1569年4月 氏真の願い
康徳三年(1569年)四月 三河国大樹寺
大樹寺の本堂にて顔を合わせた高秀高と今川氏真。両者はまるで互いに火花を散らすように黙ってじっと見つめていた。その中で口を開いたのは秀高の事を父・今川義元の仇敵として憎んでいた氏真であった。
「…よもやこうして顔を合わせて対面する事となろうとはな。」
「はい。私もこうなるとは夢にも思っておりませんでした。きっと今川殿や背後に控える面々には、私に対するわだかまりは少なからずあると思います。」
「…」
氏真の言葉に続いて重い口を開いた秀高は、氏真の背後にいた寿桂尼や朝比奈泰朝を見つめながら言葉を氏真に返した。そんな秀高の言葉を寿桂尼は冷ややかな視線で見つめ、その視線を受けながらも秀高は氏真に向けて言葉を続けた。
「ですが、家康殿もきっと氏真殿に言われたとは思いますが、今回の駿河制圧は幕命による物。決して我らが私心による物ではありません。」
「…秀高!」
と、遂に秀高の言葉に堪忍ならなかったのか寿桂尼が堰を切ったように怒りを露わにし、氏真の背後で秀高を指差しながら詰り飛ばすように語気を荒げた。
「よくも我が子・義元を殺しておきながらその様な綺麗事を言えるものよのう!我らから駿河を奪った挙句にぬけぬけと…もし叶うのであれば貴様をここで殺してやりたい…!」
「おばあ様!およしなされ!」
寿桂尼の言葉を聞いて氏真が振り向いた時、寿桂尼が胸元の懐刀に手を伸ばしているのを見て氏真が制すように声を掛けると、氏真は目の前で相対していた秀高を見つめながら私心を押し殺すように寿桂尼へ言葉をかけた。
「…全てはこの私に国主としての器量が無かっただけの事。ここで見苦しい真似をすればそれこそ今川家の沽券に関わりましょう。」
「氏真…くっ!」
寿桂尼にとっては孫でもある氏真の言葉を受けて、寿桂尼はようやく懐刀から手を放して無念を滲ませながらその場に座りなおした。この様子を見つめた後に秀高の方を振り向いた氏真は、自身の中にある復讐心を押さえつけるかのように秀高へ頭を下げ、秀高の顔をじっと見つめながら言葉を発した。
「…秀高殿、確かにこの私にも腹に据えかねる物はありまする。されど今や秀高殿は幕府の重臣。それに引き換え私は国主を追われた身。己が分はわきまえておるつもりにございまする。」
「そうか…ならば俺も言葉に気を付けるとしよう。」
この氏真の返答を聞いた秀高は己の失言を恥じるように反応し、そのまま口を閉じて視線を自身の隣に座していた徳川家康に向けた。すると家康は首を縦に振った後に目の前の氏真の方を振り向き、京より伝えられた氏真らの処遇を伝えた。
「氏真殿、貴殿らの身柄を幕府に諮ったところ、幕府は貴殿に剃髪の上仏門に入るべしとの事にございまする。」
「仏門、か。」
京…即ち幕府が下した処遇は氏真の剃髪。つまり出家して俗世より離れよという物であった。足利尊氏の幕府草創期から足利一門として貢献した今川氏に対する処置としては厳しい物であったが、幕府が制定した康徳法令に違反した者への処罰の基準となる最初の処罰であった為に秀高はその裁定に幕府の苦悩が見え隠れするような印象を受けた。
「殿…無念にございまする!」
「いいのだ泰朝。これまで今川家に忠義を尽くしてくれたこと、心より感謝する。」
「氏真…」
氏真への裁定を聞いて誰よりも悔しがった泰朝に向けて氏真が返事を返すと、今まで秀高に怒りを露わにしていた寿桂尼も氏真の姿を見つめて哀れむような表情を浮かべた。すると氏真は秀高の方を振り向くと、秀高の背後にいた元妻・春姫に視線を向けながら秀高に頼み込んだ。
「秀高殿、この氏真よりお願いの儀がございまする。聞けばそこにいる元の妻…春は秀高殿の側室であるとか。何卒秀高殿の正室へ格上げをお願い申し上げまする。」
「何、春を?」
氏真は自身が春姫を離縁して以降、春姫が秀高の家で側室に迎えられていることを風の噂で知っていた。他の秀高の奥方はみな正室待遇で迎えられているという事を知っていた氏真は秀高に向けて春姫を正室として扱うように頼み込んだのである。この頼みを聞いて誰よりも驚いていた春姫に氏真はその場で久しぶりに会話を交わした。
