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1572年7月 東国戦役<北陸道side> 割れる一向宗



康徳六年(1572年)七月 越前国(えちぜんのくに)朝倉山城(あさくらやまじょう)




 府中城(ふちゅうじょう)を発った管領(かんれい)畠山輝長(はたけやまてるなが)指揮する幕府の北陸方面軍は十八日午後、越前国境に近い朝倉山城に入城し軍議を開くことになった。その輝長たちの所に新たな火急の報告がもたらしてきたのは隣国・加賀(かが)の国境近くにある大聖寺城(だいしょうじじょう)に入り加賀の一向宗監視に当たっていた本願寺(ほんがんじ)坊官・下間頼照(しもつまらいしょう)であり、頼照は朝倉山城の本丸館で軍議を開く輝長たちと面会すると驚きの情報を伝えた。


「加賀の一向宗が一揆を起こしただと!?」


「はっ、面目次第もない事にございまするが…。」


 頼照がもたらしてきた情報。それ即ち加賀一向宗の本山・尾山御坊(おやまごぼう)の門主代理を務める七里頼周(しちりよりちか)が国内の一向衆徒を扇動して一向一揆を起こし、上杉輝虎(うえすぎてるとら)方に味方する事を表明したのである。この頼周、本願寺の顕如(けんにょ)より加賀一向宗の統率を託された坊官であり、これ即ち、国内の殆どの一向衆徒が一揆に加担したことを意味していたのである。


「頼周の檄文に応じた一向衆徒は、頼周を「加州大将(かしゅうたいしょう)」と号して実質的な総大将に推し立て、副将に鈴木重泰(すずきしげやす)徳田重清(とくだしげきよ)窪田経忠(くぼたつねただ)ら国内の大身の豪族たちが就いて幕府軍の進軍を阻もうとしておる由。」


「加賀一向一揆が敵に回ったと…。」


 昨日まで輝長たち幕府軍の諸将たちは、安全圏である加賀を越えてその先の越中(えっちゅう)能登(のと)にて沸き上がった内紛を鎮めれば良いと考えていたが、今日のこの報告によってより困難な加賀一向一揆の鎮圧という骨の折れる仕事をこなさねばならないという現実を叩きつけられたのだった。その現実を誰よりも受け止めていた輝長は、目の前に置かれた机に広がる絵図を見つめながらぽつりと呟いた。


「よもや輝虎の手が加賀まで及んでいようとはな…やはりそう簡単に越後(えちご)まで向かわせてはくれぬか。」


「しかしここで手をこまねいていては、越後口から東北(とうほく)諸将の援軍がやってくるかもしれませぬ。」


「その懸念は無用かと。」


 輝長の言葉を受けて浅井高政(あざいたかまさ)が更なる懸念を表明すると、それを聞いた高秀高(こうのひでたか)が家臣・三浦継高(みうらつぐたか)が高政の懸念を払拭させるように、秀高配下の稲生衆(いのうしゅう)から伝えられた情報を高政や上座の輝長に向けて報告した。


「我が主より忍びが遣わされて参り、陸奥(むつ)糠部郡(ぬかべぐん)津軽四郡(つがるよんぐん)、それに出羽(でわ)比内(ひない)秋田(あきた)檜山(ひやま)三郡にて南部(なんぶ)安東(あんどう)らが鎌倉府(かまくらふ)に反抗し兵を挙げたとの由。これによって陸奥や出羽の鎌倉方諸侯の殆どは対応に追われ、こちらに出向いて参る兵は少ない物かと。」


「何と…それは秀高が計略であるか?」


 この時点で北陸道を進む幕府軍諸将たちに、東北最北部で起こった南部・安東らの反乱の情報が伝えられたのである。その情報を聞いた輝長は大いに驚いて継高に聞き返すと、継高はただ黙ってこくりと頷いた。それを見た輝長は今まで厳しい現実を見せつけられていた中で一筋の光を見つけたように、少し表情を明るくさせながら得心するように頷いた。


