1571年4月 長島一向一揆<中>
康徳五年(1571年)四月 伊勢国長島城外
「今…何と申されたか!?」
二十六日夜半、伊勢長島城を包囲する一揆勢約一万。その陣中で大きな声が上がった。誰であろう声の主は一揆を扇動した願証寺の住持である証意であり、証意は陣幕の中で相対した石山本願寺の坊官・下間頼旦から言い渡された内容に大きな衝撃を受けていた。
「証意殿、貴僧らは門主(顕如)の上意を偽って一揆を扇動し、我らと盟約を結ぶ高家の長島城をこのように攻め立てておられる。これを門主は殊の外お怒りであり、願証寺並びに一気に参加した門徒全員を破門とするを仰せられておる。」
「な…何を言われる!?我々は門主の檄文を受けて一揆を起こしたのであるぞ!その門主が何ゆえ我らに破門を仰せつけられる!?」
遠く離れた本願寺からの使僧である頼旦に対し証意が激しく反発する様子を、陣幕の中にて客将として加わる浪人の日根野吉就・大島親崇両名がややどよめいた表情を見せながら成り行きを見守っていた。そしてその陣幕の中にいるもう一人の武将は二人とは違い、冷静な面持ちで見つめていた。
「畏れながら、その檄文は偽物にあらせられる。不躾ながら尋ねるがその檄文はどこのだれが持って参ったので?」
「これは顕如上人の檄文であると、北畠具親殿が持参して参られた!」
頼旦からの問いかけに対して証意はその場にて冷静な面持ちをしていた武将を指差して答えた。そう、この人物こそこの一揆に陰ながら参画していた織田信隆が家臣である北畠具親であった。するとその名ざしを聞いた頼旦が具親に鋭い視線を向けながら単刀直入に尋ねた。
「具親殿と申されたか?我ら本願寺の檄文を偽造して何の積もりであるか?」
「これはまごう事なき顕如上人の親筆である!その方こそその様ないちゃもんを付けて何となされる!?」
「…畏れながらここに証拠がございまする。」
頼旦の詰問に対して具親が毅然と反論すると、そんな具親に向けて頼旦は持参して来た一通の書状を取り出した。その場に居並ぶ面々が頼旦の取りだした書状に視線を送ると、頼旦は封を解いて中身を取り出した後に言葉を発してこの書状の事を説明した。
「これは一揆が起こる先月に、門主様が畿内の本願寺派寺院に送られた書状にございまする。ここの末尾に書かれている署名花押とこの檄文の署名花押、よく似せておるが至る所の細部が違い申す。更には…」
頼旦は目の前にいる証意ら一揆勢の首謀者たちに向けて事細かな相違点を淡々と話すと、徐に陣幕の中にあった蝋台に灯される火を隠すように書状の末尾にある署名花押の部分を前に出した。すると署名花押の部分に火の灯りに照らされてうっすらと印章のような模様が露わとなり、それを面々に見せつけながら頼旦は言葉を発した。
「このように火にかざせば分かりまするが、本物の書状には連署花押の上より空の捺印を押して書状に跡を残しておる。だがこの檄文には空の捺印の後が見受けられぬ!」
そう言って頼旦は書状をどけると入れ替わるように檄文の末尾、署名花押の部分を蝋大の火の前に持ってくると、さっきの書状には合った印象の紋様が檄文には一切見受けられなかった。この事実を知って驚愕する面々の中で詰問する頼旦は、表情を変えぬ具親に向けて指を指しながら厳しい言葉を投げかけた。
「これ即ち具親殿、貴殿が門主様の名を騙って檄文を偽造した証に外ならぬ!門主様の檄文を偽造したことも大きな罪ではあるが、これに騙されて一揆を起こした願証寺とその門徒も重罪である!」
「な、なんと…」
この頼旦の言葉こそ、本願寺の統制を離れて勝手に一揆を起こした願証寺とその門徒たちを破門に処すという内容を含めた言葉であった。これを聞いた証意が一言発した後にやや俯きながら下を向くと、頼旦は自身の座っていた床几から勢いよく立ち上がると、その場に居並ぶ面々に向けて帰る前の捨て台詞を吐いた。
