1568年12月 戦況報告と御教書発布
康徳二年(1568年)十二月 山城国京
康徳二年十二月一日。秀千代こと宗密を仏門へと帰依させた高秀高は、この日「康徳播但擾乱」の対処に当たる各方面の戦況を報告するべく勘解由小路町の将軍御所に参上。将軍・足利義輝の代わりに広間にて管領・畠山輝長と政所執事・摂津晴門と面会していた。
「さて秀高殿、各方面の戦況は如何に?」
「はっ、概ね良好に進んでいます。」
将軍御所の広間に円を描くように座る秀高・晴門・輝長の真ん中に置かれた、播磨・但馬が描かれた絵図を指し示しながら秀高は二人に向けて現在までの戦況を事細かに報告した。
「まず播磨の方面ですが昨日十一月三十日時点の報告によりますれば、大高義秀指揮下の各軍は二十八日に長水城を攻め落とし、残る高倉山城も昨日、陥落したとの事。」
「おぉ、たった十日も経たずに播磨の反乱を鎮圧したと。」
その気持ちの良い戦果を聞いて晴門が喜ぶように反応すると、それに秀高は相槌を打って更に報告を続けた。
「はっ、義秀の報告によれば赤松政秀とその嫡子である赤松広秀の身柄は確保し、政秀に同心した福原則尚、宇野祐清など一族郎党は悉く討ち取ったとの由。」
「なんと…ここまで早ければ但馬の反乱軍も度肝を抜かれる事であろうな。」
赤松義祐に反旗を翻した赤松政秀が僅か短期間で虜囚の身に落ちたと聞くや、その時点で福原や宇野といった播磨の政秀派の豪族たちは大いに士気を落としていた。ましてや大軍を擁する幕府軍の前に各地の豪族たちは衆寡敵せずに次々と敗れ去っていったのである。この報告を聞いて秀高と事態の対処を命じられた輝長も大いに驚いていると、秀高は続けて別方面の報告を両名に伝えた。
「…一方、細川藤孝殿指揮下の軍勢は二十五日に尾張から来援した我が軍勢を加えると翌日より奥丹波の諸城を攻略。二十七日には黒井城・高見城を攻め落とし荻野直正や赤井忠家などの赤井一族を討ち取ったとの事。」
「ほう…丹波の赤鬼も年貢の納め時か。」
「丹波の赤鬼」と呼ばれた荻野直正…秀高のいた元の世界では「赤井直正」とも呼ばれていた。この荻野直正もまた宗家の赤井忠家と共に幕府へ反旗を翻したのだが、尾張から来臨した山内高豊率いる「山内家軍」の前にあえなくその命を散らしたのであった。秀高はそんな直正の事を淡々とした口調で報告し、その事実にまたしても驚いている二人に報告を進めた。
「…その後軍勢は二手に分かれ細川殿の軍勢は横山方面に向かい一路丹後へと向かい、我らが軍勢は但馬へと進軍。道中抵抗した蘆田国住の小室城、足立基助の山垣城を攻め落とし、早馬の報告によれば我が軍勢は但馬国境を踏み越えて太田垣朝延が籠る竹田城を包囲しておるとの事。」
「ふむ…こんなにも早く但馬まで来たのであれば、さぞ反乱軍は肝を冷やしておろうのう…」
播磨に加えて丹波へと進んだ味方の幕府軍の戦功を聞き、晴門が敵である反乱軍の内情を考えながら発言した。すると秀高は手にしていた指示棒を脇に置いた後に播磨・但馬の後方…即ち西から挟撃する手はずの毛利隆元配下の毛利軍の動向について報告した。
「ちなみに西の毛利勢の動向にございますが、山陰は吉川元春の軍勢が因幡を攻め落とすべく伯耆八橋城まで進軍。山陽では小早川隆景の軍勢が三村親成の軍勢を加えて備前・美作に侵攻しているとの事。」
「なるほど、毛利も動きは素早いが幕府軍にはまだまだ及ばぬな。」
輝長がこう言ったのも無理はない。というのもこの十二月一日時点で毛利軍の動きは普通の戦国大名の行軍とさして変わらなかった…いや、幕府軍の進軍速度が異常なだけでありこれ自体が普通の進軍であったのだ。
事実山陽では毛利軍の部隊が三浦貞盛が籠る美作高田城の攻撃にかかったばかりで、小早川の軍勢はようやく宇喜多直家の本拠である備前岡山に到着したばかりだったのである。
そのような中で際立つ幕府軍の戦功の前に畏れ入った輝長は、共に内乱の総指揮を担当する秀高に向けて今後の方針を尋ねた。
「それで秀高よ、今後の動きはどうなる?」
「はっ、聞けば但馬の祐豊殿の苦境は変わりなしとの事。よって事前に策定していた通り、義秀指揮下の軍勢を但馬へ転進させます。」
「うむ…それで但馬の反乱も早急に静まる事であろう。」
この問いかけに晴門が満足そうに微笑みながら頷くと、ふとある事を思い出して秀高に言葉を投げかけた。
「…そうじゃ秀高殿、今日はそなたにこれを渡そうと思う。」
「これは?」
晴門は秀高の目の前に一つの重厚な桐箱を差し出し、それを見て秀高が晴門に尋ねると晴門は桐箱を指し示しながらその中身を秀高に伝えた。
「徳川殿から要請があった駿河国の処分を許可する上様からのお墨付きじゃ。これを早速にも徳川殿に手渡してやると良い。」
「お墨付き…まさか!」
晴門の回答を聞いて秀高がある事を察して言葉を発した。そんな姿を見た晴門は事情を察した秀高にニヤリと笑みを見せながらその桐箱の中身について触れた。
「うむ。言わば駿河侵攻を許可する御内書である。これで徳川家は大義名分のもと駿河を得る事が出来よう。」
「しかし、よく上様が友好関係を持つ輝虎影響下に手出しを許可しましたね?」
秀高が晴門に向けてこう尋ねたのには理由がある。というのも再興された鎌倉府の実権を握る上杉輝虎と将軍・足利義輝の蜜月関係は周知の事実であり、天文二十一年(1552年)の初上洛から両者は密接な関係を築いていた。言わば両者とも気心知れた間柄になっていたからこそ、秀高はその輝虎の勢力下である駿河侵攻を義輝が認めた背景を訝しんでいたのだ。するとそんな秀高に対して、晴門は至って冷静にその理由を告げた。
「何、上様にしてみれば此度の一件は輝虎ではなく今川氏真の失政を処分するというもの。これを打ち出されてはさしもの鎌倉府とて反発は出来まい。」
「…だと良いのですが。」
「ともかく、それを一刻も早く徳川殿に渡してやれ。」
晴門からこの言葉を受けた秀高は家康宛ての御教書を受け取ると桐箱を携えて御所から退出。そしてそのまま居城である伏見城へと帰城していったのである。