1572年7月 東国戦役<北陸道side> 越中国進入
康徳六年(1572年)七月 越中国津毛城
七月二十四日。加賀国の隣国であるここ、越中では織田信隆の調略に乗っかった小島職鎮と椎名景直が上杉輝虎方に転じ、幕府方の神保長職や椎名康胤に反旗を翻して両名を追い払っていた。その追い払われた両名は管領・畠山輝長が越中の差配に派遣した実弟・畠山政頼が居城・増山城に逃げ延びており、これを援護するべく飛騨山地より幕府軍が越中国境を踏破。神通川沿いを南下し富山城の南にある小城・津毛城を制圧。ここで幕府軍は越中制圧の軍議を開いた。
「さて…我らはこうして難なく越中に入り、この城をほぼほぼ無傷で得ることに成功したわけだが、まずは現時点での情勢を確認するとしよう。」
「ははっ、ではこちらをご覧くだされ。」
津毛城内の本丸館にて開口一番に発言した金森可近に続いて、諸将への説明役を買って出たのは金森家臣としてこの軍勢に参陣する江馬信盛であった。信盛はその場に勢揃いする諸将に対し、現時点での越中国内の情勢を机の上にある絵図を用いて事細かに説明した。
「まず我らが味方にございまするが、ここ増山城には政頼殿が椎名・神保両将を迎え入れて守備兵五千余りで籠城をしておりまする。」
信盛が指示棒を手にして絵図を示しながら述べる説明を、諸将は食い入るように聞き入っていた。その空気の中で信盛は指示棒を操ってあちこちを指しながら言葉を続けた。
「この政頼殿に呼応し幕府に恭順の意を示すは、ここより東にある池田城の寺島職定、増山城より北にある日宮城の城主で神保一族の神保覚広、さらに能登国に近い森山城の神保氏張、森寺城の長沢光国など。いずれも神保家重臣の面々にございまする。」
この時、長職や康胤を追放した職鎮や景直に応じずに幕府への加勢を表明した武将たちの多くは、神保家の一門やその重臣たちであり元より家中にて専横の色を強めていた職鎮と対立していた者達ばかりであった。これらが職鎮の謀反ともいうべき決起に対し即座に幕府への加勢を表明したことは、少なからず増山城に籠る政頼たちや救援にやってきた幕府勢にとっては救いとも言うべき事であった。
「これに対し上杉方への加勢を表明したのは、願海寺城の城主である寺崎盛永、それに弓庄城の土肥政繁、小出城の唐人親広。いずれも富山と魚津を繋ぐ中間の諸城が上杉方に転じておりまする。」
一方、職鎮や景直の決起に応じたこれらの諸将たちは、どちらかといえば神保家の家臣というよりは在地の豪族たちというような面々ばかりであった。特に盛永や政繁は椎名・神保が越中国内で争っている最中で独自に勢力を伸ばした豪族たちであり、言わば半自治を椎名・神保から勝ち取っていた独自勢力であったのだ。これらが上杉に加担したというのはつまるところ、幕府の意向を尊重する神保家・椎名家の家臣たち対在地の諸豪族たちというような対立構造を生み出していたのだ。この両陣営の説明を信盛から聞いた後に可近へ発言したのは、金森家臣として従軍していた長屋景重であった。
「これを見る限り、能登や加賀に近い越中西部は幕府側といっても過言ではありませぬな。」
「ふむ…ではこれらの状況を踏まえ、我らはこれより如何動けばよかろうか?諸将のご存念を伺いたい。」
可近は軍議を主導する立場として諸将たちに方策を尋ねた。するとまずこれに応えて発言したのは、郡上八幡城の主となっていた旧上杉家臣・新発田長敦であった。
「畏れながら言上仕るが、ここはまず増山城の救援に動くべきではなかろうか?」
「如何にも。増山城に椎名・神保の両将が籠っておられる以上は、兎にも角にも救援に向かうべきかと。」
長敦の意見に賛同するように弟の五十公野治長が言葉を発すると、その中でこの軍議に参列していた一人の仏僧が手を上げた。この仏僧の名は傑山雲勝と言い、この陣に参列していた本庄繁長の軍師として迎えられていた仏僧であった。
「…畏れながら、この拙僧の意見を述べても宜しいかな?」
「構いませぬ。是非ともご意見をお述べ下され。」
