1569年8月 羽黒・楽田模擬戦<前>
康徳三年(1569年)八月 尾張国旧楽田城跡
楽田城の跡地より伸びる一筋の白い狼煙。これこそが東軍と西軍の模擬戦開始を告げる合図であった。これを五条川の北岸に布陣する魚鱗陣形の西軍一万二千の中で見ていた西軍総大将・森可成は、手にしていたたんぽ槍を高く掲げると周囲にいた味方に向けて号令を飛ばした。
「良いか!この一戦は殿の軍団編成を試す戦である!我らが武勇を存分に見せつけてやろうぞ!かかれ!!」
「おぉーっ!!」
この号令を受けた西軍一万二千は稲葉良通、安藤守就勢を先頭に続々と五条川を渡河し始めた。その西軍の向かう先、楽田城跡地にある物見櫓にて望遠鏡を覗きながら西軍の進軍を確認した高秀高が、側にいた東軍の総大将であり物見櫓にいる一同への説明役を務める大高義秀に話しかけた。
「…西軍が川を渡って前進を始めたな。」
「あぁ。既に東軍の前線で戦う高政には、敵の攻撃を受けた際にその場で留まって矢玉を敵に浴びせるように指示を出してある。じきにこっちの攻撃も始まるだろう。」
義秀が秀高に向けて自信満々に語った通り、楽田城跡地の前に布陣する東軍でも動きがあった。義秀に代わって前線の指揮官を務める神余甚四郎高政の元に弟の神余甚三郎高晃が駆け込んできて敵の戦況を伝えた。
「兄上!西軍が押し出して参りました!」
「よし。甚三郎、配置に戻れ。敵に矢玉を浴びせる。」
「心得た!」
この号令を受けると高晃は勢い良く返事を発し、そのまま前線へと向かって行った。そしてそこにいた歩兵指揮官の原田団兵衛晃直と共に二段目に控えていた弓隊に指示を告げた。
「者ども!鏑矢を番えよ!敵に思う存分浴びせてやれ!」
「放て!」
高晃の言葉の後に鏑矢を番えた弓隊が弓矢を上空に構えると、晃直の号令でそれを一気に放った。その矢は放物線を描くように川を渡った西軍先鋒に位置する稲葉隊・安藤隊へと吸い込まれ、鏃のない鏑矢が稲葉隊の鎧をこつんと音を立てて当たった。
「うわっ!あ、当たった…。」
「当たった者はその場に伏せよ!当たらなかった者のみ前に進め!」
鏑矢が音を立てて味方の足軽に当たったのを見た良通は、馬上から模擬戦で取り決められていた約束通りに倒されたものとして数えるべく当たった将兵に地面に伏せる様に命令した。一方、東軍の攻撃を物見櫓で見ていた兵馬奉行の小高信頼が望遠鏡で西軍先鋒の旗指物を確認した上で発言した。
「どうやら西軍の先鋒は稲葉良通殿と安藤守就殿の隊だね。」
「あぁ。一応双方の取り決めとしてたんぽ槍や袋竹刀、鏃を抜いた鏑矢に当たった者はその場で伏せ、馬上に乗る者はそこから去る事になっている。見たところ東軍の一斉射で前衛の兵を倒していっているようだ。」
「えぇ。でも斉射で優位に立っていても、いざ乱戦に持ち込まれたらどうなるのかしら…」
華から受け取った望遠鏡を覗き込みながら信頼の言葉に返答した義秀に、華が懸念を示すように発言した。その華の懸念通り射撃を受けて兵数を減らしていた西軍であったが、いよいよ近接戦闘を行える距離まで近づくと良通は味方の槍足軽に向けて号令を発した。
「よし!槍隊前へ!槍衾を組め!」
この号令を受けた稲葉隊の槍足軽は前面に一列に並び、たんぽ槍を突き出して前に押し出した。それを見た東軍の歩兵指揮官である長狭格兵衛政景が迫り来る西軍の姿を見て、じりじりと後退し始めた味方に向けて督戦するように言葉をかけた。
「怯むな!こちらも槍衾を組む!たんぽ槍を前に突き出せ!」
この号令を受けた東軍の槍足軽も気を取り直し、一斉にたんぽ槍を構えて迫ってきた西軍の槍隊と槍衾を交互に交わして戦い始めた。通常ならば魚鱗陣である西軍が薄い横陣隊形の東軍を突き破る場面ではあるが、この戦いでは突き破るどころか接触した西軍先鋒に向けて東軍の右翼・左翼から鏑矢の雨が一斉に降り注いだのである。この様子を物見櫓にて観戦していた徳川家康が望遠鏡を覗き込みながら反応を示した。
「おや?乱戦に持ち込まれても東軍は持ちこたえておるようですな。」
「あぁ。何しろ先陣しか当たっていない西軍に対して東軍は前面全てで西軍に当たっている。如何に乱戦に持ち込まれても前面に加え、側面からの射撃を受ければさしもの西軍も容易に突破出来ないわけだ。」
「ふうむ…されどあの森可成がこのまま終わるとは思えんがな。」
