1571年5月 改易処分
康徳五年(1571年)五月 山城国京
美濃郡上郡で起きた所謂「康徳郡上の乱」の顛末は、京にいる高秀高のもとに届けられた。秀高は遠藤胤俊の落命を聞いてその死を悲しんだが、その後すぐに秀高は将軍御所より参上せよとの命を受け、将軍御所に足を運ぶとそこで管領・畠山輝長や政所執事・摂津晴門より今回の一件の事情聴取を受けた。
「秀高よ、今回の一件、何とした事か?」
「まことに面目ない事ですが…郡上八幡城主・遠藤胤俊に手を下した凶徒は、先の遠藤家当主・遠藤盛数が遺児の遠藤三郎四郎慶隆にて、慶隆は姉小路の残党を引き込んで決起を起こしたとの事。」
「遠藤慶隆…よもやその者は?」
秀高は目の前に座す晴門より遠藤慶隆の事について尋ねられると、秀高はそれまで下げていた頭をゆっくりと上げると、晴門の方に視線を向けてその詳細を語った。
「はい、越後の上杉輝虎に庇護されている織田信隆に養われていた者で、ここ数ヶ月の間は動向を掴みかねていましたが、まさかこの様なことになるとは…。」
「では、この遠藤胤基より送られてきた顛末書にある江馬輝盛と三木国綱が関与しているというのは?」
そう言って秀高に尋ねた輝長の手元には、乱の顛末を事細かに書き記した胤基からの顛末書があった。この時既に胤基に捕縛された江馬輝盛は胤基からの拷問を受けた後、胤基の独断によって首を打たれていたのだった。そんな輝盛より聞き取った顛末書に書かれた内容について輝長から聞かれると、秀高は視線を輝長の方に向けて返答した。
「はい、江馬は元々高原諏訪城主であった江馬時盛の子であり、三木は姉小路嗣頼殿の娘婿でした。両名とも当家の飛騨侵攻に抵抗していた者であり、特に三木は織田信隆の客将となっています。ということはこれら一連の凶行は…」
「織田信隆の策略である、と?」
秀高の言葉を聞いて輝長がこう発言すると、秀高はその言葉に首を縦に振って頷き、その場にいる輝長や晴門の顔を交互に見ながら言葉を発した。
「はい。これは私の推測ですが、おそらく信隆は私の領内攪乱の一環で三木を使って江馬に接触し、遠藤慶隆を擁立して遠藤胤俊を討たせたのだと思います。」
「…そう言えば、先の願証寺による長島一向一揆を扇動した北畠具親も織田信隆の客将であったな。それに加えて今回の一件、どうも信隆単独の策謀とは思えぬな。」
秀高の言葉を聞いて晴門が先の長島一向一揆の事に触れて言葉を発すると、それを聞いた輝長は言葉を発した晴門の方を見つめながら言葉を返した。
「そうか…もしそれが真であれば信隆も、そしてそれを庇護する輝虎殿もお咎めなしとはなるまい。」
「ならばここは輝虎殿に一応の使者を発し、客将・織田信隆の事を詰問してみるか。」
輝長の言葉を受けて晴門が首を縦に振りながら言葉を発すると、その内容を聞いた輝長もまた首を縦に振ってから言葉を晴門に返した。
「それがよろしいでしょうな。今、輝虎殿は越後北部で起こった新発田・本庄らの反乱に掛かりきり。それにこの詰問を受ければ信隆も無傷とはいかぬでしょう。」
「うむ。まぁ、越後や信隆に対してはそれで良いとして、問題は乱を強引に鎮圧した遠藤家であるな。」
「…」
晴門はそう言うと目の前に座している秀高に視線を向けた。その視線を秀高が受け止めると晴門は手にしていた扇を開いてから強硬策を取った遠藤胤基、ひいては遠藤家について言葉を発した。
「一応当主である遠藤胤俊を討たれたとはいえ、遠藤胤基は幕府に使者を寄こすどころか勝手に軍勢を駆使し鎮圧した。あまつさえこの反乱は見方を変えれば遠藤胤俊・胤基兄弟の「不手際」によって起きたともいえるであろう。」
