1571年4月 本願寺の意向
康徳五年(1571年)四月 摂津国石山本願寺
翌四月十三日、所変わって此処は一揆を起こした長島願証寺が属する浄土真宗本願寺派の本山・石山本願寺である。本願寺派の寺院である願証寺が伊勢長島において一向一揆を起こしたとの報はこの本願寺にも届けられていた。その本願寺を一人の人物が訪れていた。願証寺が一揆の対象とした高秀高の家臣・和泉岸和田城主の高浦藤吉郎秀吉である。
「改めて門主様に御尋ね申し上げる。此度の長島願証寺の一向一揆はどのような意図があって引き起こされたのでござるか?」
「秀吉殿、それは我らとて寝耳に水である。」
本願寺の本堂において門主の顕如と相対す秀吉に対し、顕如の代わりに言葉を返したのはこの席に同席する坊官の下間頼廉である。頼廉は顕如に対してきつく問責した秀吉に向けて、自身の偽らざる心情を込めて返答した。
「願証寺の一向一揆の一件は、数日前に我らも初めて知ったのだ。このことは我らが門主も心を痛めておる次第。」
「白々しい事を申されるな!院家の願証寺が一揆を起こすのであれば、必ずや本山である本願寺派の檄文が無ければ起きぬはずであろう!」
と、その頼廉の言葉に反応して声を上げたのは兄の秀吉に同行して本願寺を訪れていた高浦小一郎秀長である。この秀長の反論を聞いた顕如がようやく口を開くと、声を上げた秀長に対して釈明をするように発言した。
「秀長殿、お疑いになるのも無理はない。だが我らは盟約を結んでおる以上、反故にするような真似をするはずがないではないか。」
「…ではこれを見てもそう言われるので?」
この顕如の返答を聞いた秀吉は顕如に向けて更に問いただすべくとっておきの証拠を懐より取り出した。この懐より取り出した一通の書状こそが、こうして秀吉が顕如に詰問する唯一の証ともいうべき物であったのだ。
「秀吉殿、それは?」
「これは長島城主・滝川一益殿が城下にて入手した願証寺発行の檄文にござる。この書状の末尾には他でもない門主・顕如様の名が記されてございまする。」
「な、なんと!?」
秀吉の返答を聞いて驚いたのは、頼廉の隣に座していた坊官の下間頼竜である。秀吉は頼竜に向けて証拠となる檄文を手渡すと、受け取った頼竜は直ちに檄文を顕如に手渡しした。やがて顕如がその封を解いて中身を見ると、その中に書かれてあった驚きの内容を受けて秀吉に半信半疑で問い返した。
「これは…真に長島城下で入手なされたと?」
「よもや、我らをお疑いになられるか!?」
この顕如の返答を受けて秀長がなおも声を上げて反論すると、その反論に顕如は即座に言葉を発して切り返した。
「いや、そうではない。天地神明に誓ってこのような檄文に名を記した覚えはない。」
「…ならば、その証拠はおありで?」
顕如の返答を聞いて秀吉が冷ややかに言葉を返すと、顕如は脇に控えていた仏僧より一通の書状を受け取るとそれを秀吉に見せながら言葉を返した。
「この署名、かなり我が右筆が書いている物に似せてはいるが、末尾の花押の形が少し違う。秀吉殿、それを見られよ。」
顕如は秀吉に向けてそう言うと、先程同様に頼竜を通じて秀吉にその書状を手渡しした。それを受け取った秀吉が書状の封を解いて中身を確認すると、その内容は顕如よりある末寺に向けた書状の写しであり、末尾には顕如の名と同時に花押…いわばサインが代筆を行った右筆によって一緒に書かれていた。秀吉はその箇所と檄文の末尾に書かれた花押の箇所を細かに確認すると、僅かな違いを見つけた後に顕如に向けてこう言った。
