1568年12月 首魁処分
康徳二年(1568年)十二月 山城国京
それから数日後の十二月十八日、浦上宗景が籠る天神山城が落城し宗景が自害したことによって康徳播但擾乱は終息。そして十二月二十二日のこの日、京の将軍御所において此度の内乱を引き起こした赤松政秀・山名棟豊ら反乱の徒党を引っ立てて将軍隣席の裁定が行われる事となった。この席には高秀高に加え実際の指揮を執った大高義秀も参列。政秀・棟豊らへの裁定をその場で見る事となった。
「赤松下野守政秀、並びに山名棟豊。その方ら何者かの煽動に応じて主家へ反旗を翻し、徒党を組んで国内を混乱に陥らせた罪は重い。何か申し開きがあれば言うてみよ。」
この裁きの席において上座に座す将軍・足利義輝がまず最初に裁き始めたのは、赤松義祐に反旗を翻し宗家乗っ取りを画策した赤松政秀であった。政秀は背後に投降した家臣の矢田部兵庫や衛藤忠家、それに幼年の赤松広秀を控えさせながらも将軍から意見を求められると、その場の空気に気圧されながら震える口調で回答を述べた。
「…お、畏れながら申し上げまする!この赤松政秀、決して幕府に対して反旗を翻したのではありませぬ!凡庸な義祐を宗家当主の座から降ろし、我が赤松家の当主にならんとしたまでの事!それによって幕府に弓を引くなどゆめゆめ思ったことはありませぬ!」
「畏れながら政秀殿、政秀殿の所業は先に我ら幕府が制定した法令の「徒党を組みて謀叛に及ぶ事」に抵触しておる。政秀殿の所領は一万石を越えて大名と呼ぶにふさわしいもの。それが徒党を組んで謀叛を起こせばどのような事情があろうとも認めるわけには参らぬ。」
そんな政秀に秀高と共に反乱鎮圧の大将に命ぜられた畠山輝長が険しい表情を見せながら詰問すると、その詰問を受けた政秀は輝長の方を振り返って反論した。
「さ、されど播磨は諸豪族入り乱れる国にございまする!別所や小寺を統率する為にも、強力な力を持つものが赤松宗家として君臨するのが筋というものにござる!」
「…政秀殿。聞けば政秀殿の龍野赤松家は御父君の赤松村秀殿の代から赤松宗家に従順な姿勢を取っていたはず。それが諸事情によって義祐殿と対立し仲は拗れていたと聞きます。宗家を継ぐというよりは、宗家を滅ぼして自らが播磨の主になろうとしていたのではありませんか?」
「そ、それは…」
秀高は稲生衆や小高信頼からの情報を参考に政秀と義祐の関係が冷え切っていたことを指摘し、それによって反乱を起こしたのではないかと政秀を問いただすと政秀はそれに言い淀んでしまった。
「もしそれが真であるならば、そなたは己が野心を露わにして大義名分を騙って謀反に及んだことになる。その罪は重い。よって沙汰を言い渡す!」
そのたどたどしい政秀のやり取りを聞いていた義輝は政秀の叛心が明らかなのを感じ取ると、上座から政秀や一族郎党に向けて裁きを申し渡した。
「赤松政秀、並びに嫡子の赤松広秀両名に切腹を申しつける!またこれに従った一族郎党もこれに連座とし、打ち首獄門に処す!引っ立てい!」
「ははっ!」
「上様、何卒お考え直しを!上様!!」
その裁きを受けた政秀は義輝に対して食い下がるように意見を述べようとしたが、武者たちに両脇を抱えられて大広間から連れ出されていった。そして広秀や忠家ら政秀の一族郎党も皆どこへなりとも引っ立てられて行き、その日の内に六条河原にて斬首に処されたのだった。享年四十八歳…。
「さて、山名棟豊。そなた何が不満で実父・祐豊殿に謀叛を起こした?」
「…謀反に及んだのはただ一つ。実家に居場所が無かっただけの事にござる。」
と、政秀が連れ出された後に義輝がもう一人の反乱の首魁である棟豊に意見を問いかけ、それに棟豊が背後に垣屋続成・垣屋豊続らを控えさせる中で発した言葉を聞いた義秀は、すぐ隣に座していた小高信頼向けてその発言の内容について尋ねた。
「…なぁ、今の言葉どういう事だ?」
「棟豊は元々、祐豊殿の嫡子だったんだが因幡山名家の当主である叔父の山名豊定殿が病に倒れた際に、因幡に赴いて因幡山名家に入嗣したんだ。だけど豊定殿の病が快癒した後に家督を実子の豊数に継がせると家督継承を取り消され、但馬に帰ったんだけど嫡子の座は弟の氏煕が収まっていて実家にも居場所が無くなっていたんだよ。」
