1572年7月 東国戦役<輝虎side> 毘の旗翻る
康徳六年(1572年)七月 信濃国善光寺
七月三十日。高秀高らがいる東海道より信濃の山奥に入った善光寺平…後の世では長野盆地の中にある古刹・善光寺。ここには関東管領でもある上杉輝虎が上杉家配下の越後国内の軍勢が揃うのをここで待っており、この日遂に全軍の集結が完了すると戦勝祈願もかねて善光寺の本堂を参詣。そこで単身、本堂の内に入って荘厳な仏壇に向かって祈祷を行った。
「…」
荘厳な雰囲気を醸し出す善光寺の本堂において、仏僧が仏壇に向かって粛々とお経を唱える中で輝虎は仏前にて胡坐を掻きながら手を合わせていた。その祈りはしばらくの間続いた後、ふと輝虎はそれまで閉じていた目を見開いて仏像を仰ぎ見て何かを悟ったかのような表情を見せたのだった。
「おぉ、殿。」
「如何でしたかな?」
やがてその後、本堂の外にて待機している上杉家臣・柿崎景家や甘粕景持などが薄暗い本堂から出て来た輝虎の姿を見て言葉を発すると、輝虎は本堂より出た後に空を見上げ、雲一つない青空を見つめながら側にいた家臣、直江景綱に向けて祈祷を終えた後に心境を語った。
「景綱よ、わしは今心が澄んでおる。このような気持ちになったのは、かつて我が宿敵であった信玄坊主と相対した時以来である。」
「ほう、そのような…。」
輝虎が景綱に向けて口にしたのは、今より十数年前よりこの地にて幾度も己が大志をかけて戦った宿敵・武田信玄との激闘の日々であった。信玄との激闘を行っていた時の心境に戻った輝虎は、青空を見つめながら景綱やその場にいた景家など家臣たちに向けて言葉を続けた。
「思い起こせば信玄坊主亡き後、我が大望を成すには容易いと思っていたが、今となってはその位置にあの秀高が成り代わっていたのだ。わしにとっては最早、秀高を倒す事によって我が大望が果たせると言っても過言ではなかろう。」
「殿、ようやくあの成り上がりを討伐できるのですな。」
「我ら上杉家臣、この機を今か今かと待ち望んでおりましたぞ!」
輝虎の言葉を聞いて意気込むようにして景家や景持が言葉を返すと、輝虎は見上げていた空より視線を下ろし、その場に控えていた一人の若武者に視線を向けた。若武者の名前は上杉喜平次景勝。数年前の春日山騒動において非業の死を遂げた長尾政景の嫡子であり、政景亡き後に輝虎の養子として迎えられていたのだ。この景勝を輝虎は視線に収めると、実父でもある政景の事を持ち出して言葉をかけた。
「景勝…そなたの父は今思えば、秀高の仕組んだ策によって死んだのだ。秀高を討ってこそ、父の無念を晴らせるというものぞ。」
「ははっ!必ずや我が手で、秀高が首級を上げてみせましょうぞ!」
この景勝の側に控えていた側近…樋口兼続の視線を受けながら、景勝は実父の仇を討たんと意気込むように言葉を輝虎に返した。それを聞いた輝虎はこくりと頷くやその場にいた一同を引き連れて善光寺の本堂より離れ、しばらく歩いて善光寺の山門をくぐった先にて待機していた自身の軍勢を視界に収めた後、山門の外にて腰に差していた愛刀・姫鶴一文字を抜くと目の前にいる将兵に向けて意気込みを込めた言葉を発した。
「皆よく聞け!幕府開闢より数百年、等持院(足利尊氏)殿が築きし幕府は危急存亡の秋にある!」
この輝虎の呼びかけを、輝虎の側にいた家臣たちや目の前に控える将兵一同は固唾を飲み込むようにして聞き入っており、この様子を見ていた輝虎は次第に熱が籠るように段々と語気を強めて言葉を続けた。
「今、京に巣食う悪逆奸臣らを討ち果たしてこそ、幕府の社稷を与ってきた我ら武家の為すべき奉公である!この戦は義戦である!必ずや我らが手でこれを成し、日ノ本に真の泰平を招かん!」
「おぉーっ!!」
この輝虎の言葉を聞いた越軍一同は正に天地を揺るがさんばかりに大きな喊声をその場で上げ、同時に目が血走るように奮い立った。この将兵を一気につかむ求心力と魅力こそが輝虎の長所でもあり、自身の長所を遺憾なく発揮したお陰で味方の鼓舞に成功したことを実感した輝虎は、なおも喊声を上げ続ける味方の将兵に向けて命令を伝えた。
「我らはこれより信州を南下し、遠江に出て秀高、それに従う家康ら諸大名と乾坤一擲の決戦に向かう!彼奴等をことごとく撃破し、後の世までの禍根を残すでないぞ!」
