1558年3月 嵐の前夜
永禄元年(1558年)三月 尾張国鳴海城
寺部城攻めから、数週間が過ぎた三月二十八日。この日、鳴海城には今川譜代の家臣で大高城代を務める鵜殿長照が来訪していた。その用向きは、尾張国衆の筆頭格である山口教継に、分国法である今川仮名目録の違反を咎めに来ていたのである。
「…では教継、そなたの家臣である高秀高の家来たちはもともと、隣の元岩倉織田家の家来であったものがおるそうだな?我が今川の目録に、「他国の者を召し抱えてはならない」旨がある事を忘れてか?」
その違反の一つが、先ごろ秀高に仕官した山内高豊の事であった。高豊の存在は、仮名目録の準拠によればいわば、「他国者」にあたり、それを召し抱える際には今川家に図るべしという法令を逸脱した行為を咎められているのである。
「…畏れながら、その旨はすぐに報告しようと思いましたが、折しも戦が重なり、報告するのが遅れてございます。」
いつもは教継が座る上座に、どしっと居座る長照の追及を、教継は神妙な面持ちで回答していた。その傍でそのやり取りを頭を下げながら聞いていた、張本人となっている秀高本人は戦々恐々としていた。
「ほう…まぁそれは良い。で?何故他国者を召し抱えたのだ?」
そう言って長照は、秀高にそのことを問いただした。
「…畏れながら、私は元織田信勝殿の家来でありまして、縁故によって今は教継さまに仕えております。高豊の一件もかつて共に戦った父の盛豊殿とは面識があり、尚且つ主家が滅びたことにより、召し抱えたのであります。」
「…その者がもし、織田信長が密偵であった場合はどうする?」
その長照の問いかけを聞いた秀高は、決然と反論するべくやや語気を強めて言い返した。
「畏れながら、私は大事な家臣をその様に疑い、疑問を持つことは致しません。それにもし信長の密偵であったなら、そもそも教継さまの家来である私の所には来たりはしないでしょう。」
「…ふん、そうか。」
その秀高の反論を聞いた長照はそれを鼻で笑うと、話の内容を変えるように言葉を発した。
「まぁ、今後は気を付けよ?で…租税の一件であるが、そなたらの領地で施行されている税率を、今川領一帯の税率に揃えよ。」
その長照の要求を聞いた教継は、やはりそれをつつかれたかの内心思っていた。それはつまり、秀高からの領地から始まった定免制の事を指しており、今川領で施行されている税率に変更せよと要求されたのである。
「畏れながら、何か不都合でも…」
「大ありじゃ。外様のそなたらが独自の税制をしき、そのおかげで譜代よりも力を蓄えておる。これはつまり、今川への反旗ともとれようが。」
教継に対して長照は、冷たく突き放すように一言を言い放った。
「それは、あまりにも言いがかりが過ぎようかと…」
「黙れい!!」
と、長照はいきなり怒りだし、教継に向かってその矛先を向けた。そして長照は、教継の後ろに控える秀高を指さしてこう言った。
「そもそも、太守はその秀高の不気味さを懸念しておられるのだ!貴様も今川に忠義を尽くすつもりならば、直ちにこの場で秀高を討ち取れ!」
「長照殿!!」
と、あまりにも理不尽な要求に耐えかねた教継が、長照に対して怒った。
「…畏れながら先程、秀高が申されたとおり、わしにとっても秀高は大事な家臣であります。それをその様な理由で粛清を要求されても、そればかりは承服できませぬ!」
その教継の言葉を聞いた長照は青筋を立て、怒りに震えながら教継らをしばらく見つめた。そして次の瞬間、立ち上がって手にしていた扇を床に叩きつけた。
「…良かろう。今日の所は引き下がるが、次は容赦はせぬぞ。」
そういうと長照は違反の咎めが終わらぬうちに席を立ち、その場からどしどしと足音を大きく立ててその場から去っていった。
「殿…宜しかったのですか?」
長照が去った後、秀高は教継に対して言葉をかけた。
「構わん。我らは今川の国衆ではあるが長照の家臣ではない。それにな、いかに分国法を押し付けられようと、我らは反抗してその有り様を太守に示すことこそ武士というものであろう。」
教継が秀高に自身の考えを話していると、そこにすべてが終わったことを察したかのように息子の山口教吉が現れてこう言った。
「父上、長照殿のご用は終わりましたか?」
「あぁ、大事ない…それよりも、用意ができたか?」
教継は教吉にこう尋ねると、教吉は頷いてこう言った。
「はっ。既に鷹狩りの準備はできておりまする。着替えは整えておりますので、一緒に参りましょう。」
「そうか…分かった。わしも直ぐ用意しよう。お主は先に待っておれ。」
「ははっ。」
教吉は教継の言葉を聞くと、それを受け入れてその場を去っていった。すると秀高は話の内容を察し、教継に言葉をかけた。
「殿…これから鷹狩りですか?」
「あぁ、あんな奴の話を聞いて鬱屈しておった所じゃ。気休めに行こうと思ってな。」
その教継の様子を、秀高はどこか不安に感じていた。そして秀高は教継にこう意見した。
