1568年11月 出陣する幕府軍
康徳二年(1568年)十一月 山城国京
康徳二年十一月十七日。但馬・播磨などで起こった「康徳播但擾乱」に対処するため、いよいよ高秀高指示のもと幕府軍が出陣する日当日となった。この日の朝、前日に京に着いていた大高義秀は正室の華と共に京の秀高屋敷を訪れ、最後の打ち合わせともいうべき軍議を行った。
「それにしても、まさかあの師団制を参考にした軍団システムを試す時がこんなにも早く来るとはなぁ。」
「あぁ。この戦いでいろんな経験を得る事になるだろうさ。」
播磨への出陣の前に京の秀高屋敷を訪れた義秀夫妻を、屋敷の主である秀高がわざわざ玄関口まで出迎えに行き、軍議の場である屋敷内の重臣の間へ向かう最中に、秀高と義秀は重臣の間までの廊下を歩きながら会話を交わしていた。やがて二人が敷居を跨いで重臣の間の中に入ると、その間の中では軽装の武具を身に付けた側近たちが慌ただしく働いており、その中で義秀夫妻と秀高は重臣の間の中にいた小高信頼の側にまで歩いてくると、秀高は信頼の目の前に置いてあった机の上に広がる絵図を指し示しながら会話を続けた。
「…神余高政の通称「神余家軍」はこの山城の高家直轄の足軽を、深川高則の通称「深川家軍」は和泉と淡路にいる直轄の足軽たちをそれぞれ集めている。二つの軍ともその数は一万ほどになるだろう。」
「まぁ、本当は一万五千ほど欲しかったんだが…まだ試験段階だし無理がない数で十分だろうな。」
この頃、秀高らは新たな軍制である軍団システムの試験をこの内乱鎮圧で実践すべく、軍奉行である義秀と談合の下で軍団を編成した。即ち山城は伏見城周辺に在留する足軽たちを纏めた「神余家軍」、和泉岸和田城や淡路に駐留する足軽たちを纏め編成した「深川家軍」である。その軍団の事を義秀が念頭に置きながら発言すると、それを聞いていた信頼が首を縦に振って言葉を発した。
「後、秀高の命で山内高豊が尾張の高家直轄の足軽たちを集めて軍団を編成する手はずになっているんだ。この「山内家軍」一万を合わせた合計三万の兵力で、今回の反乱鎮圧を行おうと思うんだ。」
「まぁ、これは高豊配下の家臣たちが技能を習得するのを努力して早めてくれて、かつ名古屋留守居の重勝や盛政らの協力あって編成できた軍勢だけどな。」
「なるほどな…で?肝心の兵站はどうなってる?」
秀高の言葉の後に、兵站を管轄する兵馬奉行を兼ねている信頼に対し義秀が兵站に関する状況を尋ねると、信頼は机の上に広げられている絵図を睨みつけながら現時点での状況を義秀に伝えた。
「事前にこちらから内藤宗勝殿や波多野元秀殿、荒木村重殿や別所安治殿に頼み込んで道路の整備や兵糧庫の建設を行ったんだ。これで容易に山陽道や山陰道に向かうことが出来るよ。」
「…まぁ、その切っ掛けは先の幕政改革評議の結果なんだがな。」
先の幕政改革評議にて、幕府は関所の統廃合を行う事を決定したが、それに付随する事項として畿内、特に幕府従属諸侯の領内にて道の整備の行う事を後々に決定した。それに従い幕府従属諸侯、特に先程話題に上がった内藤や波多野、荒木などの諸侯は率先して蛇行する道を改修して所々を棒道として整備した。これによって軍勢の迅速な進軍を可能にしたほか、今後導入予定である馬車を用いた商取引などの交易も可能になるのである。
「まぁ良いじゃねぇか。そうしてもらったおかげで、俺たちは迅速に反乱鎮圧に向かえる。結構な事じゃねぇか。」
「…そうだな。」
「殿、細川藤孝殿が参られました。」
と、そんな秀高らに向けて屋敷勤めをしていた側近の林通政が現れて秀高屋敷を丹波口へと出陣する藤孝が来訪したことを告げた。その通政の報告の後に重臣の間の中に藤孝が鎧に身を包み、兜を脇に抱えて持ちながら現れるとその場にいた秀高らに挨拶を述べた。
「これは秀高殿に義秀殿。両者御揃いとは話が早い。」
「何かありましたか?」
秀高が来訪して来た藤孝に向けて用向きを尋ねると、藤孝は秀高らがいた机の元に近づくと三人に聞こえるような小声で自身が掴んだある情報を伝えた。
「…実は先ごろ幕府に山名祐豊殿から密使が参り、幕府軍進軍の方を聞きつけた叛乱軍が加陽城に攻め掛かり、加陽国親を討ち取って加陽城を占拠したとの事。」
