1568年12月 康徳播但擾乱・後編 焦る毛利陣中
康徳二年(1568年)十二月 備前国岡山城
康徳二年十二月二日。ここは浦上宗景に反旗を翻した宇喜多直家が居城・岡山城である。ここは直家の謀反を裏で煽動した毛利家一門・小早川隆景が本陣を置いており、備前や美作各地への侵攻の拠点となっていた。その岡山城に、播磨の大高義秀ら幕府軍の戦況の詳細が届けられていたのである。
「まさか…こんな短期間に赤松の内乱を抑えたと?」
岡山城本丸・本丸館の中の広間に設けられた毛利・宇喜多本陣の中にて、山陽方面の総大将を務める隆景が世鬼衆の頭目・世鬼政時が持参した播磨での戦況を記した書状を広げながら衝撃を受けていた。そんな隆景に対して政時は報告を続けた。
「はっ。既に首魁・赤松政秀と嫡子広秀、並びにその郎党は京に護送され、幕府軍の主力たる大高勢は昨日には但馬に転進したとの由。」
「どうやら、幕府軍の力を見誤っておったようですな。」
と、同じ本陣の中にて床几に腰を下ろすこの城の主・直家が報告を聞いてそう発言すると、政時は疑似的に同じ共同戦線を張っている高秀高が配下の忍び衆・稲生衆の中村一政を通じて手渡された一通の書状を懐から出し、それを隆景に差し出してからこう発言した。
「…隆景さま、その幕府軍の大将である大高義秀殿より書状を受け取っておりまする。」
「書状?見せてみよ。」
隆景は政時から指し出された書状を受け取るとその場にて封を解き、中に入っていた書状を広げて中身に目を通した。その書状には次のような事が書かれていた。
【小早川隆景殿、今回勃発した播磨・並びに但馬方面の反乱鎮圧にあたる幕府軍の大将・大高兵庫頭義秀である。既に我ら幕府軍は僅か数週間の間に赤松義祐殿に反旗を翻した逆賊・赤松政秀とその郎党を降伏させた。これを聞けば備前の浦上宗景はさぞ肝をつぶす事だろう。そこでこちらも備前方面を援護するべく別所安治・小寺職隆ら我らに同心する播磨諸将の軍勢を差し向ける。隆景殿においてはこの軍勢を活用し、迅速な浦上征伐を行われるように願う。 大高兵庫頭義秀】
「これは…浦上征伐を督促する書状ではないか。」
義秀からの書状の中身を確認した隆景は、そう言うと同時に城主の直家に書状を手渡しした。その書状を一目見た直家は少し怪訝な表情を浮かべて隆景にこう告げた。
「ほう…これを受けて黙っている訳にもいかなくなりましたなぁ。」
「隆景殿、その書状の内容が既に通達されたのか、佐用郡の高倉山城攻めを行っていた別所・小寺の軍勢が備前国境を越えたとの事にございます。」
「何?」
政時が自身の手下の忍びたちより報告を受けた事象を隆景に伝えた。事実この頃、播磨の反乱を平定した別所・小寺の軍勢は前日に義秀の早馬を受けこの備前へと進軍していたのである。この状況を同じ本陣の中で聞いていた毛利家臣で隆景の副将を務める福原貞俊が隆景に向けて自身の憶測を語った。
「と言う事は…幕府軍はある程度の進軍計画を立てていたという事になりますな。」
「…こちらとしても、これ以上の幕府軍の合力は避けなくてはならない。」
と、これ以上の幕府軍の加勢によって毛利家の威信が傷つくことを恐れた隆景は、迅速な備前・美作での叛乱平定に乗り出す決意を固めると同時に、傍らにいた貞俊に向けて早速下知を飛ばした。
「貞俊、美作の高田城攻めに向かった杉原盛重に早馬を飛ばせ。宍戸隆家・和智誠春の軍勢を向けるので当月中にこれを攻め落とすべしと。」
「心得ました。」
隆景の命を受けた貞俊がその場で承服の意を示すと、続いて隆景は直家の方を振り向いて矢継ぎ早に指示を伝えた。
「直家殿、こうなってはこちらも総力で浦上を倒すとしましょう。宇喜多と誠宗殿の軍勢と毛利全軍、直ちに天神山城に向かいましょう。」
「相分かった。」
この直家の相槌を聞いた隆景はその場でこくりと頷くと、自身の側に控えていた政時に義秀からの書状を再び収めた上で手渡しながら指示した。
「その方、この書状を山陰の兄上の元に届けさせ、兄上に迅速に因幡を攻め落とすように伝えよ。」
「ははっ。」
その命を受けた政時は隆景からその書状を受け取ると素早くその場から去っていき、それに続いて直家や貞俊も各々の戦備えをするべく本陣を後にしていった。そして広間の中に一人残った隆景は床几に座りながら思考を巡らせた。
(…しかし、こうも迅速に反乱を鎮圧したとなれば、但馬の反乱も早いうちに静まるだろう。となれば懸念すべきは…)
隆景の中で懸念となっている事。それは即ち因幡国に根城を築いている尼子勝久ら尼子残党軍の存在であった。隆景や毛利家当主の毛利隆元、並びに隠居の毛利元就はこの内乱の隙に因幡を抑えつつ長年の怨敵である尼子家の息の根を止めようと画策していたのだ。しかし迅速な速度で反乱を鎮圧した幕府軍の前にその思惑が崩れる事を隆景は既に懸念していたのである。
「何っ!?幕府軍はもう播磨の反乱を鎮圧したとな!?」
そんな隆景のいる山陽から山向こう…山陰を進む毛利軍を指揮する吉川元春の元に隆景の所から来た政時が到着したのは二日後の十二月四日であった。この頃吉川元春が軍勢は因幡国には侵入していたものの、最初の難関である鹿野城攻めに当たり始めたばかりであった。
「はっ、手下の報告によれば幕府軍は既に但馬に到着し、守護である山名祐豊に反旗を翻した者共の鎮圧にあたっているとの事。」
「元春殿!このままでは鳥取はおろか尼子の残党を、我らが討ち果たすことは叶いませぬぞ!」
「分かっており申す!」
政時の手下が持ってきた新たな報告を聞いて、元春の副将を務めている舅の熊谷信直が意見を述べると、元春は信直の意見を聞いて苛立ち気味に返答し陣中にいた毛利家臣・天野隆重に向けて下知を伝えた。
「隆重!その方直ちに城方へ使者を送れ!開城いたすのであれば城兵は言うに及ばず、城主・中村春続も悉く赦免致すとな!」
「ははっ!」
元春にしてみればこの鹿野城は因幡山名家臣・中村春続が籠る前線の城であり、本来の目的である山名豊国が籠る布勢天神山城、武田高信の鳥取城を落とさねば鳥取よりさらに山奥にいる尼子の残党と戦うことも出来なかったのである。
そこで元春は鹿野城への開城を勧告。これに中村春続は渡りに船とばかりに城を開錠し主家の居城である布勢天神山城へと後退していった。これによって吉川軍は無血で鹿野城を制圧したが城の接収に貴重な一日を費やしてしまったのである。