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1568年11月 康徳播但擾乱・前編 龍野城の悲劇



康徳二年(1568年)十一月 播磨国(はりまのくに)龍野城(たつのじょう)




 翌十一月二十五日、ここは所変わって捕縛された赤松政秀(あかまつまさひで)の本来の居城・龍野城である。前日に林田城(はやしだじょう)本郷祐之(ほんごうすけゆき)を攻め滅ぼしこの日の午前中に龍野城山麓を取り囲むように包囲した深川高則(ふかがわたかのり)指揮する深川家軍(ふかがわかぐん)一万の元にはすでに、前日に政秀と思しき者を捕縛し身柄を姫路(ひめじ)に送った旨が情報として伝わっていた。


「殿、どうやら戦功第一は高政(たかまさ)殿の手になりそうですな。」


「そう焦るでない三蔵(さんぞう)よ。」


 その深川勢の本陣の陣幕内にて、戦功を(はや)る思いで発言した狩野三蔵則吉かのうさんぞうのりよしに向けて大将の高則が自制するように発言し、床几(しょうぎ)に座りながら腰に差す刀の柄頭(つかがしら)を叩きながら言葉を続けた。


「あくまで姫路に送られたのは政秀本人と「(おぼ)しき者」じゃ。決して本人と決まった訳ではない。」


「されどもし政秀本人であった時には、目の前の龍野城や長谷山城(はせやまじょう)()衛藤忠家(えとうただいえ)は降伏して参りましょう。それでは手柄を立てることは出来ませぬ。」


「良いではないか。」


 高則に向けてなおも食い下がるように則吉が意見すると、それを聞いて高則の弟である助松高晴(すけまつたかはる)が兄に代わって三蔵に向けて意見した。


「そもそも此度の戦は反乱の鎮圧に主眼を置いておる。なまじ血が流れぬというのならばそれに越したことはない。それに政秀の本拠である龍野城を抑えたとなれば、政秀本人を捕縛した功績に匹敵するであろうぞ。」


「うむ。助松の申す通りでもある。」


 と、高則が弟の孝晴の意見に賛同するように頷いていると、陣幕を潜って深川家臣の歩兵隊指揮官・大原兵庫則行おおはらひょうごのりゆきが駆け込んできて姫路(ひめじ)からやって来た早馬の報告を伝えに来た。


「殿!先ほど姫路より早馬が到着!大高義秀(だいこうよしひで)様からの指示書を携えておりまする!」


「…どれ、見せてみよ。」


 則行からの報告を聞いた高則は弟の高晴や則吉が見守る中で早馬が持ってきた指示書を則行から受け取り、その場で封を解いて中に収められている書状に目を通した。すると高則はふっとほくそ笑んだ後にその場にいた家臣たちに向けてこう告げた。


「…皆、どうやら政秀は本人だったようじゃ。義秀殿の指示書には、「政秀本人の身柄を確保した旨を龍野・長谷山両城に伝え、降伏開城させて制圧した後は佐用郡(さようぐん)に向かうべし。」と書いてある。」


「なんと…では我らの腕の振るいどころは佐用郡という訳ですな。」


「あぁ、直ちにも開城の使者を——」


 と、高則が指示書に従い龍野城へ降伏開城の使者を送るよう下知を下していたその時に、その場に陣幕を潜って高則家臣の小原五郎則正(おはらごろうのりまさ)が駆け込んできて驚くべき報を伝えた。


「殿っ!山上の城兵どもが門を開き、こちらに攻め掛かって参りましたぞ!!」


「何っ!?」


 その報告を聞いて高晴が驚いて床几から勢いよく立ち上がると、それとは別に高則はゆっくりと床几から立ち上がって本陣から見える龍野城の遠景を見た。見ると確かに山上の龍野城から将兵が下山してくる様子が確認でき、それを見た高則はまるで狂喜するように笑い出した。


「…ふははは!!そうか、奴らこの軍勢を前に死にに来たか!ならばその意気に応えてやろう!」


 この高則の下知を聞いて戦に植えていた様子の則吉はニヤリと笑い、片や呆気に取られている則行や則正、それに弟の高晴に向けて高則は素早く振り返るとすぐさま号令を発した。


