1572年7月 龍狐激突へ
康徳六年(1572年)七月 山城国伏見城
「それで殿、残る三河の布陣は何となされるので?」
伏見城本丸表御殿は大広間にて行われる上杉輝虎・足利藤氏率いる鎌倉府の軍勢に対する軍議の席。徳川家康が領国・遠江、そして三河への出陣を評議しているこの席で参加していた北条氏規が三河方面への布陣を上座に座す高秀高に尋ねた。すると秀高は氏規の問いかけに対してこくりと頷いた後、その場にいる家臣たちに向けて三河方面への布陣策を舞が側に付いている絵図を用いながら説明した。
「三河方面での徳川家の重要拠点は大きく六つある。まずは東三河の重要拠点である吉田城と長篠城。それに奥平貞能の居城である作手城に幼い戸田虎千代を主とする二連木城。そして西三河。徳川家の本拠である岡崎城に久松高家の居城である刈谷城だ。」
「秀高、その長篠と吉田には誰が入っているんだ?」
秀高が説明を聞いてから、下段にて秀高の側近くにいた大高義秀が東三河の要衝である両城の城主を尋ねた。これに秀高は即答するように義秀へ両城の城主の名前を告げた。
「この吉田には徳川家の家老である酒井忠次。そして長篠城には元の城主である菅沼正貞が放逐されて、今は徳川家の一族である大給家の松平真乗が本多広孝と共に入城している。」
「確か…本多広孝は田原城の城主でしたな?」
余談ではあるがこの本多広孝が居城とする田原城、この城はかつて知立の戦いで戦線を離脱した戸田宜光が父・戸田康光が居城でもあり戸田本家の本城でもあったが、紆余曲折あって宜光の次男・戸田忠重の幼子である虎千代が二連木城主に収まり、この田原城には家康の差配によってこの広孝が城主に収まっていたのである。
こう言った経緯を知っていた重臣・滝川一益が秀高に対してその情報を含めた言葉を返すと、それに秀高はこくりと頷いてから発言を続けた。
「そうだ。そこは家康殿が真乗を補佐する為に入城させたのだろう。それを踏まえて俺たちの軍を配置するんだが、信濃の国境から遠い岡崎や刈谷に兵を置く必要はないと思う。」
「確かに…どちらかと言えば信濃に国境を接する三河東部の城に配置するのが筋にございまするな。」
秀高が言うように地理的な関係で言えば、信濃国境から上杉や鎌倉府傘下の諸大名軍が徳川家の本城・岡崎を突く可能性は極めて低かった。それをこの軍議に参加していた岸和田城代の高浦秀吉が顎に手を当てながら秀高の意見に賛同するように言葉を発すると、それを聞いた秀高は首を縦振った後に重臣たちに向けて方策を語った。
「そこで三河東部には先の軍議で出陣が決まった伊勢・伊賀の城持大名たちを充てる。北条氏規は自身の軍勢を率いて長篠に。滝川一益は作手、長野藤定には田原、そして信頼は前線補佐として吉田に配置する事とする。」
「ほう、我々を三河東部に配置するのですな?」
秀高の采配を聞いて城持大名でもあり諸侯衆にも列していた藤定が秀高に言葉を返すと、秀高は意見を述べてきた藤定の方を振り返り、首を縦に振って頷いた。
「うん。特に氏規や一益が布陣する設楽郡一帯は信濃、そして美濃とも国境を接している。両名は美濃国境を守備する可成や綱景と連携して信濃諸大名の阻止を任せたい。」
「承知しました。これも大事な役目。きっと果たして見せまする。」
「殿、一つ気になる事が…」
と、その秀高の命を受けた氏規の脇にいた筆頭家老・三浦継意がその場で自身が気になっていたある事を秀高に尋ねた。
「その殿の陣割の中には、ここにいる九鬼嘉隆の名がありませぬが?」
「継意、そう心配するな。」
継意が示して懸念を聞いた秀高は、その懸念を払拭させるように陣割に名前が無かった嘉隆の本来の役目をこの場にて即答で発表した。
「嘉隆には先の軍議で伊勢・志摩・尾張の当家水軍を率いて海上から援護、並びに伊勢湾・遠州灘・駿河湾の制海権確保を行ってもらう。」
