1568年11月 荒法師討つべし
康徳二年(1568年)十一月 山城国比叡山
康徳二年十一月十八日早暁。京より北東に鎮座する比叡山に存在する延暦寺境内は物騒な雰囲気を醸し出していた。根本中堂の前の広場には手に薙刀を握り締めた僧兵三千名が居並び、その僧兵を前にして叡山の高僧である豪盛が根本中堂の基壇の上に置かれた日吉大社の神輿を前に、居並ぶ僧兵に向けて声を掛けた。
「良いか!これより我らは京の幕府、並びに朝廷へ強訴を起こす!我らが叡山の自存を脅かす幕府の政策を廃止させ、叡山の権威を守れ!!」
「おぉーっ!!」
豪盛の呼びかけに応じるように、裏頭の袈裟を被り鎧に身を固めた僧兵たちが薙刀を叩く掲げ喊声を上げた。その喊声を見た豪盛は僧兵たちを扇動するように号令を発した。
「いざ!強訴じゃ!!」
「強訴!!強訴!!」
この豪盛の号令を聞いた僧兵たちは口々に強訴と叫びながら、基壇に据え置かれていた神輿を担いで比叡山から下山をし始めた。やがてその僧兵たちの群れは夜明けを告げる日の光を東から浴びながら、日光が差し込む山道の中を仰々しく進んでいった。そんな強訴を企図する僧兵たちが目指す目標である京の将軍御所に、伏見城から高秀高が軍勢を引き連れて参上したのは、それから数刻後の事である。
「…来たか。秀高。」
その将軍御所の大広間にて、鎧に身を包みながら烏帽子を被った秀高が単身参上し、上座に座る将軍・足利義輝の面前に座ると一礼した後に頭を上げて義輝にこう報告した。
「はっ。伏見より我が手勢三千を引き連れて参りました。明日中には近江側の坂本口に前野長康、坂井政尚らの軍勢六千が向かう手はずとなっております。」
「そうか…それにしても叡山め、まさか真に強訴を起こすとはな…」
秀高の挨拶を受けて義輝が上座にて扇を片手に、噂程度であった強訴を実行した叡山に苛立ちを露わにしていると、その義輝に向けて下座に控えていた幕臣・柳沢元政が叡山が起こした強訴について懸念事項を進言した。
「されど上様、強訴ともなれば叡山の僧兵どもは山王権現の神輿を前面に押し出して参ります。山王権現はいわば王城鎮護の象徴。これを阻む訳には…。」
「何を言うか元政。そうやって僧兵の跳梁を許してきたからこそ、今の今まで叡山の増長を招いておるのだ。ここは毅然とした判断を下さねばならぬ。」
「毅然とした、とは?」
義輝の叱りともいうべき反論を受けて、元政が義輝の発した言葉の単語をオウム返しして義輝に尋ねると、義輝は下座の目の前にいた秀高の方を振り向き、毅然とした態度で下知を下した。
「秀高、これはこのわしの権限で命ずる。洛中への叡山の僧兵の闊歩を阻止せよ。その際叡山の僧兵、また神輿に向けて遠慮なく矢玉を放っても構わぬ。」
「な、上様!それはなりませぬ!強訴への攻撃は幕府の尊厳を損ないかねませぬ!」
「左様!強訴に苛立ち叡山に手を出した足利義教公や細川政元公がどのような末路を辿ったか、お忘れではありますまい!?」
元政に続いて義輝に諫言した三淵藤英の言葉通り、叡山の強訴に憤って手を出した者の末路は悲惨な物であった。事実足利義教や細川政元はその数年後に暗殺されるという末路を辿っていたのである。しかしそんな懸念を受けてもなお、義輝は一歩も引きさがることなくその場にいた秀高や元政ら幕臣たちに向けてこう言葉を発した。
「案ずるな。この強訴の一件、朝廷の耳にも入っていたらしく断固阻止すべしとの叡旨を晴良卿より昨日承った。秀高、奴らが神輿を担いで強訴に及ぼうとするのであれば、こちらは帝の威光を前面に押し出して阻止せよ!」
「は、ははっ!!」
朝廷が強訴の噂を聞きつけて、幕府に強訴阻止を要請してきたことを義輝の口より知った秀高は、直ぐに会釈をして相槌を返した。すると義輝はその会釈を見た後に上座で叡山の僧兵について苦々しい本心を吐露するように語り始めた。
「そもそも、叡山の僧兵は日がな一日仏にお経を上げるわけでもなく、酒色にふけって魚肉を喰らい女色に溺れて放蕩三昧と聞く。このありさまでありながらこの増長しきっている僧兵に今の今まで仏罰が降りぬなど、とても正気の沙汰とは思えぬ!」
「しかし上様、上様の申すように全ての諸悪の根源を叡山の僧兵のみとするならば、叡山にある根本中堂やそこにおわす座主・高僧には全く非はありません。ここはこの秀高にお任せください。必ずや叡山の強訴を阻み僧兵を返り討ちにして見せます!」
「何を怖気づいておるか秀高!!」
と、秀高の返答の中に少しばかりの怖れを感じた義輝は満座の中で怒鳴りつけるように反駁すると、扇を秀高に向けて指しながら秀高の迷いを断ち切る様に断言した。
「これは単に叡山の強訴を阻むのではない。中世以降悪名高い叡山の僧兵を根絶やしにし、平安の御世の悪しき風習に囚われたままの叡山や山王二十一社を祓い清める為の戦いである!秀高!これはそなたの心の中に秘める今後の方策に沿う事ではないのか!?」
