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1572年8月 東国戦役<輝虎side> 秀高よりの書状



康徳六年(1572年)八月 遠江国(とおとうみのくに)犬居城(いぬいじょう)




 康徳(こうとく)六年八月二十日。青崩峠(あおくずれとうげ)を越えて遠江に侵攻した上杉輝虎(うえすぎてるとら)率いる軍勢はこの日には上杉家に呼応した天野景貫(あまのかげつら)の犬居城へ入城。そこで上杉軍の諸将並びに総大将の輝虎は城主・景貫の手厚い歓迎を受けた。


関東管領(かんとうかんれい)上杉弾正大弼輝虎うえすぎだんじょうだいひつてるとら様、ようこそ我が城へお越しくだされ申した。」


「うむ。よくぞ我らを手厚く迎えてくれた。その心がけ誠に殊勝である。」


 犬居城の本丸館にて上杉軍の諸将が勢揃いする中、諸将の目の前には夕食(ゆうげ)の膳が用意されており広間から縁側へ出る入り口の辺りには城主の景貫が頭を下げて待機していた。その景貫の挨拶を受けた輝虎が言葉を返すと、景貫はすぐさま挨拶を輝虎へ返した。


「ははっ。この天野景貫、亡き太守(今川義元(いまがわよしもと))を討ち、(あまつさ)えその領土を奪い取った高秀高(こうのひでたか)徳川家康(とくがわいえやす)を許しておりませぬ。亡き今川家臣として当たり前の事を成したまでの事にございまする。」


「うむ。もし事が上手く運んだ暁には、わしは(みやこ)におわす今川氏真(いまがわうじざね)殿に駿遠三(すんえんさん)の太守を任せようと思うが、それに従うという事じゃな?」


 輝虎の脳内にはすでに、秀高と家康を排除した後の展望があった。それは京にいた氏真を今川家当主として復権させ、東海道の藩屏として再臨させようというものであった。これに景貫が従うつもりがあるかと尋ねると、景貫はすぐさま首を縦に振った後に言葉を続けて返答した。


「勿論にございまする。それこそが我が大望という物にございまする。その手始めとしてすでに、これより南に向かった二俣城(ふたまたじょう)の城主である天野景康(あまのかげやす)は我が嫡子にて、犬居城出陣と同時にこちらに呼応する手はずと相成っておりまする。」


「おぉ、それは重畳(ちょうじょう)!」


 この犬居城より南に下った天竜川(てんりゅうがわ)の上流部、断崖絶壁の川岸に築城されていた二俣城の城主は、景貫の子である景康が城主を務めており、父同様に徳川家を離反し上杉方に呼応する事を内々に表明していたのである。このことを知らされた上杉家中の内、柿崎景家(かきざきかげいえ)が声を上げて喜ぶとそれを聞いていた輝虎も同様に喜んで言葉を景貫に返した。


「そうか、良くやってくれた。これよりはこの犬居城と二俣城を、しっかりと守り抜くが良いぞ。」


「ははっ!」


 輝虎より言葉を受けた景貫は意気込むように勇ましい返事を返した。その後に景貫が手で上杉家の武将たちに盃を注ぐよう側近たちに促したその時、景貫の背後にある広間の敷居を跨ぎ、小島弥太郎貞興こじまやたろうさだおきがどかどかと入ってくるなり手にしていた一通の書状を片手に上座の輝虎に報告した。


「申し上げます!高秀高より使者が到着し、書状を持参して参りました!」


「書状とな?」


 秀高からの書状が届けられたとの一報に接した輝虎が言葉を発すると、景貫は側近らを脇に下げさせ自身も広間の片隅に控えた。それを見た貞興が再びどかどかと足を進ませて輝虎の側に進むと、輝虎に秀高からの書状を手渡すとこれを届けた使者からの言伝(ことづて)を輝虎に告げた。


「使者曰く、その書状は是非とも輝虎殿にお見せして欲しいとの事にて、使者はすぐさま引き上げていきました。」


「殿、その書状は明らかに挑発の意図が含まれておりまする!目を通してはなりませぬ!」


「左様!ここはその書状を破り捨てなさいませ!」


 この貞興の言葉を聞いた後、その場に居合わせていた家臣の甘粕景持(あまかすかげもち)直江景綱(なおえかげつな)は順々に声を上げて輝虎に諫言を述べた。するとこの甘言を受けた輝虎はふっと鼻で笑った後に書状を片手に持ちながら、甘言を述べてきた両名に向けて余裕たっぷりな言葉を返した。


「何を言うか。むしろ目を通してやろうではないか。誰の眼から見ても先の宣戦布告の文書に大義があるのは明らかであろう。ここは奴の主張に目を通し、何を言って来るのか見てみたいのだ。」


 輝虎は景綱らに向けてそう言うと、ニヤリとほくそ笑みながら書状の封を解いた。輝虎からすれば宣戦布告の文書に自身の大義や目的を満載して書き連ねただけあって、秀高がどのような言葉を言って来るか楽しみで仕方なかった。しかし、その輝虎の思惑は中の書状を開いて中身を見たときに打ち砕かれた。いや、一瞬輝虎が呆気にとられたと言っても過言ではない。


「…白紙?」


 なんと、輝虎の視線の先の書状…いや、書状と呼ぶべきものには一文字も書かれておらず、まっさらな白紙の状態の物が包装されて届けられていた。これを見た輝虎がその場に居合わせた諸将に向けて白紙の状態の物を見せると、その異様な光景を見た景綱や景家らが浮足立つように声を上げた。


