1569年6月 北条家の姫君
康徳三年(1569年)六月 尾張国名古屋城
数日後の六月九日吉日。高秀高の居城である名古屋城にて華燭の典が催された。高秀高の新しい正室となる春姫との盛大な婚礼に尾張・美濃の各城主、それに新婦・春姫の弟でもある大河内城主・北条相模守氏規も一族郎党を伴って参列した。名古屋城本丸表御殿の大広間にて秀高と春姫はまず、上段の上座にて互いに向き合い三三九度の盃を交わした。その様子を参列する家臣団や玲・静姫ら正室たちは下座にてそれをじっと見つめ、やがて盃を交わして婚礼を一通り済ませたに一同の前に御膳が運ばれ、その場で家臣団たちは下座にて、そして正室たちは秀高と同じ上段に上がって各々歓談を始めたのである。
「殿、改めて我が姉を正室にお取り立ててくださり、誠に感謝申し上げまする。」
「氏規、ありがとう。」
秀高と新婦である春姫が座る大広間の上段、上座にて秀高らの目の前に座った氏規と北条家臣の北条綱高・北条綱成両名は秀高へ挨拶に訪れた。氏規からの口上を受けて秀高が返事を返すと、銚子を持っていた氏規から自身の盃に酒を注がれながら、氏規へ言葉をかけた。
「これで今後はお前も当家の一門に列する事になる。今後は高家の繁栄のために尽力してくれ。」
「ははっ、心得ましてございます。」
「しかしよもや、春姫が大殿と婚姻を結ばれるとは…亡き殿が見れば何と言われた事であろうか…。」
氏規から返事を受け、酒を盃に注いでもらった後にそれを飲み干した秀高の脇で、綱高が花嫁姿の春姫を見つめ、今は亡き元主君・北条氏康の事を思い浮かべながら言葉を呟くと、それを脇で聞いていた綱成が鼻で笑って反応した。
「ふっ、亡き殿ならばきっと春姫様の今後を思えばお喜びになるであろうよ。」
「…綱成殿の言う通りだ。姉上、今後は大殿との間に御子を成されることを我ら北条一門は切に願っておりまする。」
「まぁ…」
この言葉を弟でもある氏規から受けた春姫は、その場で頬を赤らめながら微笑んだ。そうして氏規らが上座から下がった後に列席する重臣たちの酒も進んだ後、婚礼の席に列していた稲葉山城主・安西高景が秀高に向けて婚礼に際して毛利隆元から贈られてきた引き出物の話題を出した。
「そういえば殿。毛利から此度の婚姻に際して引き出物が届けられたとか。」
「あぁ。毛利領国の石見銀山から産出された上質な銀だ。俺もかつて将軍家に献上された物を一目見たことあるが、まさかそれを貰えるとはな。」
秀高が側にいた春姫から酒を盃に受けつつ言葉を発した。何しろこの毛利家からの引き出物には秀高も驚いており、毛利家の使者が届けて来た石見銀の実物を見て度肝を抜かれていたのである。その石見銀を送ってきた毛利家について高景の反対側の列に座していた名古屋留守居役の山口盛政と山口重勝がそれぞれ秀高に向けて発言した。
「殿、我らには毛利の魂胆が分かりませぬ。幕府の重臣に列したとはいえど毛利は西国の雄。尼子の残党を庇護した我らに対し、腹の内に何かしらを秘めていてもおかしくはありませぬぞ。」
「如何にも。万が一に毛利が幕府保守派を通じて織田信隆と通じれば、由々しき事態になるのは必定にございまする。」
「いや、そうではないかと。」
と、その二人の懸念について即座に否定したのは、京に留まる三浦継意の名代としてこの席に列していた竹中半兵衛重治である。この即座に否定した半兵衛に対して烏峰城主を務める森可成が盛政らに代わって半兵衛に問い返した。
「半兵衛よ、それはどういう事じゃ?」
「もし毛利に織田と通じる意思があるのならば、我が殿の婚礼に引き出し物など出す訳がありません。此度の引き出し物はあくまで、殿が遣わした「三日月」の返礼の意味もあるでしょう。」
「では、逆に毛利は私たちと仲を深めるつもりもないと?」
その半兵衛の見立てに対して秀高や春姫と同じ上段に座っていた静姫が尋ねると、半兵衛は静姫の方を振り向き首を縦に振って頷いた。
「えぇ。ですが恐らくそれは隆元殿の考えというよりは、隠居の元就殿の意思でしょう。元就殿は常々隆元殿ら息子たちに「毛利は天下を争わず」と言い含めているようですから、おそらく毛利は幕政の中では保守派や我ら改革派、どちらの肩を持つことはせずに中立の立場を取るのではないかと思います。それ故今後、幕政改革の内容についても客観的に判断してくるでしょう。」