「何ですって!?」
藤孝が秀高らに伝えた情報、それは但馬国内にて数少ない祐豊派の一人であった加陽国親が、山名棟豊ら反乱軍に攻められて落城したという情報であった。秀高はその情報を聞いてから机の上に広がる絵図を見つめていると、情報を伝えた藤孝は絵図を見つめる秀高に向けて言葉をかけた。
「…これで祐豊殿は円山川から出石川より東側に押し込まれたことになりましたな。」
「そうなったのなら、急いで出陣した方が良いですね。」
藤孝の言葉を受けて秀高が藤孝の方を振り向き、その言葉を発すると秀高は藤孝に絵図を指し示しながら状況を踏まえた上で指示を下した。
「稲生衆の報告によれば、高見城の赤井忠家は黒井城の叔父・荻野直正と共に波多野家の一族・波多野宗高殿の氷上城を攻囲しているとの事。これに元秀殿は先行して軍勢を差し向けたとの事ですので、藤孝殿は宗勝殿と合流して赤井勢の撃破をお願いします。」
「承知した。それで肝心の尾張からの軍勢はどれほど入るので?」
秀高の指示を受けた藤孝は、事前に聞いていた尾張から来る山内家軍の到着時期を尋ねた。するとそれに答えたのは進軍情報を管轄する兵站奉行の信頼である。
「こちらの試算では、おそらく八日ほどで到着すると思います。」
「八日!?それほどで着くと言われるか。」
藤孝がこのように驚いたのも無理はない。というのも藤孝の頭の中ではこの時、尾張から来る秀高の援軍の参着時期は一~二週間以上かかると予測していたのだ。この当時の戦国時代の状況から考えればあり得ない速度の到着時期を聞いて藤孝が秀高の方を振り向くと、信頼の情報を同じように聞いていた秀高は首を縦に振って頷いた。
「はい。ですので藤孝殿、もし軍勢の差を見て可能ならば赤井・荻野勢の撃退並びに、両城の攻略をお願いします。」
「承知いたした。丹後の事は我らにお任せあれ。それでは。」
藤孝は秀高からの言葉を受けると会釈して一礼し、そのまま踵を返して外へと出て行った。去っていった藤孝の後姿を見届けた秀高は視線を義秀夫妻の方に向け、再び絵図を指し示しながら下知を下した。
「…それで義秀、お前はまず高政の軍勢を連れて二日後には伊丹城に着陣しろ。そこで高則の軍勢と合流し三日後の二十二日ごろには小寺職隆殿の姫路城まで進軍しろ。」
「二十二日ごろだな?分かったぜ。それで着いた後は赤松攻めか?」
義秀が絵図を指し示す秀高の指先を見つめながら相槌を打つと、それを聞いた秀高が絵図を見つめながら首を縦に振って言葉を返した。
「あぁ。龍野に置塩、上月攻めだ。おそらくその頃には備前と美作、因幡に毛利軍が攻め掛かっているはずだ。三城の攻略が終わり次第、義秀の軍勢は反転して但馬に向かってくれ。」
「なるほどな、あくまで因幡に美作と備前は毛利に取らせるんだな?」
「そうだ。」
この義秀の念を押す様に聞いた尋ねに、秀高は視線を義秀に送り顔をじっと見つめながら首を縦に振った。それを見た義秀はふっとほくそ笑んだ後に言葉を秀高へ返した。
「分かったぜ。じゃあ俺も行ってくる。秀高はここで俺たちの戦果を楽しみにしてろよ。」
「それじゃあ秀高くん、行ってくるわね。」
義秀の言葉の後に、側にいた華が秀高へ挨拶をかけると、二人ともそのまま踵を返して重臣の間から外へと出て行った。そして二人がその場を去っていった後に秀高は信頼に口を近づけて小声でこう尋ねた。
「…信頼、稲生衆の人員はどれくらい西国に割いてる?」
「中村一政を頭に全体の三分の一ほどを割いてるよ。」
秀高配下の忍び衆である稲生衆の配置具合を信頼から伝えられた秀高は、その回答に満足するように頷いた。
「それで良い。一政に但馬や播磨だけではなく、美作に因幡などの戦況も探らせろ。」
「うん、分かった。」
信頼はその下知を受けてこくりと頷き、それを見た秀高は重臣の間の中にある机の上の絵図を再び見つめ、この先の戦況に思いを馳せた。こうしてここに細川藤孝が指揮する丹波口の軍勢、並びに大高義秀が指揮する播磨口の軍勢がその日の内に京から出陣していき、秀高一行は京から出陣していくそれらの軍勢を屋敷の門前で見送り双方の健闘を心の中で祈ったのだった。