1571年4月 燻る火種
康徳五年(1571年)四月 山城国京
康徳五年四月四日。京の将軍御所に参上した高秀高は昨年末に幕政改革評議を再編する形で新設された「幕政会議」に出席。その会議の中で幕臣・柳沢元政がある議題を提示した。
「…先の日ノ本全国への法令順守を徹底させて以降、大名同士の大きな戦は無くなりはしましたが、大名同士の小競り合いは依然続いており、それに関して幕府へ取り成しを行う陳情の使者が絶えず来訪しておりまする。」
「陳情の使者とな?」
元政の言葉に将軍御所の広間にて上段の前に座る管領・畠山輝長が言葉を発して元政に聞き返すと、元政はその言葉に首を縦に振って頷いてから陳情の内容について語った。
「代表的な物で申せば、薩摩守護であり大隅・日向に所領を持つ島津義久殿に、大隅国の有力大名である肝付良兼が日向の有力大名・伊東義祐と結託し島津派の豪族・土豪の所領に諍いを仕掛けております。」
「島津と肝付・伊東は互いにいがみ合っていた仲。それが法令を順守せよと言ったところで簡単に収まるとは思ってはいませんでしたが、ここまで対立が尾を引くとは…。」
元政の後に言葉を発した丹後の大名でもある幕臣・細川藤孝の言葉通り、南九州の諸大名であるこの三家の争いは根深い物であった。島津と伊東・肝付。この三家は戦国時代の初めより互いに熾烈な戦いを繰り広げていた敵同士であり、特に伊東と肝付は共に組んで守護家である島津に反抗していた。その対立の根深さによって三家は幕府へそれぞれ陳情の使者を発しており、この幕政会議にて取り上げられた原因だったのだ。
この島津と肝付・伊東の諍い以上にさらに混乱した事例を元政が幕政会議に参加する面々に向けて報告した。その事例とはすなわち、上杉輝虎が関東管領として輔弼する鎌倉府に従属する大名同士の諍いであった。
「あとは陸奥において相馬義胤と伊達輝宗が伊達稙宗殿の遺言による伊具・宇多両郡内にある稙宗殿の隠居領を巡って、昨年来から小競り合いを起こしております。」
「伊達に相馬…いずれも鎌倉府管轄の諸大名であろう。鎌倉府はその諍いをなんとしておる?」
「それが、何の対応も取れておりませぬ。」
「何だと?」
元政の言葉を受けて政所執事・摂津晴門が問いかけるとその問いかけに元政は即座に返答すると、本来この事案に対処すべき鎌倉府、引いては輝虎の動向について報告した。
「鎌倉公方の足利藤氏殿は関東管領である上杉輝虎殿の差配に任すと放任し、当の輝虎殿に関してはそれとは別の問題が噴出し専らそれの対応に当たっておりまする。」
「別の問題とは?」
「それに関してはこの私から報告させていただきます。」
そう言って口を開いて発言したのは、この席に侍所所司として列していた秀高である。秀高は幕政会議に参列する一同に向けて自身が得た情報を報告した。
「実は輝虎殿の領する越後国内では、先の東北遠征の後遺症ともいうべき国内の疲弊が根強く残っており、中でも最大の軍役を負担した新発田長敦・五十公野治長兄弟や本庄繁長など揚北衆の上杉家臣は輝虎殿への反発を強めており、これの宣撫に追われている模様にございます。」
「なんと…そのような状況では鎌倉府に有効な対策を打てというのは無理な事か。」
永禄四年(1561年)十月より足掛け約十年ほどを費やして行った輝虎の東北遠征は東北諸将の鎌倉府への従属という一応の戦果を上げて完了したが、十年という長き間に東北に在陣した関東諸侯や越後本国の諸将は重過ぎる軍役を負担し、それによって領内は荒廃寸前まで陥っていた。これに上杉家中で大きく不満を抱いていたのが東北に近い越後北部・阿賀野川北岸に根を張る本庄・新発田ら在地の豪族衆であり、輝虎は何度も説得の使者を発していたが、彼らの不満を完全に取り除くには至っていなかったのである。
「はい。そこで晴門殿や輝長殿と協議した結果、この幕政会議において相馬・伊達の所領問題等の小競り合いの裁可をしたいと思います。」
「我らでその対策を協議すると?」
このような情勢を踏まえて秀高が幕政会議に列する面々へ対応策を打ち出すと、それを聞いてこの会議に列する松永久秀が反応するように言葉を発すると、それを聞いて秀高はこくりと頷いた後に言葉を続けた。
「このような領土紛争が噴出して来ている今、真に差配できるのは幕府を置いて他にはいません。よってこの大きな二つの事案解決に向けて方々のご理解を得たいと思います。」