「…なるほど、それは可哀そうだな。」
棟豊の身の上話を聞いて少し哀れそうに言葉をつぶやくと、それを脇で聞いていた義輝は目の前の下座に座していた棟豊に向けて再び険しい表情を見せながら尋ねた。
「…で、その哀しさを晴らすために煽動に乗っかり、実父に謀叛を起こした訳か。」
「如何にも。」
先ほどの政秀とは違い、しっかりとした口調で義輝の問いかけに答えると、この凛々しい態度を見た義輝は脇に控えていた輝長へ話を振った。
「ふむ…輝長、この事についてはどう思う?」
「はっ、棟豊が一件に関しては山名家の複雑な事情による謀叛と考えて宜しいでしょう。その原因の一端として山名祐豊公、並びに弟の豊定公の誤った処置があると心得まする。」
「なるほど。相分かった。ならば仕置きを言い渡す。」
この輝長の意見を聞いた義輝は、改めて棟豊やその背後に控える垣屋一族に向けて仕置きを言い渡した。
「山名棟豊、本来ならば死罪を申しつけるところを死一等を減じ京にて仏門に入り世俗から離れる事を命ずる。されど棟豊に同調した家臣には赤松家郎党同様、打ち首獄門を言い渡す。」
「な…上様!もはやこの世に思い残すことはありませぬ!何卒某にも死を!」
と、自身への仕置きを聞いた棟豊は義輝に対し、自らも死を賜りたいという要望を伝えた。すると義輝はそんな棟豊の申し出を聞くと、彼を諭すようにこう言葉をかけた。
「棟豊、そなたについては実父の祐豊、並びに但馬山名家の監視下に入った豊定から助命の嘆願を受けたのだ。祐豊も豊定も、そなたの仕打ちには思う所があったのであろう。」
「な、なんと…」
実はこの時、棟豊の実父である山名祐豊やそもそもの原因の一人であった山名豊定兄弟が、棟豊の死一等を減ずるよう将軍・義輝へ嘆願していたのだった。その神妙な嘆願を聞いた義輝は棟豊の打ち首を取り消したのである。
「豊定はともかく、実父からの嘆願を無碍にするものではない。今後は仏門に帰依して己が罪を問い続け、同時に山名家の家名存続を祈るが良かろう。分かったな?」
「…ははっ。」
義輝より父・祐豊らの気持ちを伝えられた棟豊はその仕置に従う意思を示すように、返事を発した後に義輝へ深く頭を下げて一礼した。それを背後で垣屋一族が黙って見つめていると、義輝は首を縦に振って頷いた後に言葉を発した。
「うむ、ならば棟豊に従った者どもには打ち首獄門を言い渡す。引っ立てよ!」
「ははっ!」
この義輝の下知を受けた武士たちは棟豊の背後にいた垣屋一族を引っ立てていき、政秀ら一族郎党が打ち首にされた後に同じ六条河原で打ち首に処した。その一方で棟豊は死一等を許され剃髪して出家。これら棟豊・政秀らの仕置きを終えた義輝は実際的な反乱鎮圧に貢献した秀高へ労うように言葉をかけた。
「秀高よ、此度の内乱鎮圧見事であった。今年の内にすべての内乱を鎮圧したのは正に見事という他無かろう。」
「ありがたきお言葉にございます。上様、ついては預けられた佩刀の「鬼丸国綱」、是非とも返還したく存じます。」
そう言って秀高は自身の側に置いていた鬼丸国綱を手に持って返還を申し出ると、義輝は手にしていた扇をひらひらと振って言葉を秀高に返した。
「いや、それはそなたに下賜する。此度の内乱鎮圧の戦功として貰っておくが良い。」
「な、なんと…」
この太っ腹のような義輝の言葉を受けた秀高は、手にしていた鬼丸国綱が自分の佩刀になる事を半ば信じられないようにじっと見つめた後、言葉をかけてきた義輝へ頭を下げるとお礼を述べた。
「ははっ、この高左近衛権中将秀高、謹んで鬼丸国綱を拝領いたします。」
「うむ、それほどの名刀ならば持つにふさわしかろう。秀高よ、今後の働きを期待するぞ。」
「ははっ!!」
こうして秀高は今回の反乱鎮圧の功績を評価されるように義輝の佩刀・鬼丸国綱が下賜され、また実際の戦場に立って指揮を振るった義秀には同じ将軍家の所有である名刀「大典太光世」が下賜された。こうして「天下五剣」のうち二つが秀高らの所有物となり、その名刀の噂と共に秀高の威信は徐々に上がり始めるのだった。