「これ以降、我ら本願寺は一揆がどのような末路を辿ろうとも殉難者としては扱わぬ!その愚行を最後まで悔いるが宜しかろう!」
「…頼旦殿!」
捨て台詞を吐いて陣幕より帰ろうとした頼旦に対し、具親が床几から立ち上がって呼び止めたその時に、具親は腰に差す太刀の柄に手を掛けると素早く刀身を抜いてそれを頼旦めがけて振り下ろした。
「ん?ぐわぁっ!!」
「な、何をなされる具親殿!」
この具親の行動を見て吉就が呼び止めた時には、既に刀は頼旦へと振り下ろされてその一太刀を受けた頼旦は呻き声を上げた後に地面に倒れ込んだ。その様子を茫然と見つめる証意に対し、具親は頼旦を斬った刀についた血を拭うように一振りすると、それを鞘に納めた後に証意を睨みながら言葉をかけた。
「…もうここまで来ては後戻りできませぬ。証意殿、そなたも一揆の主ならば腹をくくられよ。」
「何…?では、やはりこの檄文は!?」
そう、親崇が全てを察したように言ったとおり、顕如の名が記されたこの一揆決起の檄文は全くの偽物であり、全ては具親の主君・織田信隆が高秀高の所領攪乱のために行った謀略の一つであった。その事実をようやく知った面々に対して具親は親崇の反応を見た後に、ふんと鼻で笑った後に目の前の証意を見つめながら、言葉を親崇や吉就にも聞こえるように返した。
「今更檄文の真贋などどうでもよい。貴殿は長きにわたり高家に対して憎しみを持っていた。そしてこの檄文を手にしたことにより勝機を見出し決起した。この事実だけあれば後はどうにでもなる。」
そう言うと具親は姿勢を証意の方に向けると、真実を突きつけられてうなだれている証意やその場にいる面々を指差しながらこう叫んだ。
「良いか!こうして一揆が勃発し貴殿らに残された道は、攻め掛かる高家の前に華々しく死ぬしかない!我が主・織田信隆の野望の礎となり、我らがせいぜいその死を利用してやる故安心して死んでいくが良い!」
「な、なんと…」
この具親の言葉を聞いて黙したままの証意に代わって発言した吉就の言葉を聞くと、具親は一礼もせずに踵を返して陣幕の外に出て行った。具親が去った後にその陣幕の中に残ったのは斬り捨てられた頼旦の遺体とそれを茫然と見つめる証意、それに今後の展望を悲観視する吉就や親崇らであった。その混乱する陣幕を去っていった具親は夜道を願証寺方面に向けて歩きながら独り言をつぶやいた。
「もはやここまでか。攪乱は十分に行えたであろう。高家の攻勢が始まる前に長島を脱出せねば…。」
ある程度の攪乱を果せた今、敵地でもあるこの場に留まり続ける事は何よりも危険であることは具親も承知していた。具親は明日より始まる高家の攻勢の前に長島輪中を脱出しようとしていたのである。しかしその足取りは暗闇の中から突き出された一つの短刀によって阻まれた。
「ぐふっ!き、貴様何者か…?」
具親がその短刀の刃を身体に受けてから、刺された右側の方角を見るとそこには一人の忍び頭が具親に短刀を突き刺しており、その具親の視線を感じた忍び頭は淡々とした口調で具親に言葉を返した。
「織田信隆が客将、北畠具親殿とお見受けする。我が主の為、そのお命頂戴致す。」
「ひ、秀高の乱波だと…わしは、この様な所で…」
この具親を仕留めたこの者こそ、長島にやって来た頼旦の監視を大高義秀の命を受けて行っていた鉢屋弥之三郎であった。弥之三郎は地面に倒れ込んだ具親の首を暗闇の中で素早く取ると、どこへともなく姿を消したのだった。そして翌二十七日。信隆配下の具親にまんまと扇動された一揆勢の命運は、いとも容易く尽きようとしていたのである。