「しかし所司殿、如何様にして裁きをするので?」
その久秀の隣にて会議に列していた弟の内藤宗勝が秀高に意見を対処を伺うと、秀高は尋ねてきた宗勝に向けて具体的な対策を提示した。
「例えば伊達・相馬問題の場合、双方の当主及び嫡子、加えて重臣一名ほどを京に呼び寄せて裁可を行い、これを幕府の命で仲裁するというものです。この対策をもって全国に今後起こる所領争いへの対処の基準とすることが出来れば、今後の幕政もより容易になるでしょう。」
「なるほどな…ならばまずはそれらの者たちを京に呼び寄せ、幕府の名において裁くとしよう。方々、ご異存はござらぬな?」
秀高の言葉を聞いた晴門が輝長に代わって幕政会議に列する面々に問いかけると、久秀や宗勝、藤孝や元政など幕政会議に参加する十名は声を上げる事も無く沈黙を貫いた。それを見て賛同多数と見た晴門はこくりと頷いた後に言葉を発した。
「ではその様に動くとしよう。元政、直ちに島津・肝付などや伊達・相馬に迅速な京への上洛を要請せよ。」
「ははっ。しかと承りました。」
こうしてこの幕政会議において、領土問題を抱えるそれぞれの家に向けて京への早急な上洛と裁定への参加を促す使者を発する決定を下された。その日の内に幕府の使者は火種を抱える二か所へと早馬を飛ばして急行し、幕政会議で決定された旨を伝えに行ったのであった。
「しかし秀高、よく考えたもんだな。」
「ん?」
その幕政会議を終えた後、この幕政会議に参加するべく名古屋から来ていた大高義秀が将軍御所内の控えの間において会議に参加していた小高信頼や秀高と共に円を描くように座りながら、粗茶の入る茶碗を口に持ってきつつ秀高へ話しかけた。それに秀高が茶菓子を口に含みながら相槌を打つと、義秀は茶碗を口から遠ざけた後に言葉を秀高にかけた。
「とぼけんじゃねぇよ。さっきの揚北衆の一件も伊助に命じておいた工作の一環だろう?」
「馬鹿。あまり大きな声を出すな。将軍御所と言ってもどこで誰が聞いてるか分からないだろう。」
口に含んでいた茶菓子を飲み込んだ秀高は、大きな声を発した義秀に対して自制するように促した。この越後国内で起こっていた一連の動きの裏には、この秀高が擁する稲生衆の関与があったのだ。秀高は義秀に声を上げぬように言った後に腕組みをすると、義秀と信頼に聞こえるような小さい声でこう言った。
「…まぁ、俺はあくまで本庄や新発田に偽情報を流せとしか言っていなかったんだが、ここまで大事になったのは、それほど両名に大きな不満があったという事だろう。」
「うん。聞けば輝虎は先の東北遠征に従軍した上杉家臣たちに、領地の加増といった恩賞を殆ど与えていないそうだよ。」
「何だと?」
稲生衆が得た情報を信頼が義秀に伝えると、それに義秀が大きく驚いた。恩賞が全くないという事はいわばタダ働きも同然。ましてや領主ともなれば足軽は言うに及ばず配下の武将たちへの給料支払いを行う為にもある程度の加増があって当然にもか関わらず、輝虎は上杉直属の家臣たちに対して何の恩賞も与えていなかったのだ。このような状況に陥った背景を秀高は義秀に向けて語った。
「東北を平定したと言っても所領全てを上杉家の物にしたという訳じゃない。あくまで在地の大名や豪族の物に留めておいたから、いざ加増させたくても加増できる土地は少ないんだよ。」
「…つまりは輝虎の「旧領安堵」が裏目に出たって訳か。」
東北遠征を終えた後に噴出した不満を無論秀高は稲生衆を通じて知っていた。そこで秀高は越後国内の攪乱を図るべく本庄・新発田らに輝虎への不満を煽る様な流言を流した。それによって輝虎の越後国内での基盤を揺るがせ、その間に幕府によって紛争裁定を行うことによって関東管領である輝虎の名声を落とそうと考えていたのである。秀高はその様な思惑を孕みつつも輝虎が固執する伝統回帰の諸政策が招いた今回の事案に少し哀れみを思いながら言葉を発した。
「…哀れなもんだな。人は働いて成果を得たら見返りを求める物だ。その見返りを十分に与えなかったらそっぽを向かれるのは自白の明だというのにな。」
「でも、それでも輝虎の気性からすれば、曲げられない事なんだろうけどね。」
信頼が輝虎の個性を踏まえてそう発言すると、秀高はこくりと頷いた後に手にしていた小さな茶菓子を口に含んだ。事実、この秀高が仕掛けた越後混乱の策略は更に大きな出来事へと発展しようとしていたのである。




