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1572年7月 東国戦役<東海道side> 花沢城の戦い<後>



康徳六年(1572年)七月 駿河国(するがのくに)花沢城(はなざわじょう)




 三十一日正午、花沢城を取り囲む鎌倉(かまくら)勢の後方に流れる瀬戸川(せとがわ)を渡河する一つの軍勢があった。これこそ大井川(おおいがわ)より向こう、遠江(とおとうみ)小山城(おやまじょう)より駆けつけた松井忠次(まついただつぐ)が指揮する三千余りの軍勢であった。松井勢は騎馬武者主体の機動力を重視した軍勢であり、やがて軍勢が迅速に瀬戸川を渡河し終えると忠次は馬上より寄せ手の本陣…扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)の本陣がある石脇(いしわき)城跡地の小高い丘を兜の眉庇(まびさし)を上げてから見つめた。


「見つけたぞ…あれこそ「竹に飛び雀(たけにとびすずめ)」の家紋!上杉の本陣に相違あるまい!」


「叔父上…本当に勝てるのですか?」


 忠次の隣にて騎馬に跨っていた若武者。名を松平甚太郎家忠まつだいらじんたろういえただという。忠次が直に仕える東条松平家とうじょうまつだいらけの当主であり且つ忠次の甥でもあった。しかし生来病弱であった為に主立った戦などすべて伯父の忠次に一任しており、徳川家康(とくがわいえやす)より実際に小山城主に任されたのは叔父の忠次であったのだ。そんな家忠が忠次に話しかけると、忠次は家忠の方を振り向いてこう言った。


「ご案じなさるな。敵は大兵を抱えて慢心しきっておりまする。そこが敵の穴と申すべき物でござる。戦はこの忠次に任せられよ。」


「うむ…頼みましたぞ…。」


 叔父である忠次の言葉を受けると、家忠は騎馬武者たちに守られながら陣の後方へと下がっていった。それを確認した忠次は腰に差していた鞘から打刀を抜くと、切っ先を掲げてその場にいた将兵に号令を発した。


「よし!これより石脇城址に向かい、奴らの不意を突く!行くぞ!」


「おぉーっ!!」


 この忠次の号令を受けた将兵は奮い立つように喊声を上げ、馬の手綱(たづな)を引いて駆けさせた忠次の後に続けとばかりに石脇城址の方角へと攻め掛かっていった。この軍勢が上げた土煙によって石脇城址に陣取る扇谷上杉が本陣の歩哨が血相を変えて取り乱し、陣幕の中に駆け込んで総大将の上杉憲勝(うえすぎのりかつ)に報告した。


「殿、殿!一大事にござる!」


「何事か、城の門の一つでも破ったか?」


 と、憲勝は血相を変えた歩哨の様子など意に介さずに城攻めを行う花沢城の事だと勘違いして発言した。しかしその後に歩哨が憲勝に向けて報告した内容は厳しい状況そのものであった。


「後方より敵が迫って来ておりまする!我が勢の後方はがら空きなれば、至急応戦を!」


「何っ、後方からだと!?」


 この報告を受けてようやく事の重要性を感じ取った憲勝は床几(しょうぎ)から立ち上がると、すぐに陣幕を出て本陣の後ろの方角が見渡せる地点に立った。その視線の先にはこちらへとまっすぐ攻め込んでくる徳川が家紋「三つ葉葵(みつばあおい)」を掲げた一団の姿が見えた。これを見た憲勝は沸々と怒りがこみあげてきて、手にしていた軍配で自身の太ももを叩くとすぐさまその場にいた侍大将に下知を伝えた。


「お、おのれ…直ちに城攻めにかかる味方を後方に回せ!」


「…ははっ!」


 この下知を受け取った侍大将は城攻めにかかりきりであった味方の軍勢を呼び寄せるべくその場を去っていった。しかしその時点ですでに松井勢は石脇城址にほど近いところまで進んできており、やがて馬上の忠次が丘の頂上にある本陣と(おぼ)しき陣幕を見止めると、後に続く将兵に指し示すように号令を発した。


