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1572年7月 不測の事態



康徳六年(1572年)七月 越後国(えちごのくに)春日山城(かすがやまじょう)




 それから数日後の七月十二日。自身の本拠でもある春日山城(かすがやまじょう)に帰城していた上杉輝虎(うえすぎてるとら)は、重臣の直江景綱(なおえかげつな)や数年前に誅殺された長尾政景(ながおまさかげ)に代わって越後本国の留守居を務める一門の上杉景信(うえすぎかげのぶ)を本丸館に呼び寄せて上杉本軍の戦備えを尋ねた。


「既に殿の旗本他、北条(きたじょう)安田(やすだ)柿崎(かきざき)などの南越諸将、並びに揚北衆(あがきたしゅう)の頭目となった色部(いろべ)中条(なかじょう)などの国人衆も着々と兵を揃えつつありまする。」


「うむ…これに加えて先に謹慎していた河田(かわだ)山吉(やまよし)が手勢も加えれば上杉本軍はざっと四万辺りになるか。景信殿、兵糧の手配は如何程に?」


 春日山城の本丸館において景綱の報告を受けた輝虎は、その場にいた景信に兵糧の用意を尋ねた。この景信、輝虎が兄・長尾晴景(ながおはるかげ)より家督を譲られてから仕える一門の中でも古参の重臣であり、上杉家中でも本庄実乃(ほんじょうさねより)と共に軍政面を担当していた。言わば長老格でもある景信は輝虎よりの諮問に対し即座に回答した。


「腰兵糧としてざっと三ヶ月分は準備しておるが、この春日山から駿河(するが)国境に近い三島(みしま)には一ヶ月もあれば辿り着くで兵糧の事は問題なかろう。」


「なるほど。まぁ、我らが軍勢の出陣はあくまで先陣が駿河の徳川(とくがわ)領を踏み破ってからとなる。それゆえすぐの出陣という訳ではないが、早速にも頭の痛い事が起こったわ。」


「頭の痛い事?」


 輝虎の言葉を受けて景綱が言葉を返すと、輝虎は自身の側に置いてあった書状を前に放り投げると、それに視線を合わせた景綱や景信に対してその書状について語った。


伊豆(いず)犬懸上杉(いぬかけうえすぎ)から早馬が来てこれを届けてきた。(いわ)く出陣の命を受けていた伊豆国内の国人衆…特に江川(えがわ)江梨鈴木(えなしすずき)などの旧北条(ほうじょう)の国人たちが勝手に戦陣を離脱し、領地へと帰還したとの事だ。」


「確か…犬懸上杉の家宰であった桃井義孝(もものいよしたか)は数年前の政景誅殺の際に連座して処刑しておったな。」


 さる数年前…春日山騒動(かすがやまそうどう)によって政景共々誅殺された桃井義孝は伊豆の国主である犬懸上杉の家宰をも務めていた。しかしその義孝が政景に連座して死した後は元山内上杉(やまのうちうえすぎ)家臣・大石綱元(おおいしつなもと)が伊豆に入部して統治に当たっていた。しかし綱元はこうした旧北条の国人たちに締め付けを厳しくし、それによって厳しくされた国人たちと綱元・ひいては当主の虎憲との間で溝が広がっていたのである。


「うむ。曲がりなりにも義孝は家宰の役目をそつなくこなし、国人衆たちの折衝も上手く行っていた。それが義孝の死去だけでこの様な事態になるとはな…。」


「犬懸上杉がかような状況であれば、迅速な出兵は難しいのでないか?」


 義孝の死を悔やんだ輝虎に対し、放り投げられた犬懸上杉家宰である綱元からの書状を手に取った景信が険しい見通しを口に出した。すると輝虎はそれまで(うつむ)いていた顔を見上げて景信に一回視線を合わせた後、こくりと頷いて言葉を発した。


「已むを得ませんな。景綱、武蔵(むさし)扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)に早馬を送りこれら国人の騒ぎを鎮撫し、犬懸上杉と共に一刻も早く駿河を攻めるべしと伝えよ。」


「ははっ。承知いたしました。」


「殿!ご注進仕る!」


 輝虎の言葉を受けて景綱が返事を返したその直後、一人の家臣が血相を変えて本丸館の広間に入り込んできた。この家臣の名は上杉十郎信虎うえすぎじゅうろうのぶとら。輝虎の目の前に座す十郎景信(じゅうろうかげのぶ)の嫡子である。その信虎の表情を見た父の景信は不審に思って信虎に向けて尋ねた。


