1572年2月 変わらぬ関白と変わった男
康徳六年(1572年)二月 山城国伏見城
近衛前久が伏見城を来訪した三日後の二月二十五日、高秀高は本国の尾張から家族と供周りを連れて上洛を果し、伏見城に入城した。この報を聞いた前久は城代である三浦継意と連絡を取り、その翌日である二月二十六日、初めて顔見知りとなってからおよそ十年ぶりとなる秀高との面会を果すことになったのである。
「秀高殿、ようやく…ようやくこうしてお目見えが叶い感動の極みにございまする。」
「前久殿、お久しぶりです。」
高秀高と近衛前久、二人が顔を初めて合わせた永禄三年(1560年)より実に十二年もの歳月が経過していた。十二年ともいう長き間に双方の身分や立場は大きく変化し、その中で前久は特に大きな存在へとのし上がった秀高の事について触れた。
「初めてお会い致してから十年余り…その間秀高殿は押しも押されぬ大大名とお成りあそばし、更には幕府中枢にて幕政に携わる御身となられ、この前久も感服いたしておりまする。」
「そうですか…。」
この前久の前置きともいうべき言葉を秀高はどこかよそよそしい面持ちで聞いていた。それは実に十二年ぶりという久々の面会もあるのだろうが、それとは別に腹の中で前久に僅かな不信感を抱いていた。こんな秀高の雰囲気を物ともせず、前久は秀高に対して早速にも本題を切り出すように発言した。
「秀高殿、こうしてこの麿が会いに参ったは余の儀に非ず。何卒秀高殿にお口添えをしていただきたい事がございましてな。」
「お口添え?」
前久よりお口添えという単語を聞いた秀高が反応すると、それに前久は頷いてから来訪の用向きともいうべき本題を告げた。
「秀高殿は、先年焼亡した延暦寺を再建しようという儀をご存知にございますか?」
「…風の噂で耳にしています。」
この前久の言葉を聞いた秀高は心の中で、その事について来訪したのか、と思った。前久による延暦寺再建の動きは稲生衆に加わった鉢屋弥之三郎から秀高の耳に入っており、秀高はその動きがどうなるかを見守っていた。そんな延暦寺の再建について秀高に問いかけた前久は、秀高に対して自身の動向を踏まえて発言した。
「この前久、昨年来より朝廷にて延暦寺再建を説いておりまするが、朝廷内の二条晴良を始めとした公卿らは勅令を盾に再建に反発しており、これでは民心は大いに荒れる事になるは必定。」
「…」
この前久の言葉を、秀高は本丸表御殿の上座にて前久と向き合いながら黙して聞いていた。つまるところ目の前にいる前久は、自身に延暦寺再建に協力するように言って来るのではないか?そう秀高が脳内で思っていると、この考えが的中するように次に前久はこう言ったのである。
「そこで秀高殿にはどうか将軍(足利義輝)に対して延暦寺再建のお口添えを朝廷に行うよう、進言を行って頂けませぬかな?」
「…その頼みは聞けません。」
秀高は前久の頼みを聞くや即答するように拒否した。言わば想定内の頼みであったがために秀高は自身の考えを即座に打ち出し、前久の頼みを拒否するとその理由を呆気に取られる前久に向けて語った。
「畏れながら先の延暦寺焼失の一件自体はこの私に責任があります。その私が将軍家に再建を説けば、京の民衆は仏罰を恐れて将軍家に縋りついたと笑い物の種にするでしょう。」
「秀高殿、それは考え過ぎにございまするぞ!」
この秀高の懸念を払拭させんと前久は秀高に向けて反論した。しかし、この反論を受けた秀高は前久に対してある噂を持ち出して言葉を返した。
「それに噂によれば、応胤法親王に代わって天台座主の座に就いた覚恕殿は、上杉輝虎の家臣とひそかに接触している噂があると我らの忍びが掴んでおります。その者をなぜ前久殿は後押しなさるのですか?」
「我らの忍び…?まさかその噂の出どころは!?」
そう、この覚恕と上杉家臣の密会を晴良ら九条流摂家の面々に伝えていたのは他ならぬ秀高自身であった。秀高は稲生衆よりこの情報を得ると内密に九条流摂家に情報を渡し、これを受けた晴良らはより一層の延暦寺再建反発の動きに出たのである。言わば天台座主ともなった覚恕の密通が問題視される所以を秀高が作ったのである。この裏の動きを知った前久は驚愕のあまりその場で固まり、そんな前久に対して秀高は改めて丁寧な言葉でやんわりと拒否した。
「…ともかく、朝廷が見送りを決めている以上は我らが口添えを行っても無意味であるかと。前久殿、ご期待に沿えず申し訳ございません。」
「秀高殿…不躾ながらお尋ねいたすが、秀高殿は上杉殿をどのように思っておられるか!」
「私は何とも思っていません。ですが…」
輝虎と昵懇の間柄である前久よりこう尋ねられた秀高は、素直な気持ちを即答すると同時に、輝虎から自身への感情を思い浮かべて前久に言葉を返した。
「むしろあちらが私の事を不俱戴天の敵と思っている以上は、仲良く天下を治めるなど夢のまた夢。そこまで邪険にされるのならばこちらも警戒せざるを得ません。」
「ならば秀高殿、どうかその関係修繕はこの前久にお任せを!上杉と幕府の対立が長引けば、天下に必ず悪影響を及ぼすものかと!」
輝虎と秀高の融和、そして両名が手を取り合って幕政に臨むべきと思う前久は食い下がるように秀高に関係修繕を取り成すと願い出た。しかしこの考えを聞いた秀高はそれまでの険しい表情を一切変えず、務めて冷静な口調で予測を語った。
「…前久殿、たとえ貴方が説かれても強情な輝虎は耳を貸さないかと。むしろその様な強情を張る輝虎こそ、いずれ天下に害を成すおそれがあります。」
「秀高殿!」
この秀高の言葉を受けて前久はようやく、秀高に輝虎への警戒を通り越した敵対心があると感じ取った。そんな秀高の警戒を解きたい一心で秀高に言葉を返すと、秀高は目の前にいた前久の顔をじっと見つめながら、助言する意味を込めてこう言った。
「前久殿。念を押す意味を含めて申しますが、今後の事を考えれば輝虎への肩入れは遠慮なさった方が宜しいかと。」
「秀高殿…そのようなお方とは思いもよりませんでしたぞ。」
ここに来てようやく、輝虎との関係修繕を望まない秀高の本心を前久が悟って秀高に対して失望の思いを込めて言葉を返すと、その冷たい言葉を受け取った秀高は輝虎と昵懇である前久の事を嘲笑するようにふっとほくそ笑み、その後に前久に向けて心を鬼にして自身の存念を語った。
「どう思われようと結構です。私は幕府の為、そして我が家を守る為ならば心を鬼にして事に当たる覚悟です。それを曲げるつもりは毛頭ありません。」
「…」
秀高の決意がこもった言葉を聞いた前久はその場でただ返す言葉を失い、じっと目の前の秀高を見つめた。そして秀高はこの前久の視線を一身に浴びると、前久に向けて頭を下げて申し訳ないような気持ちを込めて言葉をかけた。
「重ね重ね申しますが、前久殿の御意に沿えず申し訳ございません。今日の所は何卒お帰りください。」
「…」
この言葉を受けた前久はまるで人が変わったかのような秀高に一抹の失望を抱き、重い足取りで伏見城を後にしていった。そして前久はここで何を思ったか翌三月になると京を去ってある所へと向かって行った。行く先は越後。昵懇の間柄である上杉輝虎の所へと向かって行ったのである。