「流石よのう…もしその反乱が無ければ、我々はいつこちらに来るか分からん東北(とうほく)諸侯の軍勢に怯えなくてはならなかったわ。」


「はっ。これで双方とも五分と五分の戦いに持っていけた訳にございまする。」


 輝長の言葉に朽木元綱(くつきもとつな)が相槌を打つように言葉を発すると、それを聞いた輝長は首を縦に振ってからこう言った。


「うむ。ならば南部と安東が時を稼いでくれている間に、こちらは加賀・能登・越中の内紛を鎮めるとしよう。」


「如何にも。(しか)らばどのようになさる?」


 輝長の方針を聞いてこの方面に従軍する高家臣・毛利長秀(もうりながひで)が今後の方策を尋ねると、輝長はそれを聞いて手に指示棒(さしぼう)を持ち、目の前に広がっている絵図を指し示しながら方策を打ち出した。


「然らば明日より全軍、この大聖寺城に入り加賀一向一揆の鎮圧にかかるとする。頼照よ、まずは一向一揆側のどこを攻めればよいか?」


「はっ、大聖寺城に近い打越城(うちこしじょう)。ここには藤丸勝俊(ふじまるかつとし)が元の城主である桂田中務(かつらだなかつかさ)に代わって入っておりまする。」


「なるほど…まずはさしずめ打越城攻めとなる訳だな?」


 この打越城は頼照が拠る大聖寺城と目と鼻の距離にあり、一向一揆に加担する事を表明したこともあって幕府軍の最初の標的に挙げられるは必定であった。その事を輝長から聞かれた頼照は、こくりと頷いてから補足を付け足すように輝長に情報を伝えた。


「はっ。幸い山中温泉(やまなかおんせん)の方の一向衆徒はこちらへの加勢を表明しておる故、そちらからの側面攻撃はないと見てよろしいかと。」


「よし、ならばまずは打越城攻めにかかるとしよう!頼照、我らと共に従軍すると共に、旗色鮮明ならざる一向衆徒にこちらへの協力を促して欲しい。」


「承知致しました。そのこと我が門主様にもお伝えいたしまする。それともう一つ…」


 輝長の言葉を受けて頼照が相槌を打った後、頼照はふと法衣の袖から一通の書状を取り出して輝長に差し出すと、その書状の差出人の名前を口に出してから内容を輝長に伝えた。


「これは瑞泉寺(ずいせんじ)の住職・顕秀(けんしゅう)様からの書状にて、越中国内の一向衆徒は畠山政頼(はたけやままさより)殿を立てて神保長職(じんぼうながもと)殿・椎名康胤(しいなやすたね)殿を後援し、上杉(うえすぎ)方に付いた小島職鎮(こじまもとしげ)椎名景直(しいなかげなお)らと敵対するべく一揆を扇動したいと。」


「何、では越中でも一向一揆は起きるがその対象は反乱した職鎮らだというのか?」


 頼照から越中の一向一揆が幕府側に立つという内容を聞いて高政が頼照に尋ね返すと、頼照はただ黙ってこくりと首を縦に振った。それを見た輝長は机の上に広がる絵図を見つめた後、自分なりに考えを巡らせてから頼照に向けてこう言葉を発した。


「良かろう。今となっては一向宗の力も欲しい。なれば顕秀に伝えよ。働き次第では顕秀に尾山御坊(おやまごぼう)を与えるとな。」


「な、それは真の事で?」


 輝長が頼照に伝えた内容は、顕秀にとってみれば破格の条件ともいうべきものであった。今顕秀が住職を務める瑞泉寺も越中国内最大の一向宗寺院であったが、尾山御坊は言わば北陸方面での一向宗統率の本山であり、そこを与えられるという事は今以上の地位への引き上げを意味していたのである。それを踏まえて頼照が聞き返すと、輝長は聞き返してきた頼照の顔を見つめながら即座に言葉を返した。


「褒美を上げねば後でややこしいことになりかねん。ともかくその事を返書に書いておけ。後の事は何とでもなろう。」


「ははっ…承知いたしました。」


 輝長の意向を受けた頼照はその場で返事を返し、やがてその旨を記して越中瑞泉寺へと書状を送ったのであった。こうして北陸道を進む幕府軍は道中の三ヶ国で内紛や一揆が起こるという事態に直面したが、輝長は務めて冷静に一個ずつ対処すべく行動を開始。翌十九日から加賀国に入って噴出した加賀一向一揆の鎮圧行動を取り除きつつ、顕秀に命令して越中一向一揆を起こさせて越中国内の幕府方を援護させたのである…。





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