「なるほどな…ならば今度からは毛利の動向にも気を配らなきゃならないという訳か。」
「如何にも。」
その半兵衛の見立てを聞いて秀高が反応すると、半兵衛は秀高の方を振り向いてから頷いて答えた。この時点で半兵衛は毛利家は幕政において中立に立つのではないかという予測を立て、秀高もその考えに同心していた。いわば毛利家の局外中立は、遠く尾張にいた秀高らに見透かされていた訳である。すると今度は下座に下がった氏規が話題を切り替えるように発言した。
「殿、毛利もそうですが、我ら北条一門とすれば上杉の動向も気がかりにございまする。」
「輝虎か。」
上杉輝虎…秀高の元に身を寄せていた氏規ら北条一門にとって、正に不倶戴天の敵ともいうべき存在であった。同時に秀高にとっては信隆が身を寄せた先でもあり、輝虎の統治に懐疑的でもあった為に内心対立心を抱いていた。言わば両者の利害がこの婚姻によって一致したことを肌で感じていた秀高は、氏規に向けて言葉をかけた。
「氏規、此度の婚姻で北条と高家が結ばれた以上は、北条家の宿敵である輝虎討伐も俺にとって重要な物になった。いずれ輝虎との衝突があった時には互いに力を合わせていこう。」
「ははっ。元よりこの北条氏規、並びに北条家一門や家臣一同。上杉輝虎との戦いの際には今まで以上の力を発揮して見せまする。」
この氏規の言葉の後に綱成や綱高も氏規同様、秀高に向けて頭を下げた。それを秀高と同じ上座で見ていた玲や静姫は黙してその様子を見つめ、秀高は自身の方を振り向いた春姫の視線を受けながらその場で首を縦に振って頷いた。その後、婚礼の席は滞りなく終わり、参列した者達は城から下がっていった。その中で秀高は新婚となった春姫と共に寝所に戻り、正室として春姫との初夜に臨んだのである。
「殿、此度はこのような婚礼の席を設けてくださり、感謝申し上げます。」
寝所に入って互いに向き合っていた秀高と春姫、その中で春姫は秀高に頭を下げながら感謝の意を伝えた。すると秀高はその挨拶に首を縦に振り、頭を上げた春姫の顔を見つめながら言葉を返した。
「春、思えば氏真と離縁して数年、ずっと側室として俺の家族を間近で見て来てくれたな。」
「はい。ですが殿、私は殿の家族を見守っていたこの数年、私の心の中のどこかに寂しさがありました。」
「寂しさ?」
春姫のこの単語を聞いて秀高がオウム返しをするように問い返すと、春姫はその問いかけに首を縦に振って頷き、自身の心の中に残っていたある感情を吐露するように語った。
「私は心の底では離縁した氏真様の事を慕っていました。ですが、よんどころない事情によって離縁せざるを得ず、殿の側室となってから子供たちの世話をしている間に、もし違う世界があったのなら氏真様との間に子供を成し、その子たちと健やかに過ごしていたのではないかと。」
「春…」
秀高はこの春姫の吐露を聞いてある事を思い出した。それはこの婚礼の席に参列していなかった小高信頼から以前、氏真と春姫との間に子供が生まれ、戦国時代の終わりまで夫婦仲睦まじく過ごしたということであった。これを聞いていた秀高にとって春姫の心の中のわだかまりが手に取るように分かるようであった。そんな秀高へ心情を吐露した春姫であったが、俯いていた視線を上に向け、目の前の秀高と視線を合わせて自身の決意を語った。
「しかしその氏真様が殿へ私を正室にするように頼み、晴れて殿の正室となった今、私は殿との間に子供を成し、氏真様の元で成せなかった幸せな生活を成し遂げたいと思います。」
「そうか…ならば春、気持ちは固まったんだな?」
春姫の決意を聞いた秀高は寝所にて互いに向き合いながら、春姫の両肩に手を掛けて気持ちを問うた。すると春姫は両肩に手を掛けた秀高の顔をじっと見つめながら真っ直ぐに答えた。
「はい。この心も身体も、殿にお捧げ致します。」
「そうか。分かった。」
春姫の決意を聞いた秀高は春姫と口づけを交わすと、そのまま布団へと春姫の身体を押し倒した後に交わった。そして秀高は春姫と一夜を過ごし、夫婦としての初夜であるこの時間を大切に過ごしたのであった…。