1572年7月 鎌倉での軍議
康徳六年(1572年)七月 相模国鎌倉
康徳六年七月五日。京の将軍御所に鎌倉府の名によって宣戦布告の文書が届けられたその次の日、鎌倉府の本拠地ともいうべき鎌倉にて鎌倉府に従属する南関東の傘下諸大名が各々兵を率いて参陣。浄妙寺近くの足利公方邸と呼ばれている鎌倉公方・足利藤氏の屋敷にて関東管領・上杉輝虎隣席のもと軍議が開かれた。
「幕府への宣戦布告の使者が近日中にも京に着いておる頃であろう。最早賽は投げられたと言っても過言ではあるまい。諸将には我に従って京への上洛を果し、幕府の政道を正しき流れにする!」
「…いよいよ上洛、という訳ですな?」
この屋敷の大広間に勢揃いした鎧武者の一同…即ち参陣した諸大名の中から輝虎に向けて言葉を返したのは、扇谷上杉の家宰を務める武蔵岩槻城主・太田資正であった。この言葉を、上座にて真ん中に座る藤氏の脇にどしっと鎮座していた輝虎はこくりと頷いてから答えた。
「うむ。よって諸将にはこれから行う上洛に向けての陣立てを伝える。これを受けた諸将は本日より直ちに出陣してもらいたい!」
「ははっ!」
この輝虎の言葉を受け、勢揃いした諸将は一斉に声を上げて頭を下げた。この広間の中に漂う物々しい雰囲気を受けてか藤氏が眉をひそめながらこくりと頷くと、それを脇目で見て確認した輝虎は視線を前に向けると、脇に控えていた重臣・直江景綱の方に目を向けて言葉を発した。
「よし、ではこれより陣立てを申し伝える。景綱。」
「ははっ。」
輝虎より言葉を受けた景綱は相槌を打って返事をすると、脇に置いてあった桐箱の蓋を取って中に入っていた陣立て表を取り出すと、それを広げて目の前に控える諸将に向けて陣立てを一から伝えた。
「まず、伊豆・相模に所領を持つ諸侯…即ち大森・三浦両名を先陣とし、この総大将を犬懸上杉家当主・上杉虎憲殿とする。本日より行軍を開始し駿河国境を踏み越えて興国寺城に攻め掛かる様に。」
「ははっ!!承知いたしました。」
「必ずやご期待に沿うて見せましょう!」
景綱の命を受けて小田原城主の大森勝頼、そして三崎城主の三浦義季が交互に言葉を発して意気込みを語ると、それを満足そうに微笑んだ輝虎の脇で景綱は冷ややかな視線を二人に送った後、再び陣立て表に目を向けて次なる陣立てを諸将に伝えた。
「この後続として武蔵並びに房総三ヶ国の諸大名の軍勢。この軍勢は相模の小田原に逗留していただき、先陣が駿河を平定次第行軍を開始してもらう。なお、この陣の大将は上杉憲勝殿にお任せする。」
「承知!」
先ほどの上杉虎憲と上杉憲勝…それぞれ北条滅亡後に再興された犬懸・扇谷上杉の当主たちではあるがその実情は輝虎に気脈を通じる家臣たちによって擁立された傀儡そのものであった。事実前に名前を呼ばれた虎憲は神妙な面持ちで会釈を返しただけなのに対し、この憲勝は事実を知ってか知らずか自らを奮い立たせるような振舞いをしたのである。これを見て家宰の太田資正は頭を抱えるようなそぶりをその場で見せ、この資正の仕草をも意に介さずに、景綱は陣立て表に目を通しながらなおも言葉を続けたのである。
「そしてそれらの後に我が殿が山内上杉家当主として越後にいる自らの軍勢を率い、上野・下野・常陸の諸将と合流してその後に続く。よって我が鎌倉府全軍は多勢をもって悠然と東海道を進むものとする!」
「畏れながら言上仕る!その儀には反対致しませぬが侍所所司を務める高秀高が事、きっと東山道や北陸道から越後を突くは必定かと思われまする!」
景綱の陣立て表を受けていの一番に反論したのは、この席に兵を率いず参加していた甲斐国主・武田太郎義信である。するとその反論を受け取った輝虎は義信の方を振り向くと、その懸念を払拭させるように自ら対策を打ち出した。
「ご案じあるな義信殿。甲斐・信濃が軍勢は美濃・飛騨並びに三河国境に兵進め、秀高や徳川配下が軍勢に対し陽動をかけるがお役目である。」
「されど、東山道はそれでよくても北陸道は…」
輝虎の意見を受けてもなお義信が食い下がる様に反論すると、自身の所領・越後がある北陸道について問われた輝虎は片手をかざして義信の言葉を止めると、自信たっぷりに言葉を義信に返した。
「北陸道は案ずるに及ばず。そちらは我が元にいる客将が全てを引き受けると申しておる。此度はそれに任せようと思う故案ずることはない。」
「…輝虎殿がそこまで仰せられるのならば、このわしに異存はありませぬ。」
「他の者も異存は無いか?」
輝虎の意向を受け入れた義信の後に、輝虎は他の諸将に尋ねると参陣していた里見義弘・千葉胤富ら関東諸将はただ沈黙を貫いた。これを異存なしと受け取った輝虎は居並ぶ諸将をぐるりと見回すように視線を向けた後、こくりと頷いてから言葉を諸将に告げた。
「よし、ならばこれより諸将は速やかに出し、幕府の度肝を抜くように務めてもらいたい!」
「ははっ!!」
この輝虎の言葉によって正式に鎌倉府…便宜上、鎌倉軍と呼ぶが彼らは一斉に軍勢を進発した。即ち先の軍議の通り大森・三浦の軍勢は即日鎌倉を発って駿河へと進軍し、これに扇谷上杉や房総三ヶ国の諸大名の軍勢が続いて行った。総勢七万とも八万とも号される鎌倉軍が出陣したのを見届けると、輝虎は景綱と共に上杉本軍の出陣準備に取り掛かるべく本国の越後へと帰還していったある。




