１５７１年７月 苦境の中の一手
康徳五年（１５７１年）七月 越後国松代城
それより数日後の七月上旬、織田信隆の居城である松代城にも、上方に潜伏する明智光秀を通じて幕府の方針が密かに伝えられた。松代城の本丸館にてその報に接した信隆は、その場にいる織田信忠や前田利家等に向けて光秀から伝えられた情報を共有するように語り始めた。
「美濃郡上郡に移封された新発田長敦・五十公野治長兄弟と本庄繁長らは、幕府から郡上郡内の所領を見止められると同時に、長敦を長とする新発田家を認めるのみならず幕府諸侯衆の役職を与えて幕府の中枢に加えたとの事。」
「…これでは、輝虎殿の面目は丸潰れでありまするな。」
信隆の話を受けて隣に座していた信忠が、相槌を打つように発言した。この信隆から幕府の情報を耳にした家臣たちの中から、利家がいの一番に声を上げて発言した。
「そもそも、輝虎殿が早まって一揆の首謀者どもの粛清を謀ったのが一番の要因であろう！そのお陰で新発田・本庄らに恨みを持たれただけではなく、他の揚北衆の国人領主の中にも不信感を芽生えさせてしまったのだ！」
「うむ。輝虎殿は自身の感情や考えに率直な方。一たび許せぬ事があればそれを徹底的にたたき伏せることも辞さない。しかしそれでは、幕府からの横槍を更に受けることに繋がるかと。」
「信忠の言う通りよ。」
利家の意見の後に発言した信忠の言葉に、相槌を打つように信隆が賛同すると自分の席の側にあった肘掛けにもたれかかり頭を抱えながら輝虎の気性について言葉を発した。
「全く、越後の龍がここまで悍馬のような御仁であったとは…これでは手綱を取る方が損をするばかりですね。」
「しかし殿、輝虎殿は我らを庇護して下さっている方。あまり無碍には出来ませぬぞ。」
この信隆の言葉に家臣の丹羽隆秀が諫言する様に口を挟むと、その言葉を聞いた信隆は隆秀の懸念を払拭させるように言葉を返した。
「分かっています。ですがこのまま行けば幕府は再び輝虎殿に詰問使を派遣してくるでしょう。あの輝虎殿の気性ならば詰問使と激突し、それを見た幕府が強硬策を取ってくるのは目に見えています。」
「強硬策ですと？」
信隆の発した内容を聞いて家臣の堀直政が反応するように言葉を発した。この直政からの返しを聞いた信隆はその場で家臣たちに向け、幕府が輝虎に対して打ってくるであろう強硬策の見通しを語った。
「例えば、即刻京に上って弁明と謝罪を行うべしと言う。もしくは越後にて禁固を命ずるか、あるいは関東管領職の辞任…。」
「関東管領職の辞任ですと！？」
「もしそうなれば、上杉家の名声は地に落ちるのは必定かと。」
声を上げて反応した利家や直政ら家臣たちに向けて信隆の語った内容は、あながち荒唐無稽とは言い切れなかった。というのも将軍・足利義輝本人はいざ知らず、高秀高や彼に賛同する幕臣たちは上杉輝虎の横暴に敵対心を向けており、それがやがて上杉家に最悪の事態を招くことを信隆は見通していたのだ。そんな信隆は彼ら家臣たちの反応を見ると、首を縦に振って自身の見通しの続きを語った。
「えぇ。こうなれば輝虎殿とて無傷ではいられないでしょう。きっと幕府と輝虎殿は互いに衝突し、それを見た幕府が輝虎殿の討伐を宣言するかもしれません。」
「輝虎殿の討伐！？」
この言葉を聞いてその場にいた利家ら家臣たちは大いに驚いた。もし信隆の言うように上杉家に対し討伐令が発令される事態になれば、さしもの上杉家も日本全国の諸大名を相手にするに等しいほどの劣勢を強いられることは間違いなく、もしそうなれば自分たちの辿る道は破滅しかないという事を思い浮かんでいたのだった。
「そうなれば私たちの命運は尽きるという物。そうならない為には思い切った手を打つ必要があるでしょう。」
「思い切った手とは？」
その上杉家、引いては自分たちにに降りかかってくるであろう苦境を跳ね返す一手を、信隆は打つ必要があると言ってそれに信忠が反応すると、信隆は務めて小さな声でその場にいる家臣たちに聞こえるように思い切った手の内容を語った。
「…将軍の挿げ替え。」
「は？将軍の挿げ替えと？」
信隆が家臣たちに提示したのは、こともあろうに京の幕府・その頂点に立つ将軍を他の人物に入れ替えるという物であった。この信隆の案を聞いた家臣たちが信隆の意見に度肝を抜かれるように呆気に取られた表情を見せていると、信隆はそんな家臣たちに向けてその案について補足を付けすように語った。
「今の幕府の将軍が代われば、きっと時局を好転させることも出来ましょう。同時にその将軍を輝虎殿や鎌倉公方（足利藤氏）殿が認めていると喧伝すれば、自然と幕府の主導権はこちらに転がってきます。そうなれば…」
「高秀高の息の根を止めることも出来まするな。」
この策の先には単に宿敵・秀高の打倒が据え置かれていた。その目標を見通す様に利家が発言すると信隆はその言葉に首を縦に振って答えた。するとその策を聞いていた信忠は叔母でもある信隆に対して肝心な事を尋ねた。
「しかし叔母上、その肝心の挿げ替え候補はいるのですか？」
「いる事にはいます。その者への接触を光秀に頼むとしましょう。目標は…」
と、信隆は現在畿内に潜伏して工作の頭取を務めている光秀にその目標への接触をさせると告げ、同時に家臣たちに向けてその目星となる人物の名前を告げたのだった。
「興福寺一乗院門跡、覚慶であると。」
一乗院門跡である覚慶。将軍・義輝の弟でもあり直系の血筋の中でも将軍の座に最も近い人物でもあった。信隆の眼はこの人物に向けられた。それは信隆たちにしてみれば今後降りかかってくるであろう苦境を跳ね返す乾坤一擲に等しい策略でもあったが、同時に秀高たちがいた元の世界に準ずるような覚慶擁立の腹案はまるで歴史の修正力が働いているかのように、覚慶を歴史の表舞台へと引きずりだそうとしていた。
そして信隆が苦境に陥ろうとしている中で放ったこの一計が、やがて日ノ本の歴史を大きく変える嚆矢になろうとしていたことをこの時、計を発案した信隆を含めて誰も知らなかったのであった。