「私はそなたの事を結果的に見捨て、同時に大きな不幸を与えてしまった。私が仏門に入ればきっとこうして相まみえる事も無くなるだろう。その前に側室に留まっているそなたの今後を思って提案させて貰った。」
「氏真様…」
「これはこの私の身勝手な振舞いへのけじめでもある。許してくれ、春。」
春姫に向けて深々と頭を下げた氏真の姿を見て、春姫は氏真の覚悟を感じ取ったのか氏真へ返答を告げた。
「…分かりました。氏真様、その申し出を受けたく存じます。」
「そうか…ありがとう、春。」
春姫の返答を聞いた氏真は頭を上げると安堵の表情を浮かべるように微笑んだ。そんな二人の様子を見つめていた秀高は黙って首を縦に振ると、自身の背後に控えていた玲や静姫の方を振り向きながら春姫に話しかけた。
「分かった。春がそのつもりならば、お前を今後は正室の一人として扱う。玲、それに静姫もそのつもりでいてくれ。」
「うん。春様…いや、春さん。私たちで秀高くんを支えましょう。」
「はい、ありがとうございます。」
春姫に向けて玲が言葉をかけると、春姫は返事を玲や静姫に向けて返した。すると氏真は秀高の方に姿勢を向けると、両手をついて秀高に言葉をかけた。
「秀高殿、もはやこうなっては私にわだかまりはありませぬ。これからは陰で秀高殿の武運長久をお祈りいたします。」
「…ありがとう氏真。お前の想いはこの俺が受け取った。」
「ははっ。」
氏真の踏ん切りをつけた表情を受けた秀高は、氏真の顔をまっすぐ見つめながら言葉を氏真に返した。その後両者は和解するように握手を交わし、この時になってようやく寿桂尼も憎しみが融解したのかただ黙って瞳を閉じたのだった。この後、氏真は寿桂尼と共に仏門に入るべく京へと送られ、唯一氏真に従っていた泰朝は氏真の仲介で徳川家に仕官する事になったのだった。ここに今川家は戦国乱世から完全にその姿を消す事となったのである。
「春…氏真に会ってみてどうだった?」
氏真との対面を終えた後、家康と別れて大樹寺の山門をくぐった秀高が春姫の方を振り向いて感想を聞いてみると、春姫は後ろ髪を引かれるように山門から本堂の方角を振り向き、氏真の姿を思い出しながら秀高に感想を伝えた。
「…私が氏真様の元を去った頃と姿は何一つ変わっていませんでした。ですがこれは私の推測ですけれど…氏真様はきっと気疲れしていたのだろうと思います。」
「気疲れ?」
春姫の言葉を聞いて玲がその単語に引っ掛かって問い返すと、春姫は玲の問いかけに首を縦に振ってそのまま言葉を続けた。
「殿に二度の大敗を受けて以降、今川家は重臣や国衆の大半を失って領国経営に支障をきたしていたと聞きます。氏真様もここ数年の間は何とか領国経営に腐心していたそうですが、此度の駿河接収を受けて何とかつないでいた心の糸が切れてしまったのではないかと…。」
「そうねぇ…氏真からすれば此度の駿河接収で、今までの努力が水の泡になったんだから、それは気疲れしていてもしょうがないわよ。」
春姫が玲と静姫の方を向いて会話を交わしているのを、秀高はただ前を向いて山門から見える岡崎城の遠景をじっと見つめていた。そして秀高は前を見つめながら春姫の会話を聞いた上で口を開いた。
「…氏真はきっと本心では未だ納得しきれていないだろうな。」
「あら?駿河接収は上杉輝虎に対抗するため、じゃなかったかしら?」
秀高の言葉を聞いて静姫が茶化すように言葉をかけると、秀高は背中を向けながら言葉をかけてきた静姫に即座に言葉を返した。
「分かってるさ。だが今まで仇敵と思ってきた俺にああ頼み込んでくるという事は、氏真の心の中ではもう負けを認めたという事だろう。」
「殿…」
秀高の言葉を聞いて春姫が声を掛けると、秀高は徐に春姫の方を振り返り、春姫の顔を見つめながら言葉をかけた。
「春、今後は仏門に入った氏真の分までお前を大切にする。だから春も氏真の分も含めて俺の行く末を見届けてくれ。」
「はい、分かりました。殿。」
この求愛というべき言葉を聞いた春姫は首を縦に振って秀高に返答し、それを聞いていた玲や静姫も新しい家族が加わったことに喜びを露わにしていた。こうして春姫は正式に秀高の第五正室として迎えられ、正式な秀高の後室の一人として扱われるようになったのである。そして同時に春姫の弟でもある北条氏規が準一門として扱われるようになり、秀高の一門はより一層厚みを増したのであった。