繁長の隣に座していた雲勝に対し、可近が発言を促すと雲勝は立ち上がって信盛から指示棒を貰い受け、机の上の絵図を用いて自身の意見を諸将たちに対して述べた。
「恐らくではあるが、敵は増山の包囲を解いてこちらに転進してくるかもしれぬ。となれば、我らはあえてこの津毛城より動かず、野戦での迎撃地をあらかじめ定めておくのが宜しかろう。」
「敵が反転して参ると仰るので?」
雲勝は長敦や治長らが述べた救援策とは異なり、ここで待機し反転してくるであろう敵を野戦で迎え撃つ策を献じたのである。この意見を受けた景重が雲勝に尋ね返すと、雲勝は景重の方を振り向いてこくりと頷いた後に、再び諸将の方を振り向いて言葉を続けた。
「敵も飛騨から我らが来たことを聞いた上で、増山の包囲を続けるほど愚かではあるまい。少なくとも明日か明後日には富山城まで軍勢を引き上げて参るであろう。そうなれば英気を養った我らに分があるという物。野戦に打って出て敵を撃破すればよろしい。」
「なるほど…では雲勝殿はどの辺りで迎え撃つと?」
雲勝の言上に耳を傾けていた可近が、改めて雲勝に対してその野戦の場所を尋ねると、雲勝は明後日の方向を指差しつつ野戦を行う場所を答えた。
「ここより北にある月岡野と呼ばれる平野はなだらかな平野にて、敵勢を迎え撃つには万全の地にございまする。敵は富山からこちらに参る際、この太田本郷城に本陣を置くと見れば、両軍がぶつかるのは必然的にこの月岡野と相成りまする。」
「なるほど…よし、ここは雲勝殿の意見に従うとしよう。治長殿、方々に物見を放ち敵の動きを掴んできてくだされ。」
「承知した!」
こうして金森・新発田ら幕府軍の方針は野戦での迎撃策に決まり、幕府軍はその日の内に津毛城に小荷駄と守備隊を残すと月岡野の辺りへと移動、そこで野営を取りつつ治長が放った物見からの報告を待ったのであった。
一方、津毛城より天狗山を越えた向こうにある増山城。ここを包囲する小島職鎮・椎名景直らの陣中に飛騨からの幕府軍到来が告げられたのは、この日の午後の事であった。
「軍を反転なさると!?あともう少しで増山城は陥落するのですぞ!?」
その増山城を包囲する陣中にて声が上がった。声の主は織田信隆に代わってこの方面へと進軍して来ていた丹羽隆秀であり、隆秀は職鎮や景直から増山城の攻撃を止めて富山城への転進を聞いて驚きの余り声を発したのであった。
「富山の近くまで幕府軍に入り込まれれば、我らは退路を断たれる恐れがある。ここは口惜しいが富山まで下がり、飛騨から攻めてきた幕府軍を迎え撃つ!」
「畏れながら!増山城さえ落ちれば幕府軍は救援に失敗するどころか、幕府方についている国内の豪族たちもこちらに靡くと思われまする!ここはどうか増山城の攻略を優先すべきかと!」
少し焦ったかのような表情を浮かべる職鎮より撤退の仔細を聞いた隆秀が、職鎮を諫めるように増山城の攻略を優先するべきと唱えると、職鎮は背後に立っていた隆秀の方を振り返り、手にしていた軍配を勢いよく振り下ろしてから意見してきた隆秀を叱りつけるように言葉を返した。
「隆秀殿!城攻めの大将はこのわしである!貴殿はあくまで輝虎殿の客将の配下ではないか!ここではこのわしに従って貰いたい!行くぞ!」
「職鎮殿!」
隆秀を叱りつけた職鎮が黙したままの景直を連れて陣幕の外へ出ていくと、そのまま陣中に撤退の下知を伝えていった。この様子を職鎮が去って行った方法を見つめたまま隆秀がその場に立ち尽くしていると、その隆秀に堀直政や堀秀政が近づいて直政が隆秀に尋ねた。
「隆秀殿…如何なさいます?」
「やむを得ぬ。直政、この事を信隆様や輝虎様にお伝えせよ。」
「ははっ!」
この言葉を聞いた直政は返事を返すと、すぐさま虚無僧を通じて輝虎や信隆への密書を届けさせた。やがて職鎮らは増山城の包囲を解いて富山城へと帰還。そこから改めて幕府軍の迎撃を行うために出陣するのであったが、この行動を物見から聞いた月岡野の可近らは直ちに迎撃態勢を構築させつつ、迎撃に備えて英気を養うように休息を取ったのであった。