「制海権の確保?」
継意が秀高の意見を聞いて反芻して言葉を返した。この時、嘉隆は諸侯衆の役を幕府内にて持っていたが、その一方で高家の水軍衆の大将という一面も持っており、秀高はこの水軍衆の大将という側面を活かして嘉隆に制海権確保という大役を任せることにしたのである。
「もし、鎌倉府の軍勢が駿河を突破した場合、その軍勢に補給する兵糧は陸路の薩埵峠経由ではなく、伊豆から海路で駿河へ運びこむ駿河湾経由となるだろう。そこで駿河湾の制海権をこちらで確保してしまえば、それだけで鎌倉府の軍勢を大きく足止めできるだろう。」
「なるほど…」
つまるところ、これは海上封鎖の一環である。実際に陸路で荷車に米俵を載せて運ぶより、船に乗せて対岸に運ぶ方が運搬できる兵糧の量も段違いであった。秀高はこうした兵糧などの兵站線を阻害すべく、九鬼嘉隆に高家水軍を総動員させてこれらの海域を抑える事にしたのである。そんな中、この大役を秀高より仰せつかった嘉隆は秀高に対してこう言葉を発した。
「殿!その水軍につきまして、実は先ごろより貫堂殿や義秀殿と協議していたあれの投入が可能になりましたぞ。」
「何、それは本当か!?」
嘉隆が漠然と言った内容を聞くや、秀高は上座にてスッと膝立ちになった。そしてその嘉隆の会話の中にあった義秀の方を振り向くと、義秀は嘉隆と顔を見合わせた後に秀高に向けて言葉を発した。
「あぁ。技術面では殆ど貫堂の力みたいなもんだが、その知恵のお陰で多数の投入が可能になったぜ。」
「そうか…よくやってくれた。」
この義秀の言葉を聞くや秀高は安堵の表情を浮かべ、上座に腰を下ろすとにこやかに微笑んだのであった。この会話を脇で聞いていた森可成が言わば置いてけぼりを食らった重臣たちに成り代わって秀高に尋ねた。
「殿、あれとは何でござるか?」
「あぁ、それはな…」
可成の言葉を受けた秀高は義秀や嘉隆と目配せをした後に、その場にいた重臣たちに向けてあれについての詳細な内容を伝えた。すると秀高から伝えられた詳細な内容を聞くと重臣たちは大きく驚き、その中で安西高景が秀高に対して言葉を返した。
「なんと…そのような物を!?」
「そうだ。これを投入すれば既存の舟どころか、陸上への攻撃も大きな物となるだろう。」
この秀高の言葉を聞いた重臣たちは、詳細を聞いてから効果が大きい予測を脳内に立てていたが初めてそれが確信に代わり、やがてその中で遠山綱景が隣にいた氏規の方を振り向いて言葉をかけた。
「…きっとそれを見れば、鎌倉府の軍勢は度肝を抜かれまするな。」
「そうだ。これらの方策があれば鎌倉府の軍勢に大きな損害を与える事が可能となる!」
綱景の言葉を受けて発言した氏規と同じく、その場にいた重臣たちは来たる鎌倉府の軍勢との戦いに一筋の光が見えたように沸き立った。この雰囲気を受け取った秀高はこくりと頷いてからその場でスッと立ち上がると、下座に控える重臣たちに向けて号令を発した。
「良いか、俺はここで将兵を整え次第、義秀や松永殿など参陣する諸将を率いて後詰として東海道に出陣する。皆はそれまで各地の守備に務め、可能ならば各自で鎌倉府の軍勢に打撃を与えてくれ!」
「ははっ!」
この秀高の号令以降、高家は本格的な上杉・鎌倉軍の迎撃体制を構築し始めた。各城主たちはそれぞれの任地に帰って兵を集め、それぞれの持ち場について迎撃態勢を固めていったのである。そしてこの総大将である秀高は後詰の出陣日時の調整などを伏見で行う為に上方に逗留。東海道方面の前線指揮は軍監として派遣した坂井政尚を通じて嫡子・高輝高に任されることになった。後詰である秀高本軍の出陣予定日は八月上旬。その出陣を前にこの翌日八日、徳川領国・駿河にて双方の先鋒が刃を交えることになったのである…。




