1572年7月 東国戦役<東海道side> 興国寺城の戦い
康徳六年(1572年)七月 駿河国興国寺城
康徳六年七月九日。上杉輝虎が支配する鎌倉府と高秀高が属する室町幕府の戦いの火蓋は、徳川家康が支配する駿河の最東端にあるここ、駿東郡は興国寺城で切られようとしていた。かつて北条の始祖である伊勢宗瑞が今川より賜った由緒あるこの城を守るのは、京にて在京の任に就く大久保忠世・忠佐兄弟の父である大久保甚四郎忠員であった。
「かなりの大軍勢であるな。」
「はっ。されどどうやら隣国の犬懸上杉はまだ来ておらぬ様子。」
忠員は興国寺城本丸に拵えられた物見櫓から、城を取り囲む寄せ手の旗指物を見て言葉を返した。その忠員の隣にいて話しかけた人物こそ忠員の兄である大久保新八郎忠俊。この頃は既に出家して僧体となり、号を常源と名乗り人呼んで「大久保常源」とも呼ばれていた。
「うむ。だが旗指物を見るに相模の大森や三浦など扇谷上杉が傘下の大名たちじゃ。旗指物の数からざっと見積もって八千はおるぞ。」
「えぇ。まさに勿怪の幸いは、犬懸上杉の軍勢がいない事ですな。」
物見櫓から包囲する敵陣の様子を窺う忠員らの眼から見ても、興国寺城にほど近い伊豆の犬懸上杉が軍勢着陣していない事は正に好都合ともいうべきものであった。事実大森・三浦ら興国寺城を取り囲む軍勢は連なって包囲している訳ではなく、典店に分散して各攻め口に布陣する程度という穴のある布陣を強いられていた。これも全ては本来着陣している予定であった犬懸上杉の進軍の遅れが響いていたのである。
「忠員殿、外の様子を偵察して参りましたぞ。」
「おぉ、氏続殿。如何であったか?」
この忠員の元に報告に来た武将、名を垪和氏続という。もとは北条氏康の家臣であったが北条家滅亡後は今川家臣に収まって興国寺城の城代を務めていた。やがて徳川家が今川の駿河領を吸収すると新しく興国寺城主となった忠員の与力となり、この包囲戦に籠城側として加わっていたのである。
「忠員殿、どうやら敵はまだ完全に包囲しきれていない様ですぞ。」
そう言うと氏続は物見櫓の梯子を登り切って忠員らと同じ階層に立つと、すぐに忠員らの元に駆け寄ってそこから外の様子を指差しつつ敵の陣容をつぶさに忠員らに報告した。
「大森勝頼の本陣は城から東の青野にある寺院にあり、三浦義季が軍勢は城の南、そして西の方角にある根古屋には鎌倉府傘下に入った葛山氏貞が布陣いたしておりまする。」
「葛山か…やはり鎌倉府側に付いたか。」
葛山氏貞…先の桶狭間の戦いの際、高秀高の前に敗死した葛山氏元の死後、不在となった駿東郡内最大の豪族・葛山家の名跡を継いだ人物であり、先の徳川家による駿河制圧の際には渋々徳川家の麾下に入っていたため、徳川家中からは全く信頼されていなかった。因みにこの氏貞、父は川中島にて討死した武田信玄であり、今の甲斐国主・武田義信の弟でもある。
「致し方ありますまい。元より信用は全くしておりませんでしたからな。だがそうか…ここからも見えるがやはり、寄せ手は軍勢と軍勢の間が広く空いているな。」
「如何にも。守兵が千五百しかいないこの城では籠城すれば無駄死にになりまするが、逃げて富士川向こうの蒲原城まで逃げ切ればなんとかなりましょう。」
常源や忠員、そして配下の氏続は会話を交わして策を話し合っていた。忠員もその下に付く城兵たちも、犬懸上杉がいないとはいえ守兵千五百に寄せ手八千では話にならない事は分かり切っており、目下の策としては城を離脱しここより規模の大きい蒲原城へと逃げ込む事であった。事実それは先ごろ浜松にいる家康から城主の忠員にもたらされた書状にも同様の事が書いてあった。
「我が殿からも無理に籠城するのではなく、可能ならば打撃を与えつつ後退せよとの命を受けておる。城を捨てるのは口惜しいが今は勝つためにも退くべきであろう。」
「ならば今宵は月明かりもない故、夜陰に乗じて城を抜けるか。」
常源が上空を仰ぎ見ながらそう言葉を発すると、忠員はこくりと頷いた後に目の前に立っていた氏続の方を見ながら言葉を返した。
「えぇ。夜になったら城内にて松明を焚き、密かに西門を開けよ。旗指物を城内に掲げたまま、密かに城を出て西の葛山勢を突破する!」
