下の国衆であったが、信玄没後に領地を捨てて三河へ落ち延びていたのである。その信貴の言葉を受けた忠次は馬上から敵を斬り倒した後に言葉を信貴に返した。
「信貴殿、されどここで手を拱いては…」
「敵将、見つけたり!」
と、信貴の向こうから一騎の敵将が周囲の敵を切り伏せて近づいてきた。この者は色部隊に属する上杉家臣・竹俣清綱であり、その清綱の声を聞くや信貴は忠次の前に馬を進めて清綱へ言葉を返した。
「小癪な!このわしと戦え!」
「ええい、邪魔立て致すな!」
清綱が信貴の言葉を聞くや馬首を信貴の方へ向けて駆けていくと、これに応えるように信貴も馬を駆けさせた。そして互いに刀で一騎打ちを行い始めて一合、二合と打ち合いを何度か重ねたが瞬時に清綱が信貴の隙を突くように刀で信貴の脇腹を刺した。
「ぐわぁっ!」
「信貴殿!」
この突きを受けて信貴が馬上から落馬するとそれを見た忠次は声を上げた。しかし近くにいた足軽によって信貴は首を取られてしまった。それを見た忠次は刀を振るって周囲に立つ敵を斬り倒していったが、やがてそこに酒井正親が現れて大将の忠次へ呼び掛けた。
「忠次!内藤勢が潰走した!このままでは我らも!」
「ええい、ここまでか!」
正親より右翼先端部・内藤勢の潰走を知らされた忠次は旗色の悪さを感じ取ると、即座に味方へ戦場からの離脱を指示した。これによって酒井勢も内藤勢に続いて戦場からの離脱を開始し、ここに家康が取った鶴翼の陣形は大いに乱されたのである。
「殿っ!お味方の右翼が崩壊致したぞ!」
「何、酒井と内藤はどうした!」
右翼の惨状は本隊へと駆け込んできた本多作左衛門重次によって知らされ、それを受けた家康は味方の戦況を尋ねると重次は家康の馬の下から厳しい戦況を報告した。
「酒井勢と内藤勢は散り散りに撤退を始めており申す!報告によれば忠次の客将、小笠原信貴殿が討死したとの由!」
「ええい、怯むな!佐治隊を右翼の先端とし、陣形を敷きなおせ!」
ここにおいて家康はなおも上杉勢と戦えると踏んでおり、後方に布陣していた高家重臣・佐治為景の隊を新たな右翼に据えて抗戦しようとしていた。しかし今現在の戦況はその様な小細工が利く様な戦況ではなく、やがてその現実が家康の元に付きつけられるのも時間の問題だったのだ。
一方、徳川・高家連合軍の右翼を突き崩した第三陣は、そのまま徳川軍中央の目の前を迂回し、正反対の左翼へと攻め掛かった。左翼先端部には石川数正勢が布陣していたが、上杉軍の先陣・二陣と戦って消耗しているところに第三陣の攻撃を受け、部隊は崩壊寸前に陥っていた。
「くっ、やはり「越後の龍」は侮れぬ!」
「叔父上、ここが堪えどころにござる!」
数正の叔父・石川家成が馬上で槍を振るいながら弱音を吐くと、これを数正は鼓舞するような言葉をかけた。するとそこに前方にて戦っていた味方の侍大将がある訃報を届けた。
「申し上げますっ!松平伊忠殿討死!深溝松平勢が崩壊致しました!」
「何と!?越後勢恐るべし…」
石川隊の与力であった深溝松平家の大将・伊忠の討死の報を聞き、数正や周囲の味方はどよめき立った。この隙を突かれて上杉勢に何名かの足軽が討たれると、周囲の味方は気を取り直して戦い始めたが、最早味方の劣勢は如何ともし難い事態となっており、これを見た数正は大将の判断で下知を飛ばした。
「已むを得まい、退け、退けぃ!」
この下知を受けた石川勢もぞろぞろと後退を開始。その中で戦死者を多く出すことにはなった物の命からがら戦場からの撤退を果したのである。これを見て中条隊に属していた上杉家臣の水原満家は刀を片手に撤退していく石川勢へ追い打ちをかけんとした。
「おう、逃すものか!」
