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1572年7月 東国戦役<北陸道side> 謀略噴出す



康徳六年(1572年)七月 越前国(えちぜんのくに)府中城(ふちゅうじょう)




 康徳(こうとく)六年七月十七日。東海道(とうかいどう)方面において上杉(うえすぎ)鎌倉府(かまくらふ)軍と高秀高(こうのひでたか)が総指揮を執る幕府軍との戦いが繰り広げられている中、同月十一日に(みやこ)を進発した畠山輝長(はたけやまてるなが)指揮する北陸方面軍は道中幕臣たちや秀高配下の軍勢、そして北陸道進軍を命じられた浅井高政(あざいたかまさ)らの軍勢を加えて越前支配の拠点として築城されたここ、府中城に入城して軍議をそこで開いた。


「さて…諸将も知ってはいると思うが既に東海道において、関東(かんとう)方と幕府傘下の諸大名らが刀を交えておる。」


「聞けば徳川(とくがわ)殿はじりじりと後退するように勢力圏を狭め、敵を遠江(とおとうみ)国境まで誘い込む腹積もりであるとか?」


 府中城本丸にある本丸館。この中の広間にて開口一番に発言した輝長に向けて高政は東海道から上がってくる情報を含めて輝長に尋ねた。これに対して輝長は高政の方を振り返ると自身の目論見を高政に伝えた。


「如何にも。おそらく秀高と徳川殿が示し合わせた上での後退ではあろうが、うまく行けば鎌倉府の軍勢を徳川領の奥深くまで誘い込むことが出来よう。」


「そうなれば、その間に北陸道を進んで越後(えちご)本国を突くことも叶いまするな。」


 この時、北陸道を進む幕府軍諸侯たちの中には少し楽観的な論調が広がっていた。というのも現時点では越後までの北陸道各国は比較的幕府側の立場を取っている為、何の障害も無く越後へたどり着けるだろうと考えていたからである。そのような空気の中で輝長はこの方面に従軍していた秀高家臣であり観音寺(かんのんじ)領の将兵を率い参陣していた三浦継高(みうらつぐたか)の方を振り向いて北陸道進軍におけるもう一つの重要国・飛騨(ひだ)方面の動向を尋ねた。


「継高、飛騨の動きはどうなっておるか?」


「はっ、報告によれば既に金森可近(かなもりありちか)殿の居城である松倉城(まつくらじょう)新発田(しばた)殿の軍勢が着陣し、こちらが加賀(かが)国境を踏み越え次第飛騨から越中(えっちゅう)に進む手はずと相成っておりまする。」


 この北陸道を進む軍勢には、飛騨から神通川(じんつうがわ)を経由し越中へと進軍する金森・新発田勢合わせて一万余りの軍勢が別動隊として進軍する手はずとなっていた。飛騨から越中へ抜けることが出来ればそれこそ越後への牽制としては十分であり、その間に本隊が越後へと進めばより大きな圧力を越後にかけることが出来ると輝長たちは考えていた。


「加賀まで進めば能登(のと)畠山義慶(はたけやまよしのり)殿とも合流できる。そうなれば越後本国に圧力をかけることが出来よう。」


「左様ですな…問題はこれで上杉輝虎(うえすぎてるとら)がどう出てくるかですな…。」


「申し上げます!」


 と、その場に輝長家臣の遊佐信教(ゆさのぶのり)が血相を変えて駆け込み、その場に漂っていた楽観論を消し飛ぶような報告を上座に座る輝長に向けて報告した。


「能登、越中から急使が参っておりまする!」


「何、能登・越中から!?」


「ははっ!能登の早馬殿!」


 急使とは言わば一大事があったとの暗喩でもあり、その一大事が現実になっていく様を能登、そして越中から来た早馬たちが順番ずつその場にいる諸将たちに報告していった。


「申し上げまする!能登にて遊佐続光(ゆさつぐみつ)温井景隆(ぬくいかげたか)らが謀叛を起こして七尾城(ななおじょう)を強襲!畠山義慶殿を幽閉し上杉方に加勢する旨を表明致しました!」


「何だと!?義慶殿が!?」


 能登畠山当主・畠山義慶は織田信隆(おだのぶたか)の工作を受けた重臣の遊佐・温井らによって居城の七尾城を襲われ、幽閉の憂き目にあったのである。この情報を受けて輝長ら諸将たちが驚きの余り言葉を失うと、能登から来た早馬は続けて報告を述べた。


