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1572年3月 春日山の謀議



康徳六年(1572年)三月 越後国(えちごのくに)春日山城(かすがやまじょう)




 翌三月上旬。高秀高(こうのひでたか)と面会し失意と絶望を味わった関白(かんぱく)近衛前久(このえさきひさ)はその足で越後(えちご)へ下向。懇意(こんい)にしている上杉輝虎(うえすぎてるとら)が居城・春日山城に入って輝虎に今までの経緯をつぶさに語った。


「なるほど、朝廷で延暦寺(えんりゃくじ)再建の発議が見送られたと…」


二条(にじょう)九条(くじょう)らは、覚恕(かくじょ)様が貴殿の家臣らと接触しているのを秀高(ひでたか)殿より耳にしておった。輝虎殿、それは真の事なのでございまするか?」


「…」


 春日山城を来訪した前久より朝廷の事、そして秀高と面会した際の事を聞いた輝虎は、前久より天台座主(てんだいざす)・覚恕と上杉家臣と思しき人物との密会を尋ねられるとただ一言も発さずに首を縦に振って頷いた。これを見た前久は輝虎の返答を受けて顔を真っ赤にして反論した。


「なぜ…なぜそのような事をなさるのか!それによって麿が発した発議を潰されたようなものになったのですぞ!」


「前久殿、既にわしは決心しておる。わしは今の幕府の惨状を憂い、非常の措置を取ることにしたのだ。」


「非常の措置?」


 前久の怒りを受けてもなお涼しい顔をする輝虎は、今までの仕打ちを受けて決心を固めた言葉を前久に返した。そしてそれに前久が言葉をオウム返しにして聞き返すと輝虎はその非常の措置の内容を単刀直入に告げた。


「わしは、将軍の首を挿げ替えるつもりである。」


「首の挿げ替えですと…?」


 輝虎から発せられた事。これこそまさに今の将軍である足利義輝(あしかがよしてる)を将軍職から降ろして別の人物を新しい将軍に奉戴するという物であった。この事を聞いて前久が大いに驚くと輝虎はそんな前久に向けて今の幕府の惨状を憂うような言葉を投げかけた。


「今の将軍は奸臣たちの甘言に惑わされ幕府の威信を貶めておる。これを見て等持院(とうじいん)足利尊氏(あしかがたかうじ))殿を初めとした足利将軍家のお歴々はあの世で泣いておろう。この幕府を立て直すには新たな将軍を立てる必要がある!わしはそう思うのだ。」


「輝虎殿!将軍の挿げ替えなど畏れ多いことにございまする!そもそも、一体誰に挿げ替えるお積もりなりや!」


覚慶(かくけい)殿です。」


 と、前久に対して言葉をかけた後にその場に姿を現したのは、上杉家臣となっていた織田信隆(おだのぶたか)織田信忠(おだのぶただ)の両名であった。二人は輝虎と前久の脇に座り込むと、その中の一人である信隆は前久に向けて一乗院(いちじょういん)門跡の覚慶を改めて推したのである。


「覚慶殿は今の将軍の弟君、血筋も確かなこのお方を置いて他に候補はいません。」


「貴女は…もしや織田信隆か!?」


 かつての東北(とうほく)遠征の折、越前(えちぜん)より逃げ延びて来た信隆の存在を事前に前久は耳にしており、そして今ここに実際その姿を見た前久は噂で聞いた名前と姿が一致して驚き入ったのだった。それに対して輝虎は信隆からの言葉を聞いた後に言葉を続けて前久にこう言った。


「わしはこの信隆の策に従い、今の将軍にはご隠居頂いた上で将軍職を覚慶殿に継がせることに同意した。前久殿、そうなった暁にはどうか覚慶殿への将軍宣下が下りるように工作していただきたい。」


「何を仰せになられる!そのような畏れ多いことを賛同するわけには参りませぬ!」


 輝虎から将軍宣下の取り成しを頼まれた前久は即座に否定した。しかしこの様子を見た信隆は脇から前久に向けて言葉をかけた。


「前久殿?貴方は先の延暦寺再建の発議を見送られ、朝廷の立場が苦しくなっているではないですか。それを回復するには将軍を挿げ替え、朝廷の主導権を握ることが出来れば立場の回復も叶いましょう。」


「な、何を仰せに?」


 信隆が前久の立場を見透かすように篭絡(ろうらく)の言葉をかけると、これを受けた前久は大いに驚いて声を震えながら言葉を返した。すると信隆はそんな前久に対してふっとほくそ笑みながらこう言った。


「今の朝廷は将軍や秀高に近い二条卿に九条卿などの九条流摂家(くじょうりゅうせっけ)が主導権を握っている。前久殿は関白という帝の臣下の首座ではあるが五摂家の中では立場はもとより苦しく、そんな前久殿をこちらに引き込むのは簡単でしたよ?」


「まさか、覚恕殿に接触したはその為に…?」


 前久が信隆の言葉を受けて何かを察し、覚恕の事を持ち出して聞き返すと、それを受けた信忠と信隆はその場で前久に対して返答を返した。


「覚恕殿に上杉家の家臣が接触すれば、上杉家に疑心を抱く幕府や朝廷は警戒感を強める事は間違いない。そうなれば朝廷は上杉と親しき前久殿の献言を退け前久殿の立場は悪くなる。」


