1571年5月 京からの使者
康徳五年(1571年)五月 越後国春日山城
康徳五年五月二十六日。ここ越後国内は不穏な空気が漂っていた。昨月より越後北部・阿賀野川北部に根を張る揚北衆が上杉輝虎への出仕を拒み、領地に籠って一揆を起こしてからおよそ二ヶ月ほどが経過していたが、いよいよこの日、輝虎は関東管領の名をもってこの一揆鎮圧に乗り出したのである。居城・春日山城には輝虎直参の家臣たちが手勢を率いて参集し、出陣の時を今か今かと待ちわびていたのである。
「…既に伊達輝宗、大宝寺義増らには兵を起こす様命じておりまする。あと数日後には蒲原・岩船両郡に姿を現すものかと思われまする。」
「うむ。これで新発田や本庄らは完全に詰みになるであろう。景綱、その両郡の情勢は如何に?」
輝虎は本丸館の広間で立ちながらそこにいた重臣・直江景綱に一揆が起こる現地の情報を尋ねた。その問いを受けた景綱は輝虎に対し、上杉の忍び衆である軒猿が仕入れた情報を元に輝虎に情勢を伝えた。
「既に色部顕長・中条景資を筆頭に加地秀綱・竹俣慶綱・水原満家・安田長秀など我らに同心する揚北衆が一揆に参加した者達の監視を行わせております。我らが両郡に踏み込めば、一気に攻勢を仕掛ける手はず整えておりまする。」
「そうか…そうなれば奴らも観念するほかあるまい。」
「御実城様、織田信隆様がお越しになられました。」
と、そこに側近の小島弥太郎貞興が現れ、輝虎に信隆の来訪を伝えた。それを立ったまま聞いた輝虎は眉をピクリと動かし、言葉少なに貞興へ返した。
「…通すが良い。」
「ははっ。」
この言葉を受けた貞興は返事を発すると、その場に織田信隆を招き入れた。上座にある茣蓙の上に座り直した輝虎は広間の中に入ってきた信隆の姿をじっと見つめると、その視線を受けながら信隆は輝虎の目の前に着座し、頭を上げて挨拶を述べた。
「輝虎さま、ご機嫌麗しゅう…。」
「何の要件か?手短に申せ。」
信隆の挨拶を受けた輝虎が扇を広げてパタパタと仰ぎ始めると、その中で信隆は単刀直入に来訪の用向きをである用件を伝えた。
「此度の揚北衆への出兵。何卒お考え直しをお願い申し上げます。」
「ほう、そなたは客将の分際でこのわしに意見すると申すのか?」
信隆から発せられた事を聞いて輝虎は扇を扇ぐ手を止め、意見を述べてきた信隆の顔をぎろりと睨むようにして顔を向けると、信隆はそんな輝虎の鋭い視線を意に介さぬように言葉を続けた。
「既に我らが配下の工作により、中央で幕政を掌握する高秀高の配下大名である遠藤胤俊を討ちとった今こそ、秀高の失政を糾弾する絶好の好機かと思います。その絶好の好機を前に、些事に構っては大事を失うかと。」
「何、そなたは関東管領であるこのわしが治める、越後国内の混乱を些事と申すか!?」
遠藤胤俊を罠に嵌めて討ち取った信隆がこれを利用して秀高を糾弾せよと言った瞬間、輝虎は側にあった肘置きを閉じた扇で強く叩いて怒りを露わにした。するとその怒りを受けた信隆は輝虎の怒りを和らげようと更に言葉を発して説得した。
「揚北衆の一揆は間違いなく秀高の工作にございます。ここは同時にこれらの工作を糾弾して秀高の立場を貶めることこそ肝要です。新発田や本庄などは捨て置かれなさいませ。」
「黙れ!奴らの一揆を放置しておくことこそわしの沽券に関わる!そなたは領内で上がった火の手を放置しておくのか!?」
元々越後というのは新発田・本庄といった国人領主の割合が多く、言わば一個の領主連合体である上杉家の中で根っからの輝虎直参の家臣たちの所領は少なかった。その為にこうした一揆を捨て置くという事は上杉家の統治体制を揺らがしかねない事であり、この輝虎の怒りには一理があった。しかしそんな一理を跳ね除けてでも秀高糾弾を優先したい信隆はなおも輝虎を説得した。
「どうか、ご冷静にお願い致します。そこまで仰られるのであれば私たちが新発田・本庄らの説得に当たりましょう。どうか輝虎殿には、京に秀高糾弾の使者を…」
「ええい、くどい!」
その瞬間、輝虎はその場で信隆めがけて扇を飛ばして怒りを露わにすると、その後にスッとその場で立ち上がり目の前の信隆を指差しながら言葉を投げかけた。
「既に陣触れは発せられておる!反逆の意を示した新発田・本庄らに大義などない!このわしに歯向かうとどうなるか…思い知らせてくれようぞ!出陣!」
「輝虎殿!!」
「も、申し上げます!!」
そう言って広間の外へ出ようとした輝虎を呼び止めようとした信隆の言葉と同時に、輝虎側近の大石綱元が血相を変えてその場に駆け込んでくるなり、去ろうとしていた輝虎に火急の要件を伝えた。
「ただ今、京より輝虎殿へ詰問する幕府の使者が参られておりまする!」
「…なんだと?」
綱元から伝えられた自身への使者来訪を聞いた輝虎はその場で足を止めた。同時にその報告を耳にした景綱が輝虎の代わりに綱元に尋ねた。
「その幕府の使者の名は?」
「お一人は京極長門守高吉殿、そしてもう一人は…小高中務少輔信頼殿。」
「小高…!?」
その名前を聞いた信隆は思わず声を上げて反応を示した。この輝虎糾問の為に秀高の懐刀でもある小高信頼が幕府の使者として敵地に乗り込んできたのである。この驚かずにはいられなかった信隆の反応を脇で見た輝虎は、綱元に命じてこの場に幕府の使者を連れてくるように命じ、その命を受けた綱元案内の下、幕府からの使者が春日山城の本丸館へと足を踏み入れたのである。