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1572年8月 東国戦役<東海道side> 血戦三方ヶ原・前編<二>



康徳六年(1572年)八月 遠江国(とおとうみのくに)三方ヶ原(みかたがはら)




 康徳(こうとく)六年八月二十三日正午(しょうご)浜松城(はままつじょう)より北西に広がる東西二里半(約10km)、南北約四里(約15km)の洪積台地・三方ヶ原。この台地にて徳川家康(とくがわいえやす)高輝高(こうのてるたか)連合軍合わせて四万と、上杉輝虎(うえすぎてるとら)率いる上杉本軍四万一千が激突しようとしていた。




 浜松城を出陣した徳川勢は上杉軍が三方ヶ原台地に上がる前に戦場に先着。そこで井伊谷(いいのや)より駆けつけて来た味方の軍勢を合わせて迎撃の布陣を敷いた。本隊の徳川家康は四千ほどの旗本を連れて刑部(おさかべ)方面へと延びる姫街道(ひめかいどう)上に西を背にして布陣。その本隊の両脇には高秀高(こうのひでたか)が遣わした援軍が布陣した。即ち左脇には織田信澄(おだのぶずみ)勢五千、右脇には秀高嫡子である高輝高勢五千である。その前面には徳川配下や高家の援軍が鶴翼の陣形で布陣した。左翼は石川数正(いしかわかずまさ)勢三千を先頭に大久保忠員(おおくぼただかず)勢三千、榊原康政(さかきばらやすまさ)勢三千、付け根部分には高家客将の真田信綱(さなだのぶつな)勢四千。そして右翼は内藤信成(ないとうのぶなり)勢三千を先頭に酒井忠次(さかいただつぐ)勢三千に井伊谷より来た佐治為景(さじためかげ)勢四千、付け根部分には本多忠勝(ほんだただかつ)勢三千。これらの陣が敷き終わったのは正午前の事にて、上杉軍が三方ヶ原に姿を現したのは正午を過ぎた頃であった。




 一方、三方ヶ原台地へと上がった上杉軍は輝虎采配の下、秘蔵とも言うべき必殺の陣形を敷いた。その名も「車懸(くるまがかり)の陣」と言う螺旋状の陣形で、中央の輝虎本隊を囲うように先陣から後陣が渦を巻くように布陣した。輝虎の本隊四千をぐるりと囲うように配置された上杉軍の陣容は、先陣に柿崎景家(かきざきかげいえ)斎藤朝信(さいとうとものぶ)の隊合わせて六千。二陣に北条高広(きたじょうたかひろ)安田顕元(やすだあきもと)、そして輝虎の養子である上杉景勝(うえすぎかげかつ)が隊合わせて一万。三陣に中条景資(なかじょうかげすけ)色部顕長(いろべあきなが)合わせて六千。四陣には信濃(しなの)の豪族たる高梨秀政(たかなしひでまさ)島津忠直(しまづただなお)合わせて四千。そして後陣たる後詰には河田長親(かわだながちか)本庄実乃(ほんじょうさねより)直江景綱(なおえかげつな)が隊九千と旗本として小島弥太郎貞興こじまやたろうさだおき率いる二千が続いた。上杉全軍の布陣が終わった先鋒が三方ヶ原に到着してから四半刻(しはんとき)(30分ほど)の事。ここに双方合わせて約八万の軍勢が雌雄を決しようとしていたのである…。




 八月二十三日の正午を少し過ぎた頃。両軍の布陣が終わった中で車懸り陣の真ん中に位置する上杉本隊の中から、輝虎は馬上より相対する徳川・高の連合軍を見つめていた。この時暑い日差しを差し込んでいた日光は西へと傾き始め、輝虎は頃合いを見計らったように馬上から軍配を一振りした。


「法螺貝を鳴らせ!」


 輝虎の言葉を受けると後方に待機していた数名の足軽が、手にしていた法螺貝に口を付けて一斉に鳴らした。この法螺貝の音こそ上杉軍攻撃開始の合図であり、それを先陣の隊にて聞いていた景家は馬上にて鞘から太刀を抜くと、後方にいた味方の将兵たちに向けて呼び掛けた。


「者ども、徳川の侍どもに越後勢の強さ見せつけてやろうぞ!かかれぇ!」


 この景家の言葉の後に柿崎勢の足軽たちは喊声を上げると、我先にと馬を駆けさせた景家の後に続いて攻撃を開始。その動きを柿崎勢の後ろの位置にて見守っていた朝信は馬上にて槍を掲げつつ後方にいた味方へ呼び掛けた。