「全軍、揖保川(いぼがわ)を背に布陣を敷きなおせ!攻め掛かって参る城兵全て、あの世に送ってやろうぞ!」


「おぉーっ!!」


 この下知を則吉が勇ましい返事を発すると、その場にいた高晴らも負けじと喊声を上げた。ここに城攻めに備えていた深川家軍は麓を流れていた揖保川の北岸を背に陣を敷きなおして野戦の構えを取り、城方の攻撃に備えるのであった。




「進めぇ!!置塩に拠る殿を救うため、敵を打ち破るのだ!!」


 この勇ましくも無謀な戦いを仕掛ける龍野城の城兵を率いるのは、幼い政秀の嫡子・赤松広秀(あかまつひろひで)の代わりに城代を務めていた島津忠之(しまづただゆき)であった。この忠之、その名の通り先祖はかの薩摩島津氏(さつましまづし)の流れを汲む事もあり連戦で疲れている深川家軍を野戦で打ち破らんと目論んでいたのである。


「はっ、むざむざ死にに来たとしか思えぬな。歩兵隊、前へ!」


 しかし、その出撃策は高則率いる深川家軍から見れば自ら命を捨てに来たようにしか見えなかった。この城方の行動を鼻で笑った歩兵指揮官の則吉は馬上から下知を振るうと、それを受けて槍足軽が二列縦隊を組んで城方の将兵の前に整列した。そして一斉に槍の切っ先を城方の将兵に向けると、それを見た則吉は勢いよく下知を発した。


「かかれぇ!」


 この下知を受けた槍足軽たちは則吉の側に控える弓足軽たちの援護射撃を受けながら城方の将兵を迎え撃った。やがて双方の将兵が交わって乱戦状態となると多勢に無勢、尚且つ戦経験が豊富な深川勢は播磨武士の名で知られた城方の将兵を次々となぎ倒していった。


「ぐわあっ!!」


「はっはっはっ!やはり数に違いがあるわ!このまま囲んですり潰せ!」


 味方の優勢を狂喜するように喜んだ則吉は馬上から更に将兵を督戦した。この督戦を受けると深川勢は勢い盛んに城方の将兵を薙ぎ倒していき、やがて一人の足軽から突き出された槍が馬上にて戦っていた忠之の胴体を貫いた。


「ぐはっ…と、殿…。」


 この槍を受けて忠之は(うめ)き声を上げるともんどり返る様に馬上から転げ落ち、そのまま呆気なく首を取られたのである。この僅か半刻(はんこく)(一時間ほど)の間に終わった龍野城下の戦いは傍から見れば虐殺ともいうべき一方的な戦いであり、何よりも残酷なのは余りにも無謀な戦いを仕掛けた忠之ら城方の将兵は、昨日の内に主君の政秀が捕縛された事を微塵も知らなかったことであった…。


「殿、これが城代の島津忠之が首にございまする。」


「そうか…愚かな男よ。開城の使者を送る前に死にに来るとはな。」


 やがて全ての戦が終わった後、深川勢の本陣にて高則は床几に座りながら則吉が差し出した忠之の首を見つめながら半ば憐れむように発言した。その発言の後に高則は側の床几に座っていた則行に向けてこう発言した。


「兵庫、この首を姫路に送れ。それと長谷山には開城の使者を送ったか?」


「はっ、既に使者を送っておりまする。」


 高則から問いかけられた兵庫が食い気味に即答すると、その返答を聞いた高則はやや満足そうに頷いた。


「ならば良い。早急に接収を終え次第、佐用郡の福原(ふくはら)攻めに向かうとするか。」


「ははっ。」


 高則の言葉を聞いた高晴が返事を返すと、高則はスッと床几から立ち上がって守る将兵が居なくなった無傷の龍野城を見つめるのであった。


 その後、龍野城に残っていた政秀の子・広秀は捕縛されて父を追うように身柄を姫路、(みやこ)へと送られていき、最後に残った長谷山城の衛藤忠家は事の顛末全てを耳にするともはや抵抗は無意味と悟り、自身も神妙に縄について長谷山城を開城した。こうしてわずか三日の間に赤松政秀の勢力圏を制圧した義秀率いる幕府軍は、残る播磨国内の残敵掃討に当たることになる。ここに康徳播但擾乱こうとくばんたんじょうらんの内、播磨で起こった内乱騒ぎは短期間で終息へと向かおうとしていたのである…。





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