「…畏れながら、既に昼を過ぎております。鷹狩りは明日になされては…」
「何を言うか。わざわざ教吉が誘ってくれたのじゃ。偶には父と子の水入らずの時間じゃ。大切にしたいと思うての。」
教継は秀高の不安な意見を一蹴するようにこう言うと、秀高にこう言った。
「…秀高、そなたは我ら親子が帰るまでの間、この城にいてくれぬか?今日は夜に大野城から佐治親子が継意の案内でこの城に来る。それまで…城の守りを頼むぞ。」
「殿…」
その教継の発言の中には、教継なりの大望が秘められている。そう感じ取った秀高は、教継の心中にはもしかしたら、今川からの独立を図っているのではないかと思っていたのである。
「…分かりました。殿も、何卒お気をつけて。」
「うむ。では頼むぞ…」
秀高にそう言った教継の表情は、どこか晴れやかで、そして決意に秘めた瞳をしていた。その言葉を聞いた秀高は頭を下げ、その場を去ってゆく教継を見送ったのだった。
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「…あら、あんた、秀高じゃない。じい様は?」
秀高がその城に留まって留守をしていたところ、その場に静姫が現れてこう話しかけてきた。
「はい…それが教吉さまとともに、水入らずと言って鷹狩りに向かわれました。」
「鷹狩りに?変ねぇ…」
その秀高の言葉を聞いた静姫はそれを不審に思い、秀高の隣に来てこう言った。
「じい様、鷹なんか飼ってなかったと思うけれど…。」
「…え?」
その言葉を聞いて、秀高は不安に一気に駆られていた。もしそれが本当だとするならば、教継の真意は一体なんなのであろうか?と秀高は縁側から虚空を眺めながら思っていた。
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その頃、教継一行はあるところに来ていた。そこは鳴海城外の旧桜中村城の跡地である。教継と教吉がこの場に来ていたのは、もちろん鷹狩りが目的ではない。ある目的があってこの場に来ていた。
「…殿、間もなくお越しになられます。」
「そうか。」
教継の側近の一人が、教継にある報告をした。その場は旧桜中村城の本丸跡地。草木が生い茂る平地の場所であった。
「教吉…これからする決断は、我が山口家の家運を掛けた戦いになろう。」
「…いかにも。」
用意された床几に座っている教継が、立っている教吉にこう言った。
「この決断は、歴史にどう残るのでしょうな…」
教吉はふと、教継に自身の思いをぶつけるように問いかけた。
「…それは、神のみぞ知るであろうよ…」
この教継と教吉には、周囲には漏らしてはいない大望があった。そしてこの場で会う人物たちと話し合い、その行動を実行しようとしていたのである。
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「御坊、敵が見えました。」
その教継らがいる平地よりわずか離れた木々の中、それを見つめる不穏な影があった。その者らは虚無僧たちが武装を揃え、御坊と呼ばれたその集団の頭目に話しかけていた。
「よし。まだ連中は来ていないな?」
「はっ。当分は着かないかと。」
その集団を率いる頭目。その人物は笠を深く被った織田信隆の軍師、高山幻道であった。幻道は配下の虚無僧より報告を受けると、目の前にしゃがんでいる、鉄砲を持った虚無僧にこう言った。
「良いか。他には目もくれるな。狙うは山口父子じゃ。構え。」
その幻道の言葉を受け、虚無僧たちは鉄砲の銃口を、草木の間から山口父子にその標準を向けた。
「撃て。」
その号令が下された直後、その辺り一帯に轟音が鳴り響いた。
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その頃、秀高が城を守る鳴海城に、桶狭間の館から大高義秀ら家臣と、玲ら奥方一同も城に登城してきていた。
「おう、秀高、皆を連れて来たぜ。」
「あぁ、ありがとう。」
実はこの集合は秀高の存念ではなく、教継の意向でもあった。その集合を聞いていた義秀一同は、これは何かしらの事があると踏んでいた。
「それにしても、僕たち一同をこの城に招くなんて…」
小高信頼が不安そうにこう言うと、秀高はそれを払拭させるようにこう言った。
「俺たちだけじゃない。大野城から佐治為景父子も呼ばれている。これは何かしらの発表があるだろう。」
「いったい、何の発表なのかな…。」
秀高の言葉を聞き、しっかりと立っている徳玲丸の手を持ちながら玲がこう言うと、力丸を抱えている華がこう言う。
「まぁ…とっても大事な事でしょうね。」
「もしかすると、教継さまは…」
華の言葉に続き、舞の言葉の先を予測した一同は、その教継の大望こそ、今川からの独立ではないかと確信した。
「…秀高、秀高っ!!」
しかしそこに、慌てて駆け込んできた静姫の言葉を聞き、そこにいた一同は驚愕した。
「じい様が…じい様と父上が、何者かに襲われて危篤だって!!」