「うむ。ならば飛び道具の類は城に捨て置き、白襷を身に付け槍刀を携えさせよう。」
こうして興国寺城内は密かに脱出の準備を始めるように慌ただしくなった。即ち城内には所狭しと松明や旗指物、それに陣笠を被せた案山子などが用意される一方、弓・鉄砲と言った飛び道具の類は蔵に全て納められて脱出する城兵たちは、頭に白の鉢巻きと具足の上から白襷をかけて各々槍や刀を手にした。こうした城内の様子は偶然にも城外に悟られることなく、やがて時刻は日没を迎えて夜も更けていった真夜中になった。
「手筈は良いな?」
「はっ、万事整っておりまする。」
既に城外の包囲陣を敷く寄せ手が寝静まったこの頃、城内では馬に跨る忠員が側にいた侍大将に準備の程を尋ねた。それに侍大将が返答すると忠員はこくりと頷いた後で、腰の鞘から打刀を抜いて城内の味方に対して号令を飛ばした。
「よし、門を開けよ!物音を立てずに城を出て、夜陰に乗じて葛山勢を強行突破する!」
「ははっ!!」
この号令の後、興国寺城の西門は極力音を立てぬようにゆっくりと開けられ、通が開いた後に忠員は馬を駆けさせて城外へと駆けていった。これに常源や氏続を含めた興国寺城内の将兵千五百全てが付き従い、一気呵成に喊声を上げて根古屋に陣を敷く葛山勢二千に攻め掛かっていったのである。
「な、なんじゃ!」
「敵襲にございまする!城方の夜討ちにございまする!」
まさに寝込みを襲われたかのようなこの奇襲攻撃を受け、葛山勢の中央部にて陣幕を垂らしその中で眠っていた氏貞はこの喊声に叩き起こされて慌てると、そこに葛山家臣である御宿監物友綱が現れて城方の敵襲を告げてきた。これを聞いた氏貞は寝台として用いていた盾から立ち上がると近くの小姓に鎧の仕着せを受けながらすぐさま采配を振るった。
「ええい、応戦せよ!兵どもを叩き起こせ!」
「ははっ!」
氏貞の采配を受けた友綱はすぐさま踵を返してその場から去っていき、直ちに周囲に展開していた足軽たちを叩きお越しに向かって行った。一方、その指示が伝達されていない葛山勢前方では襲い掛かってきた城方が寝静まっている葛山勢の足軽たちを次々となぎ倒しつつ、葛山勢の奥へと伸びている街道をひたすら西の方角へ駆けていった。
「雑兵兜首に構うな!立ち塞がる者のみ斬り捨て、速やかにこの地から抜けるのだ!」
「おぉーっ!」
僧体である常源が馬上から槍を振いつつ、付き従ってくる味方の足軽たちに向けて呼び掛けた。これに応じるように足軽たちも槍や刀を振るって立ち向かってくる足軽だけを斬り倒して常源の後を追いかけていった。やがてその場に葛山家臣である友綱が馬に跨って現れると、突然の奇襲に及び腰となっている味方に対して督戦するように呼び掛けた。
「ええい、怯むな!怯むなっ!!」
「ふんっ!」
と次の瞬間、馬に跨っていた友綱が近づいてきた一騎の騎馬武者から一太刀を受け、呼びかける声を止めて地面へと落ちていった。即ちこの一騎こそ興国寺城主でもある忠員その人で、忠員はなおも城から続いてくる味方に対して簡潔に呼びかけた。
「一気に抜けよ!白襷に続け!」
そう言うと忠員は手綱を引いて先を進む常源の後を追いかけてその場から離脱していき、これに氏続も続いて正に嵐が過ぎ去ったかのごとく、城方の将兵は主だった損害を出さずに迅速に離脱していった。この様子を寄せ手の包囲陣中央部に陣取っていた三浦勢の陣幕から騒ぎを見守っていた義季は呆気に取られるように呆然と立ち尽くしていた。
「な、なんという事だ…」
「父上!城方はどうやら城を棄てた模様にございまする!」
と、その場に義季の嫡子である三浦義時が城の様子を探って報告しに来ると、義季はくるっと陣幕の中に戻ってその場に配置されていた机を拳でドンと叩いて歯ぎしりしながら悔しがった。
「ええい、これでは公方様に申し訳が立たぬ…。」
上杉・鎌倉府と京の幕府による戦いの緒戦となった「興国寺城の戦い」にて、鎌倉府は戦略面では興国寺城の制圧に成功し、これによって富士信通の離反を促すことが出来た。しかし戦術面では城方の夜襲離脱戦術の前になすすべもなく敗北し、葛山家臣・御宿監物を失うなどその損害は少なくなかった。一方、興国寺城からの離脱に成功した忠員らはその足で青山忠門が城主を務める蒲原城へと向かって行ったのである。




