1572年8月 東国戦役<東海道side> 驚愕の報告
康徳六年(1572年)八月 遠江国朝比奈城
小山城落城後の八月七日、里見・千葉勢を主体とする房総三ヶ国の軍勢は駿河湾沿いの沿岸部を南下。相良を越えて山中に入ると山向こうにあるここ、朝比奈城に入城した。この房総三ヶ国の軍勢が次に狙うのは、掛川城と共に遠江東部の防衛線の一角である高天神城。ここには高秀高が重臣・丹羽氏勝が一万程の軍勢と共に駐留していたのである。
「里見殿、高天神城には高家の軍勢が入城しており、更には小山城から敗走した松平家忠・松井忠次らの手勢も加わったとの事。これは油断できませんぞ。」
「如何にも。尚且つ掛川には同じ高家の家臣・織田信澄の軍勢が腰を据えておりまする。これは相当骨が折れる仕事にございまするぞ。」
朝比奈城の本丸館にて開かれた鎌倉府勢の軍議。その席において千葉家当主・千葉胤富は家臣・原胤貞と共に上座に座っている里見義弘に向けて厳しい見通しを語った。この義弘の隣で隠居の身である父・里見義堯が黙しながら視線を向ける中で義弘は話しかけてきた二人に向けて自身の策を示した。
「分かっておりまする。先の城攻めでは手痛い傷を負ったが、ここで改めて正攻法で攻めてこそ里見が背負った汚名を挽回できるという物。」
「義弘、そなたは何も分かっておらん。」
義弘の頑なな正攻法の見通しを聞いた義堯は、千葉家の胤富や結城家当主・結城晴朝らのいる前で息子を叱責するような言葉を返し、それを聞いた義弘が言葉をかけて来た義堯の方を振り向くと、義堯は諸将らの真ん中に置かれている机の上の絵図を見つめながら言葉を発した。
「高秀高という男はな、尾張で挙兵してから十数年で畿内の覇者にまで昇りつめた傑物だ。その配下の家臣たちも綺羅星の如き将星が揃っており、決して油断できぬ相手であるぞ。」
「なればこそ、正々堂々戦う値打ちがある相手にございます!」
秀高やその配下に一目を置いている義堯の言葉に、なおも義弘が反発するような意見を発すると、これに末席に列していた里見家臣・正木信茂が義弘の意見に乗っかるようにして言葉を被せてきた。
「左様!我らは先の戦いで加藤信景殿・弘景殿親子を失い、秋元義久殿も矢傷を負っておりまする!このままでは士気が下がる一方にて、正々堂々戦う他活路はありませぬ!」
「落ち着け。」
先の小山城攻城の一件によって味方が損害を負った現状を打開するような信茂の意見に、義堯は義弘を含めてその勇み足を諫めると同時に、これから味方が攻め掛かるであろう高天神城の事について徐に語った。
「聞けば高天神城は遠州随一の堅城として名高いと聞く。徒に城を攻め立てれば味方の損害は増えるばかりであろう。」
「…では、御隠居殿には何か策がお有りで?」
この義堯の見通しを聞いていた晴朝が高天神城攻略の方策を問うと、義堯は晴朝の方に顔を向けてからこくりと頷き、その後に自らの胸中にある方策を示した。
「ここは付け城を築いて包囲戦を取る他あるまい。城内にはおそらく多くの兵糧米があるとは思うが、城外の農村部を焼き払い村人共を城内へ追いやれば、兵糧米の消費は多くなりその分枯渇は早まるであろう。」
「なるほど…」
つまるところ、義堯が提示したのは堅牢な高天神城を、蟻の這い出る隙間もなく厳重に包囲する持久戦であった。この様な山城への包囲戦は有史以来何度も取られてきた常道であり、いわば固い作戦でもあった。しかし、その父の策を聞いた義弘は余りにも尻込みするような情けない策に聞こえたのか徐に床几から立ち上がり、示してきた父の義堯に向けて大きな反発を見せた。
「父上、その様な事をして城を得ては、里見の武名が!」
「武名や家名などに気を取られるな!我らは例え卑怯のそしりを受けようとも、着実に勝ちを取る事こそが肝要ぞ!」
この言葉と同時に義堯が見せた鋭い剣幕を見て、さすがの義弘もその場で言い淀んでしまった。あくまでも武士としての戦いに拘る義弘に対し、義堯はあくまで勝つ事を最上としており、その為には卑怯な手もいとわない言わばシビアな一面を兼ね備えていたのだ。この一面を垣間見ていた晴朝や胤富は互いに視線を交わした後、こくりと頷いてから義堯の方策に乗っかるような言葉を発した。
「承知致した。この結城晴朝、御隠居殿の策に従い申す。」
「このわしも賛成じゃ。」
言わば、里見と同格の総大将である結城・千葉の両大将が義堯の方策に従う旨を示すと、それを聞いていた義弘はチッと舌打ちを一回した後にどしっと腰を床几に下ろし、双方の意見を容れて城攻めの方策を固めた。
「…相分かった。ならば此度は我が父の意見に従い、包囲戦を取る事とする。各々、支度にかかれ!」
「ははっ!」
ここに高天神城の城攻めは包囲戦と決まり、義弘の号令を受けた諸将が声を上げて相槌を発した。これを聞いた義弘は内心不本意ながらもその場で詳細な指示を発しようとした。しかしその時、広間の中に里見家臣・堀江頼忠が血相を変えて駆け込んできた。
「も、申し上げます!一大事にございまする!」
「何があった!」
この頼忠の言葉と面持ちを見た義弘が再び床几から立ち上がり、駆け込んできた頼忠に何事かと用件を尋ねると、次の瞬間に頼忠が発した言葉に広間の中の諸将は皆大きな驚きを示したのだった。
「す、駿河湾に敵の大船団が現れました!旗印から見るに高家、徳川家主体の水軍にて、駿河湾にて航路護衛を行っていた味方の水軍や荷船は瞬く間に一掃されたとの事!」
「何っ!駿河湾の制海権を失ったと申すか!!」
「駿河湾の制海権を失うという事は、大軍である我らの兵糧補給はままならなくなるという事にござる!」
彼らが正に色を失うように驚いた報告…それ即ち今では後方の安全地帯と化していた駿河湾を航行する味方の船団が、どこからともなく現れた高家・徳川家混成の水軍によって完膚なきまでに壊滅した事であった。この報せに信茂や同席していた正木時忠が色めき立つように狼狽えると、ただ一人冷静な面持ちを崩していなかった義堯は、淡々と頼忠に尋ねた。
「頼忠、何があったか仔細を申せ。」
「はっ、これはその事を報せに参った早馬より聞いたことにございまするが…。」
そう言うと頼忠は義堯を初め、その場に居合わせている諸将に向けて駿河湾での海戦の顛末を語った。その顛末を聞いた諸将は段々と色を失う様に顔面蒼白となり、そして現里見家当主でもある義弘はただ呆然と立ち尽くしてその報告に耳を傾けていた。