表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
377/556

1568年12月 康徳播但擾乱・後編 素早い幕引き



康徳二年(1568年)十二月 因幡国(いなばのくに)若桜鬼ヶ城(わかさおにがじょう)




 十二月十日。ここ若桜鬼ヶ城には滅亡した尼子(あまご)の残党が元の城主・矢部氏(やべし)を追い払って根付いていた。その若桜鬼ヶ城は今、隣国但馬国(たじまのくに)からやって来た深川高則(ふかがわたかのり)の軍勢一万に包囲されていた。


「殿、あれが幕府の中で辣腕(らつわん)を振るう高秀高(こうのひでたか)殿が軍勢にございまする。」


「あれが…」


 鶴尾山(つるおやま)山頂に設けられている若桜鬼ヶ城の本丸にある物見櫓から、鶴尾山の山麓に控える深川軍一万の軍容を見下ろしながら尼子残党軍における主将の一人である山中鹿之助幸盛やまなかしかのすけゆきもりが尼子残党軍の大将・尼子勝久(あまごかつひさ)に語り掛けていた。この尼子勝久、毛利元就(もうりもとなり)に降伏した尼子宗家の当主・尼子義久(あまごよしひさ)から見てはとこに当たる人物であり、毛利家に幽閉されていた義久に代わって尼子家再興の旗印に担ぎ上げられていた。


「既にかの軍勢は播磨(はりま)や但馬で起きた叛乱を鎮圧したとの事。その軍勢の強さ尋常ではなく山城であろうとものの一日で陥落せしめたとの由。」


(まこと)か…」


 その尼子残党軍の大将である勝久は物見櫓から山麓の深川軍を見下ろしながら、幸盛の報告に耳を傾けていた。するとそんな勝久に対して尼子残党軍の主将でもあった立原久綱(たちばらひさつな)が勝久に向けて進言した。


「殿、もし降伏するのであれば毛利ではなく幕府に降るべきかと存じまする。それに加えて秀高殿の家中には信州(しんしゅう)真田(さなだ)の一族郎党が身を寄せているとの噂。我らの事情を話せばきっと快く迎えてくださる事でしょう。」


「しかし…毛利と幕府は密約を交わしたとの事であろう?そう簡単にあの元就が我らを見逃すであろうか…」


 と、この尼子残党軍に加わっていた元尼子家重臣・河副久盛(かわぞえひさもり)が久綱に向けて懸念を表明すると、それを聞いた久綱は問いかけて来た久盛の方に顔を向けて懸念を払拭させるように言葉を返した。


「ご案じなく。出雲(いずも)への帰還と尼子家再興はいつの日か成就する事でしょう。それまでは何としても我らの意志と血を残す必要があるのです。」


「如何にも。ここは素早い判断が必要ですぞ。」


「うむ…確かにこのまま戦っても勝ち目は無いな。」


 久綱の意見に賛同するように元尼子家臣の秋上久家(あきあげひさいえ)が発言すると、それらの意見に耳を傾けていた勝久は幕府軍と戦う愚を悟り、すぐさま物見櫓の中にいた幸盛ら武将たちに向けてこう告げた。


「よし、ならばすぐにでも開城の意思を城外の軍勢に伝えるとしよう。久綱、そのこと良しなに頼むぞ。」


「ははっ。」


 この勝久の意向を受けた久綱は直ぐにも山麓の深川軍に使者として赴き、城の開城並びに降伏を願い出る旨を表明した。これを受けた高則はその申し出を受け入れると無血で若桜鬼ヶ城を接収。同時に尼子残党軍に加わる諸将、並びに対象の勝久の身柄を確保する事に成功したのである。




 やがてその日の夜、若桜鬼ヶ城の本丸館にて高則と勝久ら尼子残党軍の面々は改めて顔を見合わせて面会し、高則は真向かいの床几(しょうぎ)に腰かけている勝久へ自身の名を名乗って挨拶をした。


「高秀高が家臣、深川高則にござる。勝久殿、良きご判断をして下さり感謝申し上げる。」


「いえ…我らも新進気鋭の幕府軍、ひいては高家の軍勢と戦っても勝ち目は薄いと思っておりました故、ならば素早く開城した方が宜しいかと思いまして。」


「はっはっはっ、いや、殊勝な御心がけにござる。」


 勝久の言葉を受けて高則が高らかに笑いながら返事を返すと、高則は背後にいた自身の弟・深川助松高晴ふかがわすけまつたかはるに目配せをした。するとその目配せを受けた高晴は兄の高則へ一通の書状を手渡すと、それを受け取った高晴は勝久の方を振り向いてこう発言した。


「勝久殿、これは此度の幕府軍の指揮を執る大高義秀(だいこうよしひで)殿、並びに我が殿の連名による書状にござる。」


「拝見仕る。」


 高則が手にしていたのは、尼子勝久並びに尼子残党軍への高秀高(こうのひでたか)、並びに幕府軍の総指揮を執る義秀の連名が書かれた尼子残党軍の処遇が記された書状であった。勝久はその場で書状を受け取ると封を解いて中身を見た。そこに書かれていた内容は以下の通りである。




一つ、尼子勝久は客将ではあるが朝廷に奏請し、紀伊守(きいのかみ)に任官させる。


一つ、尼子勝久を新規に築城する近江坂本(おうみさかもと)の城主として迎える。


一つ、尼子勝久の家臣についても全て当家にて庇護し然るべき禄を与える。


一つ、尼子勝久並びにその郎党に関しては、当方にての不都合無きを約束する。




 この書状に書かれていた内容…即ち紀伊守の官職は勝久の祖父・尼子国久(あまごくにひさ)受領名(ずりょうめい)として用いていた非公式の官位であり、それを秀高は勝久を迎え入れる褒美として正式に紀伊守の官位を与えると通告していた。この破格の条件ともいうべき内容を見た勝久は目の前の高則の方に視線を向けて信じられない面持ちで問うた。