家康の言葉を受けて発言した義秀に対し、鳴海城主でもある佐治為景が野生の勘を働かせて発言した。その言葉通りに西軍の中央部では味方の苦しい戦況が前線より報告に来た足軽より馬上の可成に告げられていた。
「申し上げます!お味方の稲葉・安藤勢総崩れ!両名とも戦線を離脱し犬山城へと帰城していきます!」
「稲葉隊が切り崩されたと!?」
「このまま攻めてもこちらの損害は大きくなるばかり。ならば…。」
足軽の報告を受けて大きな反応を示した森家臣・各務清右衛門元正に対して冷静に戦況の見通しをつぶやいた可成は、すぐさま側に控えていた元正に向けて即座に命令を伝えた。
「元正!遠山勢に指示を伝えよ!直ちに東軍の右翼側面に回り込み、横っ腹を突き破れとな!」
「ははっ!」
この命令を受けた元正は直ちに西軍左翼に控える遠山綱景勢の所に向かい、東軍の側面攻撃を命令した。それを受けた遠山勢はすぐさま進軍を開始し右翼の側面へと回り込み始めたのである。この行動を物見櫓で見ていた華は夫の義秀に向けて不安が的中したかのように苦い顔をして言葉をかけた。
「ヒデくん、やはり可成さんは横に兵隊を回してきたわね。」
「あぁ…先ほど東軍の布陣の利点を伝えたとは思うが、勿論欠点もある。それこそがこの側面からの攻撃にひどく脆いという事だ。」
「確かに…あの隊形では側面からの攻撃を受ければひとたまりも無いでしょう。」
義秀が東軍の隊形である横隊の弱点を語ると、それに納得するように末森城主の真田幸綱が反応した。確かにこの横隊は側面が薄いために一たび側面に攻撃を受ければそこから総崩れする危険性があった。そんな懸念事項を聞いていた秀高が望遠鏡から目を離すと、義秀の方を振り向いて確認するように言葉を発した。
「…だが、何の対策も無いわけじゃないだろう?」
「勿論だ。まぁ見ててくれ。」
秀高の問いかけに義秀がニヤリと笑い、自信満々に返答した。その義秀の言葉通りに前線の東軍では西軍の一隊が東軍右翼へと向かってくる光景が目視で確認でき、それを見た高晃が中央にて馬上にいる高政の元に駆け込んで報告した。
「兄上!西軍の一隊が右翼側面から回り込んでくる!おそらくこちらの脇腹を突くつもりだぞ!」
「おぉ、やはり義秀殿の申す展開どおりになったな!よし甚三郎!右翼の味方へ後方に下がり梯形陣の体制を取れと伝えろ!」
「おう!」
西軍が右翼側面に部隊を回してきたことを知った高政は、弟の高晃に隊列変更の下知を飛ばした。この下知を受けた高晃はすぐさま右翼の味方の元へ走ると軍勢を後ろに下げさせ、やや前に出ていた左翼から後ろに下がった右翼に斜めに布陣するような隊形を取った。この布陣を物見櫓より模擬戦の趨勢を見守っていた幕臣・細川藤孝が感嘆するように言葉を発した。
「ほう…あの布陣は雁行陣ではありませぬか。」
「あぁ、確かにあれを見ると雁行陣に似ているが少し違うんだ。あれは梯形陣って言って梯子を掛けた様子に似たことからその名前がついている。増援の来着を待つ前提で敷く雁行陣と違い、梯形陣は前に出た左翼が敵の右翼を打ち破り、そのまま中央の味方と共に敵の中央を横から攻撃できることにある。」
「また、このように側面から回り込んできた敵に対して斜めに取る事で、側面から来た敵へ存分に射撃を仕掛けられます。側面攻撃を図ってきた西軍の意図を打ち砕くことも出来るわけです。」
この義秀と華の言葉通り、前線では側面攻撃を仕掛けて来た西軍の遠山隊に向けて東軍が射線を集中させて鏑矢を浴びせていた。その矢を受けて遠山隊は勢いを削がれて兵力を仕損じ始めていた。その様子を見ていた家康は秀高の軍勢における火縄銃の配備率を念頭に置きながらこう発言した。
「確かに今までの雁行陣と違い、弓や鉄砲を完備する秀高殿の軍勢ならば、側面から回り込まれてもこのように斜めに陣形を敷けば打ち破ることも出来ましょうな。」
「あぁ。それだけ火縄銃というのはこの日ノ本の戦の仕組みを大きく変える武器という訳だ。」
家康の意見に賛同するように秀高は言葉を返した。この言葉通りに射撃による敵勢撃破を優先する東軍の布陣は近接戦闘を志す西軍の意図を完璧に打ち砕き、側面攻撃を仕掛けて来た遠山勢に加えて二段目の氏家直元勢も戦意を喪失して戦線を離脱していった。こうして西軍は森勢と不破光治勢の二隊のみとなり、もはや戦の勝敗は定まったといっても過言ではなかった。