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1572年8月 東国戦役<家康side> 徳川家当主の沽券



康徳六年(1572年)八月 遠江国(とおとうみのくに)浜松城(はままつじょう)




 翌八月二十一日。上杉輝虎(うえすぎてるとら)が率いる軍勢は犬居城を発し高秀高(こうのひでたか)が陣取る引佐細江(いなさほそえ)近郊の宝渚寺平(ほうほうじだいら)陣城へと向かい始めた。その途上、上杉軍は犬居城より下った二俣城(ふたまたじょう)を呼応させて難なく制圧。その翌日の二十三日には改めて宝渚寺平へと進軍を再開した。この上杉軍の動向は早馬によって徳川家康(とくがわいえやす)が居城・浜松城へと届けられ、これを受けた城主であり徳川家当主でもある家康は緊急の軍議を開催。吉田(よしだ)から着陣した酒井忠次(さかいただつぐ)ら譜代の家臣や、浜松に逗留していた秀高嫡子・高輝高(こうのてるたか)掛川(かけがわ)より軍勢を割いて駆けつけた織田信澄(おだのぶずみ)ら高家の諸将たちを招いて評議を行った。


「皆も聞き及んではおると思うが、二俣城を開城させた上杉軍がいよいよ秀高殿が陣城へと進軍を開始したという。」


「いよいよ「越後(えちご)の龍」との一戦か…腕が鳴るわ!」


 浜松城の本丸館にて開かれた高家諸将と合同の軍議の席。そこにて家康の言葉を受けた後に徳川家臣・本多平八郎忠勝ほんだへいはちろうただかつが勇むように言葉を発すると、それを耳にした徳川家の重臣・本多作左衛門重次ほんださくざえもんしげつぐが血気にはやった忠勝を諫めるような言葉をかけた。


「そう血気に逸るな平八郎。我らが出番は上杉勢が引佐細江まで踏み込んでからである。」


「左様。ここは耐え忍んで敵をやり過ごすのだ。」


 重次の言葉の後に、この席に列していた石川数正(いしかわかずまさ)が平八郎ら若手の徳川家臣たちに向けて自制するように促した。この時、徳川軍は秀高が陣取る宝渚寺平へ向かう上杉軍をあえて見過ごし、敵が宝渚寺平に攻め込んだと同時に出撃して上杉軍の背後を突くという作戦を、先月の岡崎城(おかざきじょう)での軍議で取り決められていた事であった。しかし、次に家康が発言した内容によって、その軍議の席の空気は一変するのであった…。


「…果たしてそれで勝ったとて徳川家に何が残る?」


「家康様?」


 この家康の余りにも不穏な言動を感じ取った輝高が家康の方を振り向いて言葉をかけると、家康はその場にいる諸将に向けて此度の作戦における不安要素を語った。


「確かに上杉本軍を高家の軍勢が撃破すればこの戦乱は容易く収まるであろう。されど戦場となったこの国を束ねるわしの立場はどうなる?敵が土地を踏みにじるのを黙って見過ごした挙句、他家に戦の決着をさせた卑怯者と(ののし)られようぞ!」


「家康殿、何を仰せになられますか!先の作戦通りあえて上杉をやり過ごして、宝渚寺平付近で大殿の軍勢と戦う上杉軍の背後を襲いさえすれば、国中に家康殿に対して(そし)りなど言う者はおりませぬ!」


 家康の言葉を聞いた輝高付きの家臣、竹中半兵衛重治たけなかはんべえしげはるが家康の意見に反論した。この時に半兵衛も輝高も、そしてその場に居合わせた高家の武将たちには不穏な事を予感していたのだ。そしてその言葉を発する張本人の家康は、意見を差し挟んできた半兵衛に対して即座に言葉を返した。


「いや違うぞ半兵衛よ。今の今まで我らは秀高殿の戦の妙味をまざまざと見せつけられてきた。このまま再び秀高殿に武功を挙げさせては、自家の領国ですら後手後手となった徳川家の面目は如何相成る!?」


「家康様、そのような一時の(そし)りを恐れて味方を窮地に陥れるつもりですか!?」


 輝高や高家の武将たちからすれば、上杉軍の撃破の為に動く秀高の指示に従うのは妥当な事だと考えていた。しかし戦場となった遠江の国主である家康からすれば、秀高が上杉との戦に決着をつけてしまっては、民衆から頼りのない国主であるという不満が上がる事は容易に想像できていた。その様な家康の思想が現れたのが、反論を述べた輝高に対する家康のこの一言であった。