「これは…ここまでの条件を提示して下さると?」


「うむ。既に当家では真田幸綱(さなだゆきつな)殿を城主に据えておる。それに近江坂本の地は比叡山(ひえいざん)の影響が根強い地。これらの影響を取り除く為に築城される坂本城(さかもとじょう)の城主に是非ともと殿は仰せられておる。」


 この高則が語った近江坂本の築城は、延暦寺(えんりゃくじ)焼失後に坂本に根付く延暦寺の衆徒を監視、並びに制圧する目的があり、その坂本城の城主に勝久を宛がうというのだ。先の官位叙任の一件もあり秀高の本心を知った勝久は、目の前の高則に向けて尼子残党軍を代表して答えた。


「ならばこちらも断るわけには参りますまい。この尼子勝久、喜んで秀高殿の御世話になりましょう。」


「そうか。そう言ってくれるとここまで来た甲斐があるわ。はっはっはっ…」


 この返答を受けた高則は満足そうに高笑いした後、床几から立ち上がって目の前の勝久と固い握手を交わしたのであった。ここに尼子勝久率いる尼子残党軍は幕府…高家の客将として迎えられることとなり、尼子残党軍は深川軍と共に若桜鬼ヶ城を破却。その足で京へと帰還していった…。




「何…尼子の残党が幕府に庇護されただと!?」


「はっ!その旨既に早馬を通じて報せが参りました!」


 尼子残党軍、幕府軍に降る。この一報は翌十一日午前に鳥取城(とっとりじょう)を包囲する吉川元春(きっかわもとはる)の陣中に届けられた。毛利としてみれば尼子残党軍の受け渡しを口約束で交わしたものの、本心としては尼子家の残党を根絶やしにしたいという野心を隠していた。その目標である尼子残党軍が幕府軍に降伏したという一報を受けて立ち上がっていた元春は、座っていた床几を蹴飛ばして怒りを露わにした。


「おのれ…尼子の残党を見逃すことになろうとは!!」


「元春殿、しかも世鬼衆(せきしゅう)の報告によれば尼子勝久は秀高より官職を受け、近江坂本の城主に迎えられるとの事にござる。」


「何っ!?」


 と、昨日の会話を盗み聞きしていた世鬼衆の報告を熊谷信直(くまがいのぶなお)より知らされた元春は信直の方を振り返って大いに驚いた。この公然と毛利家を挑発するような報告を(かたわ)らで聞き入っていた毛利家臣・口羽通良(くちばみちよし)が元春に向けて言葉を発した。


「そこまで尼子の残党を厚遇されては、こちらが引き渡せと申す事も容易にできなくなりましたな。」


「くっ…高秀高、我ら毛利を何と心得るのか!!」


「元春殿!因幡国境に神余高政(かなまりたかまさ)の軍勢が現れたとの事!早馬によれば神余勢は、先に降伏させた因幡山名家(いなばやまなけ)一門の身柄を要求しておりまする!」


「…くそっ!」


 天野隆重(あまのたかしげ)が陣幕を潜って元春に早馬からの報告を伝えた。この時に布勢天神山城ふせてんじんやまじょうを攻略して降伏させていた山名豊国(やまなとよくに)、並びに父の山名豊定(やまなとよさだ)因幡山名家(いなばやまなけ)の一門は幕府軍に引き渡される約束であった為、元春はその報告を背中で受け止めながらそのまま言葉を隆重に返した。


「…やむを得ん。幕府に歯向かう事は出来ぬ。隆重、降伏した因幡山名家の一族郎党、神余勢に引き渡してやれ。」


「ははっ!!」


 この下知を受けた隆重は返事を返すとすぐさま陣幕を潜って去っていった。すると元春は振り返って信直と顔を見合わせると、視線を武田高信(たけだたかのぶ)が籠る鳥取城に向けながら言葉を信直にかけた。


「…信直殿、このわしの腹の虫は全く収まらぬ。ここは目の前の鳥取城、強攻で攻め落としてくれようぞ。」


「うむ。武田高信に関しては何も言ってはおらぬからな。このわしも同心致す。」


「よし!ならば吉川全軍はこれより鳥取城を攻める!出陣だ!」


「おぉーっ!!」


 今までの怒りをぶつけるように発せられたこの元春の下知を受けて、従軍していた足軽や武士たちは喊声を上げて応えた。こうして因幡山名家の一族郎党は因幡・但馬(たじま)国境にて神余軍に引き渡されはしたが、後手後手となった吉川軍は今までの憂さ晴らしとばかりに鳥取城を強攻。城将・武田高信ほか一族郎党三千名を(ことごと)く撫で斬りにした。


 この鳥取城の落城から数日後の十八日、小早川隆景(こばやかわたかかげ)宇喜多直家(うきたなおいえ)連合軍によって備前天神山城びぜんてんじんやまじょうが陥落。浦上宗景(うらがみむねかげ)以下城兵二千名は城を枕に討死して果てた。これより数日前の九日に美作(みまさか)高田城(たかだじょう)も落城した事により、播磨(はりま)・但馬の内乱を契機に勃発した康徳播但擾乱こうとくばんたんじょうらんはものの数ヶ月で素早い幕引きを迎えたのである…。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