「な、何も書かれておらんのですか?」


「それは言わば奴からの宣戦布告に等しきもの!その内容が白紙とは…」




 曲がりなりにも、輝虎は己の大義や決意等を書き連ねて敵対すると決めた(みやこ)の幕府に送り付けた。これは即ち輝虎の意思や思想、そして決意の篭った宣戦布告の文書その物であり、これによって感化された将兵たちは輝虎の思想実現のために奮い立っていた一面もあったのだ。しかし…


「このわしに言う事はない…いや、わしに言葉を送る価値もないという事か。」


 秀高から届けられた書状は、一文字も書かれていない白紙の書状が送りつけられてきた。これは見方を変えれば秀高は天下に何も示さずに戦をしている…つまり秀高の脳内に何の考えも無い「無策(むさく)」を示すものともとらえられるとは思うが、輝虎には違った見方が思い浮かんでいた。即ち、己の考えや大義を示し戦に臨んだ輝虎に対し、秀高の宣戦布告の文書は白紙。つまるところは輝虎にかける言葉など何一つもない…自らを義将であると自負する輝虎を徹底的に軽視するような態度に見えていたのであった。




「おのれ…高秀高!どこまでこのわしを虚仮(こけ)にするつもりだ!」


「父上!何卒心やすらかに!」


 その様な態度を取られた輝虎がその場で大いに激昂したのは当然の摂理である。言わば格下だと思っていた相手から侮辱されることほど腹立たしい事はない…輝虎の怒りを鎮めようと養子・上杉景勝(うえすぎかげかつ)が言葉を挟んだところでその怒りが収まる訳が無かったのだ。


「このわしは先の宣戦布告の文書、そして善光寺(ぜんこうじ)出陣の折に我ら武家が取るべき道だと示す意味で我が意図を明らかにしたのだ!それを秀高は…意図を明らかにしたこのわしを見下すような行動をとった!最早我慢がならぬ!」


 そう言うと輝虎は立ち上がって目の前に用意されていた御膳を蹴飛ばし、諸将に尋常ならざる怒りを見せつけながら明日からの動きについて、正に厳命するかの如く険しい口調で言葉を発した。


「良いか!明日より全軍は一直線に秀高のおる地に攻め掛かる!景貫!敵本陣・高秀高が所在は分かるか!」


「は、はっ!秀高が本陣は浜松(はままつ)より西方、引佐細江(いなさほそえ)の北岸にある宝渚寺平(ほうほうじだいら)と申す小高い丘に陣城を(こしら)えておりまする。されどその道すがらには引佐細江北岸に広がる沼地があり、そこを踏破するのは容易くはありませぬぞ!」


 地の利に詳しい景貫が広間の片隅から秀高の布陣地を教えると共に、そこへ攻め込む事の愚をやんわりと輝虎に伝えた。しかし輝虎はそれを聞くと同時に手にしていた白紙を見つめ、この様な事をしておきながら尻込みしている秀高は武士の風上に置けぬと愚弄した。


「ふん、秀高め。その様な備えで我らを阻めると思うてか!良いか、浜松や井伊谷(いいのや)など、徳川が城には目もくれずに宝渚寺平に攻め込み、秀高が首を上げてやるのだ!!良いな!」


「おう!我が腕が鳴りまするぞ!」


「殿、短慮はなりませぬ!」


 輝虎の言葉の後に景家の側にいた柿崎晴家(かきざきはるいえ)が意気込むような言葉を上げると、その言葉の後に今までの経緯を見ていた景綱が輝虎を諌止するべく言葉を挟んだ。しかし最早悍馬(かんば)のように気性の粗さを露わにしていた輝虎にとって、その様な諫言は焼け石に水のようなものでありすぐさま景綱の方を振り向いて言葉を返した。


「景綱、ならば貴様はここまで(けな)された我らの意地を捨てておくのか!」


「決して短慮はなりませぬ!ここはまず井伊谷か掛川(かけがわ)攻め落とし、味方の軍勢を引き入れる事こそ肝要にございまする!」


 景綱の意見こそ堅実に上杉の勝利を招くに最善の策であった。そうでもしなければ最悪各個撃破の恐れすらあったのである。しかし輝虎はその景綱からの方策を聞くと自身の存在を傷つけられた事に大いに怒っており、すぐさま言葉を景綱に返した。


「徳川など捨てておけ!我らが狙いは秀高のみ!秀高を討てさえすれば、天下の大勢は決したと言っても過言ではなかろう!景綱、景勝!ここは我が意に従え!」


「ははっ…!」


「…はっ。」


 この言葉を受けた景綱や景勝もこれ以上の諫言は無意味と悟ったのか、輝虎の意に服する事を表明するように頭を下げた。同時に景家や景持ら上杉家臣に景貫も片隅で頭を下げており、それらの一礼を目にした後に輝虎は片手に持っていた白紙の書状を睨みつけてポツリと呟いた。


「秀高め…ここまでの無礼の報いを受けよ。」


 そう言うと輝虎は白紙を勢いよく破り捨て、それを地面に捨てるなり足で踏みつけて怒りをそれにぶつけていた。最早この時の輝虎には幕府再興の大義よりも、舐め腐った態度を取った秀高を懲らしめるという感情に大いに支配されており、その為には例え窮地になろうとも秀高の首を取る事に重きを置いていたのである。そんな輝虎の怒りをあらわにするように翌日より、上杉軍は秀高が布陣する陣城に向けて整然とした行軍を行ったのであった。





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