「ご嫡子!この国は我らの領国である!我らが領国は我らで守らねばならんのだ!」


「然り!ここで我らが武功を挙げれば高家も一目を置くに相違ござらん!」


「殿…」


 家康の意見に賛同するように家康の旗本である旗本先手役(はたもとせんてやく)に属する長坂信政(ながさかのぶまさ)が意気込むようにして言葉を発すると、それに続いて忠勝ら旗本先手役の武将たちが出陣を主張し始める中、家老職を務める酒井忠次(さかいただつぐ)が家康の方を見てポツリと呟いた。すると家康は忠次のつぶやきを聞いた後にスッと立ち上がり、己の方策を軍議の場で示したのだ。


「わしは決めた。たとえ無駄骨となろうとも、徳川家の名声の為に上杉軍を迎え撃つ!」


「家康殿、何と仰せになられる!」


「信澄殿、それに政尚(まさひさ)殿。ここでは我が殿に従って頂きたい。」


 家康が勝手に迎撃策を取ると表明した事に、輝高の軍監として同行していた坂井政尚(さかいまさひさ)が言葉を挟んで反論すると、旗本先手役に属していた本多忠真(ほんだただざね)が政尚や続けて言葉を挟もうとしていた信澄に向けて釘を刺した。その言葉を受けると政尚や信澄は口をつぐんで黙るしかなかった。なぜかと言えば輝高や信澄らは家康の援軍として入城しており、直接の総大将は徳川家当主たる家康である。これ以上反論すれば指揮系統の乱れを起こすことになり、それを踏まえた両名はこれ以上の反論を差し控えたのだ。それを見た家康は自身の提示した迎撃策の大まかな指示を発した。


「我らは今より直ちに出陣し、浜松城外にて上杉軍を迎え撃つ!布陣する地点は…ここ、三方ヶ原(みかたがはら)!」


「三方ヶ原…」


 家康より告げられた迎撃地点…三方ヶ原の地名を聞いて輝虎は内心不安に思った。そう、輝虎は以前名古屋城(なごやじょう)内にある尾州閣(びしゅうかく)に所蔵されていた小高信頼(しょうこうのぶより)(まい)夫妻編纂の書物を読み漁っていた為に、三方ヶ原という所で何が起きたのかはすぐに理解できた。そう、秀高らがいた元の世界ではこの三方ヶ原で家康は武田信玄(たけだしんげん)に大敗した遺恨のある地なのだ。その三方ヶ原で上杉軍を迎撃するという策を聞いて不安に思っている隣で、家康は服部半三保長はっとりはんぞうやすながから知らされた上杉軍の進軍経路を踏まえて迎撃策を提示した。


「物見の報告によれば、敵の先陣は二俣街道(ふたまたかいどう)を南下して来ているという。という事は内野(うちの)の辺りで御陣屋川(おじんやがわ)を渡河し、三方ヶ原から刑部(おさかべ)の古城へと抜けるつもりであろう。我らは刑部への道を塞ぐように布陣する。康政(やすまさ)!」


「ははっ!」


 家康は旗本先手役の中にいた榊原小平太康政さかきばらこへいたやすまさの名を呼ぶと、すぐさま迎撃策に関連する事項を指示した。


「その方、井伊谷(いいのや)に駐留する佐治為景(さじためかげ)殿の軍勢を三方ヶ原へ遣わす様早馬を飛ばせ!」


「ははっ、然らばすぐにでも!」


 家康の命を受けた康政は、すぐさま城内に待機する味方の早馬に命を伝えるべく広間から素早く退出していった。その後姿を見送った後に家康は床几(しょうぎ)から立ち上がると旗本先手役の諸将に対して出陣を下知した。


「皆これより出陣する!乾坤一擲の覚悟を上杉勢に見せつけてやれ!」


「おぉーっ!!」


 この言葉の後に家康が率先して広間の外に出ていくとこれに忠勝や信政ら旗本先手役の諸将たちが続き、その後に床几から立ち上がった重次と数正が輝高に一礼した後に家康の後を追いかけるようにして去って行った。その後に信澄らも賽は投げられたと言わんばかりの面持ちで床几から立ち上がって広間の外に出ていくと、一人床几に腰を下ろしていた輝高に軍監の政尚が話しかけた。


「…若殿。」


「政尚、この事すぐにでも父上に。」


「承知しました。」


 輝高の命を受けた政尚は城内の徳川方に悟られぬよう、密かに稲生衆(いのうしゅう)の忍びに接触し徳川軍の動きを秀高に伝達させた。その後、輝高も家康の下知に従って軍勢を浜松城より出陣。家康指揮する徳川軍と共に三方ヶ原へと赴いていった。この日、八月二十三日午前。後の世に「三方ヶ原合戦(みかたがはらかっせん)」と呼ばれる合戦の狼煙がここに上がったのである…。





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