「信虎ではないか。どうかしたのか?」


出羽山形(でわやまがた)最上義守(もがみよしもり)殿より早馬到着!南部(なんぶ)安東(あんどう)家中にて政変が起こり、こちらへの反旗を鮮明にしたと!」


「何!?」


 その報告を聞いて広間の中の空気は一変した。これ即ち輝虎が十年かけて行った東北遠征(とうほくえんせい)が徒労に終わった証になったと同時に、輝虎にとってすれば(みやこ)への上洛に障害が発生したと同義であった。輝虎は血相を変えて飛び込んで来た信虎より書状を受け取るとその封を解き、義守からの書状に目を通すと怒りがこみ上げるように手が震え始め、手にしていた書状を膝の上に降ろすとその中身を景信や信綱に伝えた。


南部晴政(なんぶはるまさ)南部信直(なんぶのぶなお)より、安東愛季(あんどうちかすえ)が弟の安東茂季(あんどうしげすえ)より家督を奪い取り、これに浅利(あさり)蠣崎(かきざき)などの安東傘下の諸豪族や浪岡北畠(なみおかきたばたけ)も同心したとある!」


「殿!南部や安東が反旗を翻したとなれば、我らは後背にも敵を抱えることに相成りまするぞ!」


 事態の急変はこの景綱の言葉以上に大きかった。というのも義守の書状には南部や安東の先代当主が当代より家督を「奪い取った」と書かれていたが、その実は両者は当代より家督を「譲り受けた」のであり、事実当代当主である信直・茂季は幽閉されるどころか先代当主である晴政・愛季に率先して従うそぶりを見せていた。言わば輝虎が取り決めた鎌倉府(かまくらふ)体制を否定するようなこの行動を、無論知る由も無い春日山の輝虎たちは謀反であると断じており、この情報を受けてその場にいた景信は更に不安な予測を立てたのである。


「それだけではあるまい、先の幕府裁定を受けた相馬(そうま)も心情は幕府に寄っておる。先の宣戦布告の文書に署名はしたが、我らが自害に追いやった相馬盛胤(そうまもりたね)の仇を討つと称して挙兵する事態と相成れば…。」


「ええい、東北の将兵を動かすことは出来ぬか。」


 先の幕府問注所(ばくふもんちゅうじょ)の裁定による結果で幕府よりとなっていた相馬の事を案ずる景信の言葉に、輝虎はまるで(ほぞ)を噛むように悔しがると気持ちを即座に切り替え、その場にいた信虎に向けて下知を飛ばした。


「信虎、やむを得ぬ。最上や伊達(だて)など南陸奥(みなみむつ)の諸大名に早馬を送り、南部や安東の反乱鎮定並びに相馬や蘆名(あしな)等の監視を(おこた)りなきように伝えよ。」


「ははっ。」


 この言葉を受けて信虎は返事を返すや即座にその場から去っていった。この信虎の後姿を見送った輝虎は、続いてその場にいた景信に向けて先程の情報を踏まえて命令を下した。


「景信殿、北陸道から来るであろう幕府軍にも対処する必要がありましょう。ここは出羽の大宝寺(だいほうじ)だけでもこちらに回し、越後の守り固めるが寛容かと。」


「承知した。然らばその旨を早馬で告げると致そう。」


 この下知を受けた景信は首を縦に振って承服し、後に早馬を出羽庄内(しょうない)の大名である大宝寺義氏(だいほうじよしうじ)の元に派遣した。これを受けた義氏は即座に軍勢を整え、下知通りに越後方面へと軍勢を向けたのだが、それは別の話である。景信へ命令を伝えた輝虎は視線を景綱の方に向けてある事を尋ねた。


「景綱!信隆(のぶたか)は今どの辺りにおる?」


「殿の下知を待つべく国境近くの根知城(ねちじょう)にて待機しておりまする。」


 自身の客将でもある松代(まつだい)城主・織田信隆(おだのぶたか)はこの時一党を連れて、輝虎が命を事前に受けて越後国境にほど近い根知城に陣取っていた。これを聞いた輝虎は首を縦に振り、矢継ぎ早に景綱に命令を飛ばした。


「よし、ならば信隆に策を実行せよと伝えよ。それを実行せし後はもう一つの役目を果たすよう動くべしともな。」


「はっ、心得ました。」


 既に輝虎はこの客将でもある信隆と北陸道から迫り来るであろう幕府軍の対策を事前に立てていた。その輝虎は根知城にいる信隆に策を実行するよう命ずると、それを受けた景綱によって早馬が素早く春日山城を出立。険しい山路を踏破し姫川(ひめかわ)沿いにある根知城へと走って行ったのである。





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