「なお、この両名の謀反に対し同じ畠山重臣の三宅長盛(みやけながもり)もこれに呼応し、幕府臣従を進めていた長続連(ちょうつぐつら)綱連(つなつら)父子の穴水城(あなみずじょう)を落とすべく兵を向けたとの由!」


「能登畠山で内紛が起きるとは…」


「続いて越中からの早馬殿っ!」


 能登畠山の惨状を聞いて輝長が呆然とするように言葉をつぶやくと、信教は能登からの早馬を下がらせてから越中からの早馬を呼び寄せて、広間の中に座す諸将たちに向けて報告させた。


「申し上げます!神保(じんぼう)重臣、小島職鎮(こじまもとしげ)富山城(とやまじょう)より神保長職(じんぼうながもと)を、椎名(しいな)家養子の椎名景直(しいなかげなお)が養父である椎名康胤(しいなやすたね)らを追い払い領地を掌握!ともに上杉方への加勢を表明しました!」


 越中の早馬が伝えてきたのは正に危機的状況ともいうべき内容であった。というのも幕府がその立場を認めた長職・康胤両名が信隆を通じて上杉方に転じた家中の重臣・一門などによって追放された。これ即ち越中一国が上杉方に染まった事と同義であり、この報告を聞いた高政は大いに驚いて早馬に尋ね返した。


「何と!?して長職殿と康胤殿は!?」


「長職殿と康胤殿は管領様の実弟であらせられる畠山政頼(はたけやままさより)殿が入られる増山城(ますやまじょう)に落ち延び、そこで小島職鎮と対立する寺島職定(てらしまもとさだ)らの援護を受けて籠城の構えを取っておりまする!」


 この頃、越中西部の山城である増山城には越中統治の任を輝長より受けた政頼が入城しており、その増山城に両名が逃げ込んだことを聞いた輝長は少し安堵した表情を浮かべてから広間の外に待機する信教に向けて言葉をかけた。


「そうか…ご苦労であった。両者に水と休息を取らせてやれ。」


「ははっ!」


 その下知を受け取った信教は返事を返した後、報告に来た早馬たちを連れてその場から去っていった。この報告によって越後に入る事は叶わなくなったどころか、越中・能登の内紛を収める必要性が出た事を受けてこの方面に従軍していた幕臣・朽木元綱(くつきもとつな)は目の前の机に広げられていた北陸道一帯の絵図を見つめながら言葉を発した。


「越中、能登で内紛が起きるとは…しかもまるで時期を見計らったかのように…。」


「おそらく全て、輝虎や客将の織田信隆が糸を引いているであろうな。」


「織田信隆…にございまするか。」


 この軍議の席上において、輝虎と同列に初めて織田信隆という名が出た。それはここまで見事な攪乱策を行えるのは信隆のみであり、その手腕を何度も戦った秀高から聞いていた諸将たちが改めて恐ろしさを肌で実感した感想のような物であった。その想いを胸中に抱いていた輝長は、話しかけられた高政の言葉の後にこくりと頷いてから答えた。


「うむ。ここまで見事に攪乱策を成功させられては、越後までの道のりは容易なものではあるまいな。」


「その通りかと。」


 この輝長の言葉に従軍していた高家客将かつ諸侯衆に列する尼子勝久(あまごかつひさ)が反応すると、輝長は(うつむ)いていた顔を上げて継高の方に視線を合わせると、すぐに一つの対応策を打ち出した。


「継高。飛騨の可近に諸々の準備が整い次第、越中の国境を踏み破って神通川沿いに北上せよと伝えよ。」


「承知いたしました!」


 輝長よりその下知を受け取った継高が声を上げて返事すると、それを聞いた輝長はその場に居並ぶ諸将たちを視界に収めてから明日からの方針を打ち出した。


「よし、ひとまず明日は越前国境に近い朝倉山城(あさくらやまじょう)に入城し、そこで改めて策を練るとする。良いか?」


「ははっ!」


 こうして、輝長ら北陸道を進む諸将たちはそれまでの楽観論を捨て、突如として沸き上がった敵を打ち倒すべく行動を起こした。そして日が明けた翌十八日に北陸道の幕府軍は府中城を発ち、加賀国境に近い朝倉山城に入城することになった。しかし、そこでまた輝長たちは驚きの報告を受けることになるのである…。





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