1571年2月 尾張の輝高
康徳五年(1571年)二月 尾張国名古屋城
同じころ、高秀高の本国である尾張・名古屋城には本国への下向を命じられた嫡子・高輝高が先月末より在城。側近たちや補佐を秀高から命じられた大高義秀・華の輔弼や教えを受けながら領国統治の経営を行っていた。
「皆の者、領国の統治においては父上が行っていた諸政策を踏襲し、引き続き領内の安定化に努めていこうと思う。」
「ははっ、仰せのままに。」
秀高が尾張在国時に使用していた本丸表御殿の書斎にて、父・秀高と同じ席に座った輝高は所信を表明する様に領国統治の意気込みについて語った。これに輝高の側近である津川義冬と土方高久、それに岡田重善の三名が会釈をすると尾張留守居を務めていた山口盛政が輝高に向けてこう意見した。
「若殿、領国の安定に努めるのも大事にはございますが、大殿が若殿に領国への下向を命じたのは、領国経営のイロハを学ぶため。全て踏襲するだけではイロハを習得したとは申せませぬ。」
「盛政、ではどのようにしたら良い?」
輝高より尋ねられた盛政は若殿である輝高に向けて領国統治、引いては為政者としての心構えを説くように方策を述べた。
「されば、領国経営の根本においては大殿の政策に従いつつ、若殿が独自に政策や方策をお示しになれば、経験も自ずと溜まっていき大殿もきっと満足なさると思いまする。」
「なるほど…義秀叔父はどのように?」
この盛政の意見を受け入れた輝高は、続いて視線を同行して来てくれた義秀の方に向け、「義秀叔父」と呼称しながら尋ねると義秀は盛政の方をちらっと見た後に言葉を輝高に返した。
「盛政の言う通りだ。お前の父親も次々と目新しい方策を打ち出して領民の安定に努めた。だから輝高もお前自身の考えで政策とかを決めれば良いと思うぜ。」
「えぇ。その為にもまずは肩ひじ張らずに統治を行う事が大事よ。」
義秀に続いて妻である華が輝高に向けて優しい口調で説き聞かせると、これを聞いた輝高はすぐに頷いて答えた。
「はい、分かりました。ならばまずはこの尾張、そして美濃等の情報を知りたいと思う。高久、情報を教えてくれ。」
「ははっ、されば申し上げまする…」
この輝高の言葉を受けた高久は重善や義冬と共に尾張・美濃の国内の状況についてつぶさに輝高に伝えた。両国の石高や開墾状況、人口の増減や村々の数、更には税収などの事細かな情報を上座にてすべて聞き入りながら輝高は情報を受け入れると、手にしていた資料の一つである家数人馬改帳の中に記されている項目を見つめながら言葉を発した。
「…なるほど。石高はここ数十年で右肩上がりになっているのか。」
「ははっ。このまま行けばあと数年は石高も増えて参ると思われまするが、やがて頭打ちとなりこれ以上の開墾も難しくなるかと。」
「加えて領民の流入もここ数年の間は徐々に下がってきており、人口の増加も自然増加を待つ時に来たと推察いたします。」
家数人馬改帳を手にする輝高に対して、尾張民政に当たっていた盛政と山口重勝が今後の展望を輝高に申し述べると、懸念すべき事項を知った輝高はそ改帳を机の上に置いた後、その場で思案し始めた。
「そうか…ならば何かしらの手を打たなくてはならないか。義秀叔父、何か良き知恵はありませぬか?」
「良き知恵か…」
輝高の尋ねを受けた義秀はその場で腕を組んで良き知恵を絞りだすと、ふと以前、小高信頼が秀高に向けて語ったある一言を思い出し、近くにいた盛政の方に視線を向けながら言葉を発した。
「そう言やぁ、信頼が前に面白いこと言ってたの覚えてるか?ほら、堤防がどうのって…」