「…確かに檄文の方に書かれている花押の撥ねが弱いように感じまする。だがそれだけでは本願寺の無実証明にはなりますまい。」
「如何にも!現に一向一揆は立ち上がり一益殿は長島城にて一揆衆の包囲に遭っておりまする。この事実をどう受け止めなされる!?」
秀吉に続いて秀長が現状を踏まえた発言をすると、それを受け止めた顕如は顔を上げて二人の方を見つめながら言葉を発した。
「…我らは高家や幕府に対し一向一揆を起こすつもりは無かった。これは何と言われようとも変わらぬ意思である。」
「ならば、この願証寺の一向一揆を何となさる?」
顕如の言葉の後に秀吉が即座に言葉を挟むと、顕如は脇に控えていた頼竜や頼廉の方を見つめながら言葉を発して心苦しい決断を下した。
「…我が名をもって一揆を起こせし願証寺、並びにその門徒たちを破門とする。」
「門主様!?」
「…そのお言葉、真にございまするな?」
顕如の決断ともいうべき返答を聞いた秀吉が顕如に念を押すように尋ねると、顕如は言葉をかけてきた頼廉の方を一目見た後に、視線を秀吉の方に向けてから意を決した表情を見せて力強い言葉を発した。
「これでしか高家に対し誠意を示せぬ。秀吉殿、この旨を秀高殿や幕府に対して言上くだされよ。」
「ははっ。その旨、しかと心得ました。」
この返答を聞いた秀吉はその場で頭を下げ、同時に顕如は明後日の方向を見つめて苦々しい表情を浮かべたのであった。ここに総本山である顕如ら本願寺は一揆を起こした願証寺を見放す意思表示を示し、その返答を受け取った秀吉兄弟はその日の内に京の秀高のもとへ帰っていった。そして数日後に秀吉より顕如の意向を聞いた秀高は、直ちに将軍御所に参上して足利義輝にその旨を事細かに報告したのである。
「そうか。門跡はその様に申したか。」
「ははっ、その旨を我が家臣が確認したほか、他ならぬ門主様より親書を頂戴いたしました。それをもってこの一向一揆には、総本山である本願寺の関与は薄い物と我らは判断しました。」
将軍御所の大広間にて対面した秀高より報告を受けた義輝は首を縦に振って頷くと、報告に参上した秀高に言葉を発した。
「…分かった。ならば伊勢長島に対して幕臣を派遣する。もし願証寺がこの仲裁に従わない様ならば、幕府の名において高秀高に長島一向一揆の鎮圧を命ずる。」
「ははっ!承知いたしました。」
この言葉には、法令に順守して対処しようとする将軍の意思が現れていた。秀高は義輝より言葉を受けて頭を下げると、それを見た義輝はその場に同席していた幕臣の細川藤賢に向けて下知を下した。
「藤賢、早速にも伊勢長島へと発ち両者の仲裁を務めて参れ。」
「ははっ。然らばすぐにでも。」
この命を受けた藤賢は義輝に向けて返事を返すと、その日の内には身なりを整えて幕府からの使者として伊勢長島へと向かって行った。義輝や幕府からすればこの幕府の使者によって行われる仲裁に応じ、穏便に矛を収めてくれることを願ったのである。
しかし結果的に言えば、この幕府の仲裁は不調に終わった。というのも檄文に書かれた名前が顕如の親筆であると疑わない願証寺は一揆の継続を主張し、声高々に高家の伊勢長島からの撤退を要求。対する長島城主・滝川一益も一揆の解散を主張。願証寺へ謝罪を要求したことから両者の意見は真っ向から対立した。これを幕府の使者である藤賢は何とか仲裁しようとしたが、あろうことに一揆衆に紛れていた織田信隆配下の北畠具親が藤賢の寝所を襲ったことにより仲裁は頓挫。何とか藤賢は生き延びたものの、これによって幕府はこの一向一揆を武力によって鎮圧する方向へと舵を切っていく事になるのである…。