「進め!このまま一気に本陣を衝くぞ!」


 この言葉を受けた将兵たちは更に喊声を上げて反応し、一気に石脇城址にある扇谷上杉が本陣に攻め掛かった。これに対して側に布陣していた太田資正(おおたすけまさ)の一隊が松井勢の突撃を阻むべく応戦。両勢は石脇城址付近で戦闘を繰り広げ始めた。そしてこの様子を山頂にある花沢城の本丸付近にて大久保常源(おおくぼじょうげん)が弟の大久保忠員(おおくぼただかず)に対して土煙が上がった方角を指し示して言葉をかけた。


「おぉ、見よ。あの土煙こそ松井勢が攻め掛かった証じゃ。」


「如何にも。長秋(ながあき)、どこから打って出る?」


 兄の常源が言葉を聞いた忠員は、隣に立っていた城主の岡部長秋(おかべながあき)に出陣する方角を尋ねた。すると長秋はその場で各曲輪の様子を目視で確認すると、打って出るべき方角を軍配で指し示して忠員に言葉を返した。


「されば、寄せ手に近い八の曲輪から打って出るべきかと思いまする。」


「よし!我らはこれより打って出る!敵を思う存分蹴散らしてやれい!」


「おぉーっ!!」


 この号令によって城兵は城外への出撃を決意。城兵は外へと通ずる九の曲輪・八の曲輪へと分散していき、まず城外へと打って出るべく八の曲輪の冠木門(かぶきもん)の門が開かれ、そこから城兵たちが城攻めに疲弊していた寄せ手の軍勢を強襲するべく襲い掛かった。これを受けた八の曲輪を攻めていた寄せ手の大将・上田朝直(うえだともなお)は逃げ始めている味方を督戦するように呼び掛けた。


「ええい、退くな!退くなァっ!!」


 しかしこの督戦を受けても寄せ手の足軽たちはぞろぞろと逃げ始め、遂に朝直が逃亡を防ぐために刀の柄に手を掛けたその時、足軽たちの間をかき分けて攻め込んできた一騎の武将…忠員の槍を胴体に受けるとその一閃によって刀の柄から手を放し、突き刺してきた忠員の顔を苦悶に満ちた表情で見つめた後に呻き声を発し、やがて槍が胴体から抜かれるとその場に倒れ込んでいった。


「ぐ、ぐわぁ…」


「行けぇ!兜首に構わず敵陣めがけて突っ込め!」


 この朝直の死を見ても勝利のために首を取ろうともせず、忠員は城から続いて打って出た将兵に対して敵に襲い掛かるよう下知した。これを受けた城方の兵たちは寄せ手の軍勢を木っ端みじんに粉砕し、同様に九の曲輪から出撃した味方も同じように寄せ手の軍勢を撃破した。ここに至って城攻めを行っていた犬懸上杉(いぬかけうえすぎ)が軍勢は一目散に城攻めを止めて退却し、石脇城址の本陣を放棄した憲勝も太田資正が隊と合流してまたしても敗北した現状を馬上で悔いた。


「お、おのれまたしても…」


「徳川の力を見くびったつけ(・・)にございまする。」


 なおも悔しがる憲勝に対して資正が反省を促す様に言葉をかけると、敗北を悟った憲勝はすぐさまその場にとどまっていた将兵に撤退を下知した。


「ええい、引け!駿府(すんぷ)まで撤退せよ!」


 この憲勝の下知によって扇谷上杉の軍勢も花沢城より撤退。ここに花沢城の戦いは徳川方の勝利に終わった。徳川方の戦傷者は数百ほであったのに対し、鎌倉府勢が負った戦傷者の数は数千にも上り、また武将においても朝直やその子である上田憲定(うえだのりさだ)父子や太田虎資(おおたとらすけ)庶兄(しょけい)であった太田景資(おおたかげすけ)が討死した。まさに完全敗北といった損害を負った鎌倉府勢は駿府(すんぷ)へと後退。その駿府に徳川方の使いと称する一人の僧侶が訪れたのはその翌日である八月一日の事であった。





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