1569年4月 大樹寺の邂逅
康徳三年(1569年)四月 三河国大樹寺
それから数日後の翌四月二日、高秀高は三河の徳川家康の元を来訪。正室である玲や静姫、それに春姫を伴って岡崎城下にある徳川家の菩提寺である大樹寺を訪れた。来訪した目的はこの大樹寺に身柄を預けられていた元駿河国主であり今川家当主の今川氏真と面会する為であった。その氏真が待つ大樹寺の本堂へと向かう道すがら、秀高と家康は肩を並べて歩きながら会話を交わした。
「秀高殿、お聞きしましたぞ。越後の一件。」
「あぁ、既に家康殿の耳にも入っていたか。」
大樹寺の本堂へと続く並木道を秀高と家康が会話を交わしていた。その内容というのはやはり秀高が指示した二ヶ月前の春日山騒動の一件であった。春日山留守居の長尾政景を初め数名の上杉家臣を罠に嵌めて葬った秀高の手腕を、家康は秀高と共に歩きながら称賛するように言葉を発した。
「長尾政景を筆頭に河田重親、大熊朝秀、山本寺定長に桃井義孝など…上杉家中の中でも曲者揃いを纏めて消し去るとはお見事にございますな。」
「あぁ。だが一番の戦功は何と言っても、長尾政景に謀反の罪を着せて消し去ることが出来た事だ。聞けば政景の子の長尾顕景が上杉輝虎の養子になっている為に、輝虎は政景に越後本国の留守居を任せたらしい。その政景が謀叛を抱いていたことが明らかになれば、輝虎の治政に少なからぬ打撃を与えた事だろう。」
事実、春日山騒動後に越後に潜伏する伊助から上がってくる報告は越後国内の混乱を示すようなものばかりであった。政景らを粛清した実行犯である河田長親・山吉政久は東北在陣中の輝虎より蟄居謹慎を命じられ、代わりに東北遠征に従軍していた柿崎景家・晴家父子が越後留守居として着任する事になったが、政景粛清の余波は重税にあえぐ越後国民に、より大きな不満を与える結果になったのである。
「…本当は政景や朝秀など、内心輝虎に一物ある者達は粛清に追い込まずに味方にしたかったんだが、越後には織田信隆がいる。自身の国を俺の調略で追われたあの女の事だ。きっと未然に防ぐと踏んであえて粛清に追い込んだんだ。」
「なるほど…秀高殿の視線は既に越後に向いているようですな。」
秀高は背後に玲たち正室を連れながら並木道に生えている木々を見つめ、自身の考えを家康に伝えた。そんな秀高に家康がふっとほくそ笑んだ後に言葉を返すと、秀高は家康の方を振り向き頷いて答えた。
「その通りだ。いずれ古き慣習を好む輝虎と俺たちは必ず敵対する。そうなった場合に備えて少しでも力を削いでおけば、いずれ役に立つ時が来るだろう。」
「左様ですな。」
そう家康が相槌を打った後に秀高は並木道の途中で足を止め、それまでの話題を切り替えて数ヶ月前に徳川家に赴いたある人物について尋ねた。
「…そう言えば、こちらから派遣した影武者…元信たちの働きはどうだ?」
「それはもう見事な物にござる。特に先の駿河経略の際には敵将を打つなど抜群の戦功を立てましてございまする。」
秀高の元を離れ本多正信と共に家康の影武者として徳川家に赴いた世良田二郎三郎元信の事について当の家康は感嘆するように言葉を発した。家康より元信の活躍を聞いた秀高は我が事のように喜び、微笑みながら相槌を家康に返した。
「そうか、お役に立てているようで何よりだ。」
「はっ。かの者の働きを受けて我が家中もその実力を認める者も多く、彼らの協力があれば影武者としての役目もつつがなくこなせましょう。」
「ふっ、さすがは世良田二郎三郎、といったところだな。」
「如何にも。」
秀高の言葉に家康がほくそ笑みながら頷くと、秀高と家康は再び並木道を歩き始めた。するとその道すがら家康が秀高の背後にいた春姫に話しかけた。
「そう言えば、春姫様はこれから会われる氏真殿とは久しぶりに会われるのではありませぬか?」
「…えぇ。」
秀高の背後を歩く氏真の元妻・春姫がやや俯きながら相槌を打つと、家康はそんな春姫を機にかけるように言葉を続けた。
「ご案じなさいますな。氏真殿は春姫様が別れた際の御姿と何ら変わりはありませぬ。唯一あの時と比べて変わったのは御立場だけですが。」
「そうですね…」
「春姫様、氏真さんに会うのは少し不安ですか?」
氏真と久々に顔を合わせる前に少し緊張した面持ちの春姫を気遣うように玲が話しかけると、春姫はそんな玲の気遣いに答えた。
「いえ、元より別れを告げた以上は踏ん切りは付いています。ただ…」
「ただ?」
春姫が言葉を言い淀んだのを玲が尋ね返すと、春姫は前を歩く秀高に視線を向けながら懸念事項を口に出した。
「氏真様や寿桂尼様は殿の事を仇敵と憎んでいるはずです。その様な間柄である二人が顔を合わせれば、どんな事態になるか分からないと思いまして。」
「案ずるな春。氏真もきっと己が分をわきまえているはずだ。そんな斬り合いに発展はしないさ。」
「ですが…」
春姫の懸念を聞いて秀高が笑い飛ばすように言葉を返すと、なおも言葉をかけようとした春姫に向けて秀高が前を向きながら春姫に言葉を返した。
「…それにどれだけ相手から恨まれようと、俺は氏真に会う必要がある。幕府の重臣として、そして氏真の父を討った者としてな。」
この言葉を、秀高の傍らで聞いていた家康はただ黙って首を縦に振った。そんな後姿を見つめていた春姫に向けて静姫が言葉をかけた。
「大丈夫よ。言わば敵地で仇敵に刀を抜こうとするほど氏真も愚かじゃないわ。春、貴女もそんな心配をしないで氏真と胸を張って会えばいいわ。」
「…はい。そうですね。」
静姫の言葉を受けた春姫は懸念が解消されたかのように表情を明るくして頷き、そのまま秀高に付いて大樹寺の本堂へと向かって行った。やがて徳川家の家紋である「三つ葉葵」の旗指物を差す足軽たちが囲うように配置されている大樹寺の本堂に秀高は家康らと共に足を踏み入れると、住職の登誉天室の案内の元本堂の中に通されたのだった…。
「…お初にお目にかかる。高左近衛権中将秀高である。」
「…今川氏真にございまする。」
大樹寺の本堂に二人の男の挨拶が響いた。一人は秀高でありもう一人は氏真その人であった。家康や玲たちを背後に座らせていた秀高にとって初めて顔を見合わせて対面する氏真はともかく、かつて水野信元死後に駿河・今川館で裁定が行われた際に今川義元の隣に座していた寿桂尼や、寿桂尼と共に氏真の背後に座していた朝比奈泰朝と久しぶりに顔を合わせた。言わば今まで敵対していた者同士でもあり、同時に今川家の面々にとっては先代・義元の仇敵でもあったことで大樹寺の本堂の中には二人の挨拶の後、しばしの間張り詰めた空気が流れたのである。