「満家殿、深追い致すな!本陣より追撃の法螺貝が鳴っておらぬ!」
そう呼び止めたのは他ならぬ景資である。未だ追撃の意味を示す法螺貝は一回も鳴っておらず、その中で敵勢に追い打ちをかければ軍法違反として咎められるのである。その決まりを知っていた満家は景資からの言葉を聞くと、刀の棟を肩にかけた後に言葉を吐き捨てた。
「ふん、命拾い致したな。」
満家はそう言うと景資と共に石川勢への追い打ちを止め、石川勢とは正反対の方向へと駆けていった。これが示すものは第三陣が敵から離れた証であり、その後に本隊からまたしても半鐘の音が鳴り響いて上杉軍の第四陣が右翼の佐治隊へと攻め掛かっていったのである。
「申し上げます!左翼の石川勢が潰走!鶴翼の陣形は大いに乱されておりまする!」
「左翼も持たんと言うのか!」
「殿ぉーっ!!」
早馬から今度は左翼の劣勢を家康が知ると、そこに一騎の武将が声を上げて近づいてきたその人こそ誰やあらん左翼にて部隊を率いる大久保忠員その人であり、忠員が自身の側近くに馬を近づけると家康が驚きの余りに言葉をかけた。
「忠員ではないか!何故ここにおる!」
「殿!最早大勢は決し申した!ここは何卒撤退を!」
「何を申すか!未だ高家の軍勢に敵は攻め掛かっておらぬ!無傷の高家の軍勢と共に戦えば戦線は押し返せようぞ!」
家康はなおもその場で抗戦の意思を示したが、最早右翼・左翼共々に崩壊した鶴翼陣は意味を無くしており、忠員や側近くにいた重次は家康に諫言するように撤退を進言した。
「殿!敵の陣容凄まじくその勢いも剣呑!このまま戦えば我らの大敗もあり得まする!どうか撤退を!」
「殿!最早ここまでにござる!」
「ならん!引いてはならん、引いてはならんぞ!!」
重次が家康の馬の手綱を引きながら撤退を進言すると、家康は手綱を引きながら重次へ抗戦するよう呼び掛けた。この意固地なまでに戦いに拘る様を見た重次はやや辟易しながらも家康を戦場から撤退させるべく強引な一手を打った。
「何を申される!広次!」
「はっ!殿、御免!」
「ああっ、何をするか!!」
家康の側にいた側近・夏目広次は重次からの言葉を受けるや家康が乗る馬の尻を槍の柄で叩き、馬を強引に駆けさせて戦場から撤退させていった。これに馬に乗った広次や鳥居忠広ら数名の騎馬武者が道案内と護衛を兼ねて付き従って行くと、それを見届けた重次は家康に成り代わって下知を飛ばした。
「退き鐘を鳴らせ!我らは浜松方向に撤退する故、高家の軍勢も追々撤退せよと下知を!」
「ははっ!」
重次の命を受けた足軽はすぐさま撤退の証である退き鐘…半鐘を鳴らした。これによって徳川勢の敗北は決定し全軍の撤退が開始されたのである。これを受けて忠員が自分の部隊へと馬を駆けさせて戻っていった後、その場に残っている重次の背後から一人の人物が現れた。
「…という事は、この俺の出番か。」
「うむ。そなたの出番が参ったぞ。」
この者こそ誰やあらん、家康の影武者として徳川家に仕えていた世良田二郎三郎元信その人である。家康と同じ金陀美具足の複製を装着していた元信は、重次からの言葉を受けると、家康が乗っていた馬と似ている馬に跨るや、その場にいた将兵たちに向けて言葉を発した。
「良いか!これよりは俺が徳川家康だ!全軍速やかに後退せよ!我らは伊左地川沿いに沿ったのち、佐鳴湖を経由して浜松城へ向かうぞ!」
「おぉーっ!!」
ここにおいて戦場に残されていた家康本隊の指揮は、他ならぬ元信が家康の身代わりとして指揮することになった。家康本隊は左翼の榊原康政勢、そして高家重臣である織田信澄の隊と共に伊左地川沿いにそって西南方向へ撤退していった。ここに戦の趨勢としては、徳川勢の敗北がものの一刻の間に決まったのである…。