「よし、柿崎殿に続けぇ!」


 朝信の言葉を受けた足軽たちは喊声を上げ、柿崎勢の後に続いて敵勢に攻め掛かった。車懸の陣形の先陣である柿崎・斎藤隊の目標は徳川勢の右翼に陣取る内藤信成隊。その対面にあたる内藤勢では大将の信成が馬上にて真正面からやってくる上杉軍の姿を目視で確認した後に言葉を発した。


「来たか、敵はこちらより攻め掛かって参る!槍を構えよ!」


 この号令を受けると内藤隊の足軽たちは即座に槍衾(やりぶすま)の隊形を組み、そこに目の前から柿崎勢の騎馬武者が攻め込んでくると同時に、馬上の信成が号令を力強く発した。


「突き出せぇ!」


 信成の号令の後に騎馬武者めがけて槍が突き出され、それを受けた騎馬武者は倒れていったものの後から続く騎馬武者たちの前に槍衾の隊形はかき乱された。柿崎勢はその混乱を逃すことなく内藤勢と交戦を行って幾らかの損害を与えると、なおも内藤勢に攻め掛かろうとする味方に向けて景家が馬上からこの様な号令を行った。


「敵を深追いするな!目の前の敵を倒せばよい!」


 その言葉を受けた柿崎勢は我に返ったかのように敵への攻勢をそこそこにすると、そのまま内藤勢から離れて真向かいの位置にある左翼先鋒・石川隊めがけて直進していった。これと同様に斎藤勢も内藤勢にある程度の損害を与えると柿崎勢と同じ行動をとり、正反対の石川勢へと攻め掛かっていったのだ。この行動を本隊の中にて見ていた輝虎は続けての指示を伝えた。


「…よし、半鐘(はんしょう)を鳴らせ。二陣突撃!」


 この輝虎の指示を受けると、半鐘を背負う足軽の背後にいた足軽が半鐘を叩いて音を上げた。この半鐘の音を聞いていた二陣の前に立つ北条高広の隊。その大将である高広は馬上にてその音を確認すると即座に太刀を鞘から抜いて声を上げた。


「行くぞぉ!かかれぇ!!」


 高広の号令を受けた足軽たちは喊声を上げた後、先陣の軍勢と同様に右翼の内藤勢へと攻め掛かり、この後に安田、そして上杉景勝の隊も続いた。この攻勢は先陣の隊が去ってからさほど時も経っておらず、この攻勢を受けた内藤勢の大将・信成は大いに驚いた。


「くぬっ、新手か!!」


 このように交互に部隊を繰り出して敵に一定の損害を与え続ける事が、この車懸の陣のミソ(・・)とも言うべきものだった。敵からすれば全く無傷の軍勢が次々と攻め掛かってくるのみならず、それを次々と相手にすることによって味方の将兵は大きな疲弊を強いられたのである。この弊害は内藤勢のみならず正反対の位置に展開する石川勢でも起こり始め、これが徳川勢の陣形である鶴翼陣を少しずつ乱し始めていた。その余波は、火急の報告を告げに早馬がやってきた徳川軍の本隊にも届いた。


「申し上げます!敵の先陣に続き、即座に二陣が内藤勢へ攻め掛かりました!内藤勢は損耗(こと)の外(いちじる)しく後詰を要請しておりまする!」


「くっ、もう崩れるというのか!」


 定石の戦法では鶴翼陣は守備にも優れ、場合によっては包囲殲滅も狙える陣形ではあったが、この車懸の陣の前ではその定石は打ち砕かれつつあった。家康は早馬からの報告を受けると少し焦れた様子を見せつつも即座に指示を伝えた。


「已むを得ん、全軍前面に進め!先陣を鶴翼の中に押さえつけよ!」


「はっ!」


 ここで家康は、鶴翼陣のまま全軍を前に進めて上杉軍を鶴翼の中にしまい込むという策を取った。これは先端部の隊が壊滅する前に前面に戦力を集中させ、上杉軍を包囲殲滅せんと狙ったのだった。しかし…


「…ふふふ。やはり前に出て来たか。二陣の各隊の様子は?」


「既に右翼から左翼へ抜けましてございます。続く三陣の備えは整っておりまする。」


 この動きを見た輝虎から見ればむしろこれは願っても無い好機であった。自身の敷く車懸の陣に絶対的な信頼を置く輝虎は甘粕景持(あまかすかげもち)からの報告を受けると、即座に次なる指示を伝えた。


「よし、半鐘を鳴らせ!三陣突撃せよ!」


 この輝虎の号令の後に、再度戦場に半鐘の音が鳴り響いた。この時既に先陣は左翼の石川勢から離れて本隊の後方へと迂回しつつ進軍。その後を二陣の隊は左翼を攻撃していたのである。その中で徳川勢は一歩前に出る程度に前進して、その後に半鐘の音が鳴らされたのである。最早戦の流れは、上杉勢の方へと徐々に傾きつつあった…。





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