輝虎はそう言うと持っていた姫鶴一文字を前に出した。するとこの動きと同時に輝虎が本陣旗でもある「毘」の旗が天高く翻ると、その翻る旗音を耳にした輝虎は目の前に控える将兵に向けて勇ましく号令を発した。
「いざ、出陣!!」
「おぉーっ!!」
ここに輝虎の号令によって、越後の龍を擁する越軍…上杉本軍は出陣を告げる法螺貝の鳴り響く中で隊列を組み、善光寺より出陣して一路善光寺平を南下していった。目標は徳川家康が領国・遠江、そしてその一帯に控えている秀高の首である。その威容は正にすさまじいものがあり、後の文献には千曲川に沿って南下する上杉が軍勢は、白の旗指物に描かれた上杉家の家紋「上杉笹」の華麗さも相まって荘厳な雰囲気を醸し出したといわれた。
「しかし殿、ここまで心が躍るのはやはり、武田が一戦以来にございまするなぁ!」
この行軍の最中、千曲川沿いを走る北国脇往還を南下する軍勢の様子を輝虎近くで見ていた旗本の武将、小島弥太郎貞興が槍を肩に抱えながら輝虎に話しかけた。すると輝虎は馬上から貞興の言葉を聞くと高らかに笑い始めて貞興に言葉を返した。
「はっはっはっ、健気な奴め。此度の戦ではその武勇、当てにしておるぞ。」
「ははっ!」
この弥太郎貞興、またの名を「鬼小島弥太郎」という程の猛者として知られる武将であり、その勇名を知っていた輝虎から言葉をかけられると意気込むように貞興は返事を輝虎に返した。それを聞いた輝虎はしばらく馬を進めた後に、背後にて付いて来ていた景綱に向けて言葉をかけた。
「…景綱よ。」
「はっ。」
この輝虎からの呼びかけを受けた景綱は馬を進めて隣に陣取ると、それを見た輝虎は声少なに景綱に向けて一つの下知を伝えた。
「信隆らに使いを出せ。おそらく八月の末には秀高の首が上がる故、それと同時期に上方で行動を起こせとな。」
「八月の末…にございますか?」
この時、密かに京方面に潜入していた織田信隆に向けての下知を聞いた景綱は、その中にあった時期の八月の末という言葉に引っ掛かって尋ね返した。これに輝虎は自身の愛馬・放生月毛の上でこくりと頷いた後に景綱に向けて言葉を返した。
「そうだ。この戦、我が采配を取るからには万に一つの負けはない。それゆえに信隆らにはそう伝えるのだ。良いな?」
「…ははっ。」
輝虎の言葉を聞いた景綱はその場で承諾の意を示すと、並列に並んでいる自身の馬を後方に下げていった。後にその輝虎の命令は景綱から軒猿を通じて信隆配下の虚無僧へと密かに伝えられていったのである。その後しばらく行軍すると輝虎の前方より一騎の武将が輝虎の側近くにやってきた。その武将こそ先を進む景持本人であり、景持は輝虎と同じ列に馬を並べるとすぐさま報告を告げた。
「申し上げます!信濃木曽路に従軍していた村上義清殿より早馬到着!東山道に展開する幕府軍に動きなし故、こちらに軍勢を回す事を求めておりまする!」
「何、村上が…」
「如何なさいますか?」
この時、前の鎌倉における軍議において義清は小笠原長時や武田義信と共に木曽路へと進み、美濃国境に展開する遠山綱景・森可成等の軍勢とにらみ合いを命じられていた。その義清より上杉本軍への軍勢転進を求められた輝虎は報告して来た景持にすぐさま命令を伝えた。
「良かろう。ならば義清からの早馬にこう伝えよ。「木曽路より高梨秀政、島津忠直両名の軍勢をこちらに遣わせ」とな。」
「ははっ!!」
この命令を受けると景持は手綱を引いて馬を駆けさせ、遥か前方へと去って行って義清の早馬に命令を伝えに向かった。その後姿を見送った輝虎は、馬上で自らが進む道の遥か先にて待ち構えている秀高の事を睨むように鋭い眼光を向けながら、自ら意気込むような言葉をぽつりと呟いた。
「秀高よ…この戦で決着をつけてくれようぞ。」
この時、馬上の輝虎やそれに付き従う越軍総勢三万七千は秀高の決戦に向けて闘志を限りなく高めていた。目指すは幕府に巣食う悪臣・高秀高の征伐。そう信じて疑わなかったからこそ、上杉軍の士気は依然高まった状態を維持できていたのだ。この日、七月三十日には駿河持船城が落城。東海道を西進する関東諸大名の軍勢が激闘を繰り広げる中で上杉軍は一路、遠江へと進路を取った。人呼んで「越後の龍」・上杉輝虎と「尾張の狐」・高秀高の直接対決の時は、刻一刻と迫りつつあったのである…。