「不手際…それはつまり領内統治の不手際という事で?」
晴門が発した言葉を聞いて、秀高は晴門の言葉の中にあった単語を強調するように尋ね返した。先に幕府が制定した康徳法令。その中にある「地方にて諍いや戦が起こった時には、勝手に決着を付けるのではなく幕府の使者が向かうまで待つ事」という項目に違反したとも取れる今回の一件を晴門は秀高に発言したのである。それを確認するように秀高から聞き返された晴門は首を縦に振って頷き、険しい表情を浮かべながら秀高に言葉を返した。
「法令を違反した者を徹底的に取り締まると決めた以上、遠藤家もこの例に漏れるわけには参るまい。秀高よ、我ら幕府としては遠藤家を改易し、所領を幕府直轄領として収公しようと思うがどうか?」
「遠藤家の…改易…。」
晴門が下した遠藤家の改易処分は、秀高にとっては冷酷な措置ともとれる内容であった。そんな処分を受けてやや気分が沈んだ秀高に対して晴門や輝長は交互に言葉をかけて説得した。
「…そうでもせねば幕府内にいる保守派幕臣の不満を抑えられぬ。秀高よ、ここは堪えて受け入れるべきぞ。」
「その通りじゃ。それに幕府直轄にするとは言えど、その代官職は秀高に任せようとも思う。秀高、晴門殿の申す通りここはこれを受け入れるべきであろう。」
「…承知しました。」
その二人の言葉を受けて秀高は一拍、間を開けた後に首を縦に振って頷いた。いや、自身の幕府内の立場を思えば頷くしかなかったのである。こうして幕府が下した処分は実に厳しい物であり、幕府諸侯衆という重役に列しながら強引に乱を鎮圧した遠藤家を「対応に不手際あり」として領地没収の上改易、その領地は幕府直轄領とする事にしたのである。この対応を受けて各地の諸大名は、蜜月関係である秀高配下の大名にも容赦しない幕府の統制策に震えあがり、より一層幕府の法令に順守していった。しかし輝長の言った通り旧遠藤領の幕府直轄領の代官は秀高が受け持つこととなり、その所領が減るという事は無かったのであった。
「胤基…誠に申し訳ない。遠藤家は幕府の裁定によって改易となった。」
「殿…頭を下げないでくだされ。寧ろわしは今すっきりとした面持ちでおりまする。」
その処分が下された後、秀高は将軍御所の控えの間にいた胤基の元に向かい、頭を下げて陳謝すると胤基は頭を下げた秀高に向けて気丈に振る舞って声を返し、頭を上げた秀高に対して自身の存念を語った。
「たとえ幕府の法令に反しようとも、兄の首を取られて黙って見過ごすほど愚かではありませぬ。我が手で逆賊・慶隆を討てたこと、それが出来たことによって最早何の悔いもありませぬ。幕府の裁定をこの胤基、神妙に受け入れまする。」
「…すまない。一応遠藤家その物は当家の家臣として存続が決まった。城主の時と比べて小禄になるが、どうか受け入れてこれからも頑張ってくれ。」
秀高が胤基の継いだ遠藤家の今後について語ると、胤基はその言葉を聞いてにこりと微笑むと、頭を下げて秀高に言葉を返した。
「ははっ。我が兄の遺志を受け継ぎ、これからも殿のお役に立って見せまする!」
この胤基の言葉を聞いた秀高は表情を柔らかくして微笑むと胤基の手を取り、しっかりを握手を交わしたのであった。その後、胤基の遠藤家は数年間領有した郡上郡を後にし、旗本として僅かな禄高を得て尾張に腰を下ろす嫡子・高輝高配下になったのである。こうして郡上郡の騒動は秀高の勢力を仕損じることになったが、この一件と先の一向一揆の一件を受けた秀高は、ついにこれらを大義名分にいよいよ信隆・そして輝虎への反撃に出始めたのである。