「…あぁ、確か木曽川左岸に長大な堤防を築き、そこから尾張北西部に用水路を引っ張ってその水で開墾を行うという物か。」
義秀が思い出したのはおよそ十年前、尾張国内に木津用水を引いた際に信頼が発言した今後の展望の一つであった。その言葉を聞いていた義秀はこの場でそれを思い出し、それに盛政も乗っかって内容を輝高に向けて語ると、それを脇で聞いていた高久が輝高に向けて懸念を示した。
「しかし若殿、その策をやるにしても対岸の美濃側の村々への対策を施さねば、難しい物かと心得まする。」
「なるほど…難題は山積みという訳か。」
輝高は高久から言葉を聞くと机の上に置かれた改帳などの基本台帳を見つめながら呟き、その後に頭を上げて前を向くと書斎の中に居並ぶ重臣たちに向けて意気込むように言葉を発した。
「だが、高家の国力を高める為にもその事業は避けて通れないだろう。よし、高久に義冬、直ちにその構想の実用性を村井貞勝と諮って吟味してくれ。」
「ははっ、承りました。」
この命を受けた高久と義冬が頭を下げて会釈をすると、それを見て輝高はこくりと頷いた。その一連の動きを脇で見つめていた義秀はニヤリとほくそ笑むと、後方にいた華の方に顔を近づけて耳打ちする様に小声で発した。
「はっ、あの冒険心の高さは父親譲りだな。」
「えぇ。でもその計画が実現できればその偉業はヒデくんを越えるわよ。」
父である秀高に代わって尾張に下向していた義秀夫妻は、輝高の今後を楽しむようにその姿を見つめていた。するとその時に書斎の中に一人の侍女が現れて輝高に言葉をかけた。
「殿、申し上げます。」
「あぁ千代女、どうかしたか?」
輝高が呼んだこの千代女という侍女、その名を望月千代女という。かつて甲賀衆の頭目を務めていた望月出雲守の遠縁でもあり、「甲斐の虎」こと武田信玄に仕えていた女くノ一の頭目でもあった。武田信玄の没後は各地を放浪していたが去年夏に真田幸綱の仲介で秀高配下に収まり、稲生衆に忍び頭の一人として加わると表では輝高付きの侍女頭として、裏では輝高警護の密命を受けて輝高の名古屋下向に同行していたのである。
「滝川一益様より密使が参りました。長島願証寺門下の寺院に人の出入りが多くなった、と。」
「人の出入り?」
その千代女より一益からの密使が伝えて来た情報を脇で聞いた盛政がオウム返しをするように呟くと、その言葉を聞きながら千代女は輝高に向けて報告の続きを述べた。
「何でも幾つかの寺院に「虚無僧」の出入りが激しくなっていると。」
「虚無僧だと!?」
その固有名詞を聞いて大きな反応を見せたのは他でもない義秀であった。虚無僧…即ち織田信隆配下の手の者が尾張国内に忍び入っている情報を聞いた輝高はその不審な情報を聞くと自身の勘が働くように言葉を発した。
「…何か嫌な予感がする。千代女、稲生衆に命じて尾張国内の監視を強めるように言ってくれ。」
「はい、心得ました。」
この輝高の言葉を聞いて千代女は一礼して受け入れると、そのまま書斎を後にしていった。この報告を下座にて聞いていた盛政は義秀の方を振り向きながら言葉を発した。
「虚無僧という事は…信隆が何かをするつもりか。」
「へっ、これで願証寺の証意がどう出るかによるな。」
義秀は高家に敵対心を持つ願証寺の住職・証意の動向を警戒するように言葉を盛政に返した。これを聞いて華は黙したまま頷いて答え、輝高も上座で父が宿敵とする信隆の出方を頭の中で思案した。こうしてここに秀高・輝高父子も信隆との暗闘に備え始めて、両者の工作が表に現れだしたのは、それから数ヶ月後に噴き出したのである…。