「それにあなたがここに下向して来ているという事は、朝廷や幕府の重臣たちの疑念は貴方にも向きましょう。そうなったら先程の噂に信憑性(しんぴょうせい)が出てきてさらに状況は悪化の一途をたどるばかり。あなたがもし立場の回復を望むのならば、我々に協力して将軍の挿げ替えに参画するしか道はありません。」




 つまり先ごろより噂が上がっている「覚恕と上杉家臣の密会」は、この信隆が畿内(きない)に残る明智光秀(あけちみつひで)と共謀して仕掛けた策略であったのだ。光秀は配下に命じて覚恕との接触を命じ、それを受けた家臣・明智左馬助秀満あけちさまのすけひでみつは覚恕と接触。その後何度も覚恕の元を通ったが交わされる会話の内容は全てたわいもない世間話であった。


 しかし光秀らの一番の目的は会話自体よりも「上杉配下が覚恕と接触する」という事だった。秀満の顔は既に秀高配下の稲生衆(いのうしゅう)に割れており、それによって稲生衆は覚恕と上杉家臣の内通を掴んで秀高に報告したのである。そうなれば覚恕を推す前久の立場は苦しくなり、前久が発議する延暦寺再建は見送られるのは必定であった。つまり前久は信隆らが仕掛けた計略にまんまと引っ掛かったという訳である。




 そして信隆から告げられた前久復権のために協力するべきという甘言に、気持ちが揺らぎ始めた前久はそれまで(うつむ)いていた顔を上げて信隆に尋ねた。


「…仮にもし参画するとして、この麿に何を望まれる?」


「別に何かしてほしいという事はありません。ただ先程にも申したように、将軍の挿げ替えが成し遂げられた際には、朝廷に対し覚慶殿への将軍宣下が降りるようご進言をお願いしたいのです。」


「信隆の言う通りである。これは幕府の為でもあるのだ。前久殿、どうかこの我らの企てにご参画いただきたい。」


 信隆の言葉の後に輝虎が前久に協力を申し出ると、もはや背に腹は代えられぬと決心した前久は目の前にいる輝虎に向けて静かな口調で言葉を返した。


「…相分かりました。最早事ここに至ってはそれしか道はないようですな。」


「おぉ、それでは?」


 この前久の返答を聞いた輝虎が身を乗り出して反応すると、前久は輝虎に一礼するかのように頭を下げながら、自身の決心を語った。


「この前久、もし将軍の挿げ替えが成った時には将軍宣下が降りるよう、動くことを約束いたしましょう。」


「そうか。前久殿、その際にはよろしくお願い致す。」


「ははっ。」


 こうしてここに前久の協力を取り付けた輝虎は、前久に向けて重ねて挨拶を返すと側にいた信隆に向けて計略の事について尋ねた。


「それで信隆よ、これで万事下準備は整ったという訳だな?」


「いえ、あともう一押しが必要です。その為には輝虎さまを始め、鎌倉公方(かまくらくぼう)様や鎌倉府(かまくらふ)傘下の諸侯のお力がなくてはなりません。」


 信隆は輝虎からの尋ねに対し、更にもう一押しする必要があると説いた。これを聞いた輝虎は興味を示し、信隆に対してそのもう一押しの内容を尋ねた。


「ほう、どのような事を考えておる?」


「はい、それにはお耳を拝借…」


 すると信隆は輝虎の側に近づき、耳に口を近づけて密かな声でその内容を伝えた。この信隆から耳伝いに内容を聞くと、その内容に得心したのか深く頷いてから言葉を信隆に返した。


「…なるほどな。それで敵の目を欺くと?」


「はい。こうすれば真の計画である将軍挿げ替えを隠すことが出来ます。」


 信隆の考えを聞いた輝虎は得心するように頷くと、信隆に対して言葉を返した。


「相分かった。その旨公方様に密かに進言致すとしよう。」


「はい、よろしくお願いいたします。前久殿もどうか、京に戻っても周囲に悟られぬよう心配りの程を…。」


「うむ、よかろう…。」


 輝虎の返答を受けた信隆は、その場で前久の方を振り向くと計画への協力を説いたのだった。やがて前久は直ちに京へと帰還していき、信隆は更なる工作に備えるべく春日山城を後にしていった。しかし春日山城の本丸から帰る道すがら、麓へと降りる山道を歩きながら信隆は脇にいた信忠に向けて言葉を発した。


「ふふふ、輝虎も前久も簡単に騙されるとはね。」


 叔母である信隆のこの言葉を聞き、信忠が言葉を一切発さずに首を縦に振ると信隆はただ前をまっすぐ見つめながら意味を含めたような口調でこう(つぶや)いた。


「…将軍の挿げ替えだけでは、盤面はひっくり返らないものよ。」


 そう、この信隆が輝虎らと共謀して推し進める将軍挿げ替えの謀議には、輝虎や前久、そして覚慶すらも知らないもう一つの考えが込められていた。それこそが信隆らの真の狙いであったが、この時その狙いを知る者は信隆や信忠ら、信隆に近しい者たちを除いて誰もいなかったのである…。





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