「…」
この言葉を義輝より受けた秀高は大広間の下座にて頭を俯きながら、まるで冷水を頭に浴びせられたかのような衝撃を受けていた。確かに秀高の内心には、中世以降はびこっていた寺社の僧兵を排除し、近世的な寺社勢力に変化させようという大望を秘めていた。しかしそれとは別に叡山への手出しはやがて延暦寺の焼き討ちに繋がり、それによる仏罰を恐れている秀高はこの状況になっても、別の打開策をその場にて模索していた。
そんな秀高に向けて義輝は一喝した後に現実を見据えながら先程の言葉を秀高に投げかけた。この言葉を受けた秀高は、幕府の長である義輝の覚悟をひしひしと感じ取ると同時に、義輝のその言葉の中に元の世界にて知識の中にある織田信長像がぴったりと当てはまる事に深い衝撃を受けた。事実、上座にて見せている義輝の瞳は今までの眼が据わる視線ではなく、まるで情熱に燃え滾るような熱い視線を秀高に送っていたのである。
「…全ての責めはこのわしが受け持つ。秀高、何も気にせず我が命に従え!」
「…ははっ。」
先ほどの義輝の断言と、この一歳の責任を受け持つ旨の言葉を受け取った秀高はもはや何も言わずに、深々と頭を下げて会釈した。この瞬間、秀高は幕府や朝廷の方針に沿い強訴の阻止、そして叡山の荒法師と呼ばれた僧兵の徹底的な排除を拝命し、そのまま大広間を後にして将軍御所の外にて待機する小高信頼らの元へと向かって行った。
やがて将軍御所の玄関を出て西門から邸外に出ると、そこにて待機していた信頼や三浦継高、それにこの軍勢に同行して来ていた口羽善助通朝が秀高の方を振り返り、その中で信頼が秀高に言葉をかけた。
「…秀高、どうだった?」
「あぁ…これより俺たちは幕府、そして朝廷の意向に従い洛中に迫る叡山の僧兵を迎え撃ち、そのまま叡山を祓い清める。」
「祓い清める…まさか!?」
秀高の言葉の中にあった「祓い清める」という隠語のような単語を聞いた通朝が何かを察して驚くと、通朝と同じように隠語の真意に気づいた信頼が小声で秀高に聞こえるように相槌を打った。
「そう…やはり叡山は燃える定めなんだね…。」
「あぁ。だがそれと同時に上様はこう言った。「全ての責めはこのわしが受け持つ」とな。」
秀高が信頼らの視線を背中に受けながら、視線を北西方向に見える比叡山の遠景をじっと見つめながら義輝より受け取った言葉を信頼らに伝えた。するとそれに対して相槌を打ったのは秀高と同じように比叡山の方角に視線を向けていた通朝であった。
「受け持つ…か。」
「どうやら、世界の理はこの俺にどうしても叡山を攻めろ、と言っているみたいだな。」
「良いではないか。」
と、秀高の言葉に通朝は直ぐに返事を返すと、その言葉を聞き驚いて自らの方を振り向いた秀高に対して通朝は秀高は顔を向き合ってから言葉の続きを述べた。
「確かに今の時代では叡山を燃やすことに抵抗があろう。だが我らの時代の頃には叡山を含め僧兵の跋扈は一切無くなっている。誰かがやらねばならぬというのなら、我らが貧乏くじを引いてやるべきであろう。」
「…貧乏くじ、か。」
通朝が来た元の世界…所謂幕末の時代には通朝の言うように寺社勢力は戦国時代の頃のような権勢を失っていた。その一因ともいうべき僧兵の排除を後押しするような発言を受けた秀高は再び比叡山の方角を仰ぎ見るように振り向くと、通朝に向けて懸念を吐露した。
「だが、問題はどうやって僧兵の排除に大義名分を持たせるかだ。如何に朝廷の御意とは言え、将兵の中には神輿を掲げて迫り来る僧兵に立ち向かう事を躊躇している者もいるだろう。如何すればいいだろうか…」
「何、簡単な事よ。あれを掲げれば良い。」
「あれ、ですか?」
通朝がニヤリと笑いながら打開策を提示すると、通朝の言葉に引っ掛かった信頼が秀高の代わりに相槌を打った。すると通朝は秀高と信頼に近づいて耳元でその打開策の鍵となる代物の名前を伝えた。
「…なるほどな。だがそれを今すぐに用意できる物なのか?」
「案ずるな、こんなこともあろうかと結衣や愛衣の二人と協力して作っておいたのだ。いずれは役に立つと思ってはいたがこうも早く出番が回ってくるとはな…」
「…ならば、一応の僧兵排除の体裁は保つことが出来るね。」
通朝の言葉を聞いた信頼は納得しながら秀高に話を振ると、秀高は信頼や打開策を伝えて来た通朝の顔を見つめた後に首を縦に振って頷き決意を表明した。
「あぁ。ならば俺も覚悟を決めよう。これより叡山の強訴を阻み、驕り高ぶる僧兵を根絶やしにする!継高!出陣だ!」
「ははっ!!」
この秀高の下知を受けた継高は勇ましい返事を返した。ここに秀高の軍勢三千は京の将軍御所を発し、叡山の京側の出口である北白川へと向かうべく鴨川を渡河して吉田神社がある吉田山の方角へと向かって行った。ここに康徳播但擾乱に畿内が揺れる最中、突如として起こった叡山の強訴を阻むべく秀高は叡山の僧兵との戦いに臨むのであった。